第百十八話 新緑の水鏡に一滴 7
稔は曾根崎と話を続けた。
「それじゃあ、今は貸家で六畳一間分の部屋だけで描いていると。」
「ええ、特に今まで不便も感じなかったので。」
曾根崎はゆっくりと足を組むと、膝の上に両手を重ねて、少し背もたれの方へ倒れた。
ふう、と息を吐くと、膝の上で指をたんたんとリズムをとるように打った。
「もう少し、広い世界へ出てみませんかね。」
「…広い世界といいますと。」
「まあ、広いかどうかは人によりますがね。少なくとも、一年か二年はワタシの囲う画家として生活する事になりますが、マァ、飛び立つ為の準備と思えばいい。
日本だけでも、まだアナタの届いていない場所はいくつでもある。」
曾根崎は天井を見てから、視線を稔に戻した。
「アナタの絵は妻が気に入っていて、それで気になって来てみたんだ。そして思いがけずいいものだと思った。」
「ありがとうございます。」
「さっき、店主が言ったように、ワタシは土地で成金になったしがない奴だ。」
「言ってませんよ、曾根崎さん。」
画廊店主が渋い顔をする。
「まあ、要約すれば同じだろ。
金があって、女も手に入って、後は何があると言われたら、名誉が欲しいが、自分の地位じゃない。
名のある芸術家に関わりたい。
自分が死んだ後に、絵が残って、それがワタシと画家との関わった証として、後世に残してみたいんだ。」
曾根崎は、くくくっと自嘲気味に笑うと、組んだ足を戻して、また煙草に火を点けようとして手を止めた。
「いや、吸わないよ。失敬失敬。」
「曾根崎さんが言うほどの画家であるとは、思えませんが。」
稔がぽつりと答えた。
「それはワタシも分からない。だが、アナタを一年か二年ほど囲う間には、ワタシを何度か描いてもらうでしょう。その絵が残ればいいんです。
ワタシが人と関わりを持った証として、残ればそれでいいんですよ。」
曾根崎は膝の上に右肘をのせて、ふらふらと右手を振った。
「戦争で全部焼けて、何も持たなくても生きていけると、ここまでやってきましたが、なんだかそれも侘しく思えてね。
ああ、年寄りじみていけない、いけない。
金持ちの道楽と思ってくれればいいんです。
住む所と絵を描く所、それに何人か人もつけましょう。家事はそれにやらせればいい。さっきの奥さんを描いてもいいし、必要なモデルを連れてきてもいい。
面倒は全てワタシが見ます。
だから、藤村先生は頷いてくれればいいんです。」
稔は、ざわざわとした画廊の中の音を聴いて、曾根崎から視線を外し、じっと床を見つめた。
一年か二年であっても、早苗にいい暮らしをさせてやれる。家事もしなくてもいい。早苗のしたいことをしていいと言える。
ほんの僅かな期間でも、早苗の笑う顔を眺めていられるなら。
「…絵を描き続ければ、早苗に楽をさせられるのでしょうか。」
俯いたまま、稔が小さな声で、誰に言ったのか分からない問いを出した。
稔の隣に座っていた画廊店主は、
「それは藤村先生がこれからどれくらいの作品を描いていけるかによります。もちろん、良い作品が出来たら展示させていただきますよ。」
と、言い、向かいに腰掛けている曾根崎は、
「女を幸せにしたいんなら、死に物狂いでやりな。手を抜いたらそこで見限られる。」
と言った。
稔が曾根崎の言葉の激しさに、怪訝な顔をすると、
「最初の女房がそういう女だったんだよ。粋な女で、ワタシには高嶺の花だった。それでも死に物狂いで働いて口説いたら、手を抜かない男ならいいだろうって。」
鼈甲の眼鏡の下で、曾根崎は目を細めて笑った。
「今の女房には内緒で描いてもらおうかな。死んだ女房の絵を描いてくれよ。」
稔はそれを聞いて、曾根崎の話を受けてみようと、右手を伸ばした。




