表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
118/182

第百十七話 新緑の水鏡に一滴 6

 戦争が当たり前だったあの頃、絵を描く人間は冷めた目で見られた。


 それでも絵を描き続ける人間は絶えず、学生も毎年いた。きっと彼らは、戦地でも絵を描く事を考えていたのだろう。


 画廊店主として長く銀座に身を置いてきた。


 大衆に向けて絵を描こう、労働者にも絵を。ひたすら抽象画を描いていたあいつに、版画を彫師摺師(ほりしすりし)に任せず、全て自分でやっていた奴。油彩だろうが水彩だろうが版画だろうが、描きたいように描けばいいと酒を酌み交わしていたのは、夢だったのではないかと、時々思うこともあった。


 たが、空襲で焼けて無くなったと思った絵が、疎開先で残っていた時の胸を打つ喜びと涙は、夢ではなく現実だったと教えてくれた。


 死んだ奴の絵が残った未来を、これから新しい絵を描く奴らの行く末を、両方抱えてここで共に歩みたい。

 これからは、絵を描く事が存分に出来る時代だ。


 店主は口元をきゅっと上げると、恰幅の良い腹を揺らしながら、客の方へと向かった。





「ああ、藤村先生の奥様ですよ。」


 早苗が応接部分で客と話す画廊店主の近くへ行くと、そんな声が聞こえた。

 仕切りのない場所なので、早苗は振り返って頭を下げた。


「藤村稔の妻です。」

「おお、これはお綺麗な方だ。」


 一目で上等と分かる三揃いの背広を着た、白髪頭に口髭のある、鼈甲の眼鏡をかけた男が椅子に座ったまま答えた。


「初めまして。曾根崎(そねざき)といいます。今度、藤村先生に絵を頼みたいと思いまして。」

「奥さん、展示会の初日に来ていたと前にお伝えしていた社長ですよ。信用出来る方ですから、是非にもご紹介を。」


「ああ、でも絵を描くのはおれのじゃないよ。この展示会のように女たちを描いて欲しいんだ。」

「あら、どなたか、女性の方が?」


「希望があれば、探して連れてきてもいい。まあ、要はパトロン…支援者だな。絵を描く人間に前から興味はあったんだが、風景とかは今ひとつなぁ。

 だが、こんな風に女たちを綺麗なまま描くのは、いいものだと思ってな。」


 ふっふっと曾根崎が笑う。


「曾根崎さんは、この辺りにも土地を持ってますが、他には家も何軒か所有してるんですよ。その内の一軒を藤村先生のアトリエにして、絵を描いてみないかと申し出があったんですよ。」


 ほくほくとした笑顔で、画廊店主が口を添える。


「まあ、一年か二年だけだがな。それ以上は藤村先生の力次第だ。」


 曾根崎はマッチを擦ると、両切りの煙草に火をつけた。


「ああ、済まない。絵にヤニがつくか。一本だけ吸わせてくれ。」


 すうっと、煙草を吸う口元には強く皺が寄る。曾根崎は五十歳半ばぐらいだろうかと早苗は見当をつける。


「あの、主人とはもうお話を?」

「ああ、いえいえ。今、曾根崎さんが来たばかりで。あのお客様から離れたら呼ぼうかと思ってました。」


 曾根崎がふうっと紫煙を撒く。


「奥さんを描いた絵はないんですね。」

「家にはたくさんあるのですけれど。」


 早苗が苦笑いを浮かべながら答える。この展示会場に並べては、悪い意味で浮いてしまうだろう。


 瑞々しいモデルたちの中に、着物姿の年増の早苗。

 それは今回の作品展の主旨に合わない。


「ほう、やはり描いてますか。是非見せていただきたいものですな。」

「曾根崎さん、奥様の絵は非売品なんですよ。」


 内緒話のように画廊店主が声をひそめて話す。


「それはそれは。じゃあ、おれの妻も描いて貰ったら、非売品にしなくてはな。」


 はははと早苗たちが笑い合っていると、客と話し終わった稔が寄ってきた。


「早苗、こちらの方は?」

「稔さん。あの、なんでも支援者になりたいと。曾根崎さんという方なんだけど。」


 早苗がこそこそと稔へ教える。稔は早苗が目的で話しかけられたのではない事を確認して、画廊店主と曾根崎の輪に入った。

 稔が椅子に座るのを見計らって、竹中が早苗を呼んだ。


「あの、藤村先生たちと一緒に今夜は前に行った洋食屋に行きませんか?」

「………洋食屋だけならいいですよ?」


 早苗がにっこりと笑って答えると、竹中は慌てたように「もちろんです!」と大袈裟に首を縦に振って答えた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] パトロンゲットだぜ! でも本当に信用して大丈夫かな?( ˘ω˘ )(疑り深い)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ