第百十七話 新緑の水鏡に一滴 6
戦争が当たり前だったあの頃、絵を描く人間は冷めた目で見られた。
それでも絵を描き続ける人間は絶えず、学生も毎年いた。きっと彼らは、戦地でも絵を描く事を考えていたのだろう。
画廊店主として長く銀座に身を置いてきた。
大衆に向けて絵を描こう、労働者にも絵を。ひたすら抽象画を描いていたあいつに、版画を彫師摺師に任せず、全て自分でやっていた奴。油彩だろうが水彩だろうが版画だろうが、描きたいように描けばいいと酒を酌み交わしていたのは、夢だったのではないかと、時々思うこともあった。
たが、空襲で焼けて無くなったと思った絵が、疎開先で残っていた時の胸を打つ喜びと涙は、夢ではなく現実だったと教えてくれた。
死んだ奴の絵が残った未来を、これから新しい絵を描く奴らの行く末を、両方抱えてここで共に歩みたい。
これからは、絵を描く事が存分に出来る時代だ。
店主は口元をきゅっと上げると、恰幅の良い腹を揺らしながら、客の方へと向かった。
「ああ、藤村先生の奥様ですよ。」
早苗が応接部分で客と話す画廊店主の近くへ行くと、そんな声が聞こえた。
仕切りのない場所なので、早苗は振り返って頭を下げた。
「藤村稔の妻です。」
「おお、これはお綺麗な方だ。」
一目で上等と分かる三揃いの背広を着た、白髪頭に口髭のある、鼈甲の眼鏡をかけた男が椅子に座ったまま答えた。
「初めまして。曾根崎といいます。今度、藤村先生に絵を頼みたいと思いまして。」
「奥さん、展示会の初日に来ていたと前にお伝えしていた社長ですよ。信用出来る方ですから、是非にもご紹介を。」
「ああ、でも絵を描くのはおれのじゃないよ。この展示会のように女たちを描いて欲しいんだ。」
「あら、どなたか、女性の方が?」
「希望があれば、探して連れてきてもいい。まあ、要はパトロン…支援者だな。絵を描く人間に前から興味はあったんだが、風景とかは今ひとつなぁ。
だが、こんな風に女たちを綺麗なまま描くのは、いいものだと思ってな。」
ふっふっと曾根崎が笑う。
「曾根崎さんは、この辺りにも土地を持ってますが、他には家も何軒か所有してるんですよ。その内の一軒を藤村先生のアトリエにして、絵を描いてみないかと申し出があったんですよ。」
ほくほくとした笑顔で、画廊店主が口を添える。
「まあ、一年か二年だけだがな。それ以上は藤村先生の力次第だ。」
曾根崎はマッチを擦ると、両切りの煙草に火をつけた。
「ああ、済まない。絵にヤニがつくか。一本だけ吸わせてくれ。」
すうっと、煙草を吸う口元には強く皺が寄る。曾根崎は五十歳半ばぐらいだろうかと早苗は見当をつける。
「あの、主人とはもうお話を?」
「ああ、いえいえ。今、曾根崎さんが来たばかりで。あのお客様から離れたら呼ぼうかと思ってました。」
曾根崎がふうっと紫煙を撒く。
「奥さんを描いた絵はないんですね。」
「家にはたくさんあるのですけれど。」
早苗が苦笑いを浮かべながら答える。この展示会場に並べては、悪い意味で浮いてしまうだろう。
瑞々しいモデルたちの中に、着物姿の年増の早苗。
それは今回の作品展の主旨に合わない。
「ほう、やはり描いてますか。是非見せていただきたいものですな。」
「曾根崎さん、奥様の絵は非売品なんですよ。」
内緒話のように画廊店主が声をひそめて話す。
「それはそれは。じゃあ、おれの妻も描いて貰ったら、非売品にしなくてはな。」
はははと早苗たちが笑い合っていると、客と話し終わった稔が寄ってきた。
「早苗、こちらの方は?」
「稔さん。あの、なんでも支援者になりたいと。曾根崎さんという方なんだけど。」
早苗がこそこそと稔へ教える。稔は早苗が目的で話しかけられたのではない事を確認して、画廊店主と曾根崎の輪に入った。
稔が椅子に座るのを見計らって、竹中が早苗を呼んだ。
「あの、藤村先生たちと一緒に今夜は前に行った洋食屋に行きませんか?」
「………洋食屋だけならいいですよ?」
早苗がにっこりと笑って答えると、竹中は慌てたように「もちろんです!」と大袈裟に首を縦に振って答えた。




