第百十六話 新緑の水鏡に一滴 5
翌日、稔は画廊へ行き、早苗は自宅に残って家事を済ませた。
展示会最終日の明日は、早苗も一緒に画廊に行く予定だ。
その分の家事も済ませておいた。掃除をして、展示会の終わった後の稔を労う為、酒も用意した。
酒屋でいつも通りの日本酒の他に焼酎を買う。稔の酒量と藤村家の財布を考えると日本酒ばかりを買えない。
早苗は風呂敷に包んだ酒瓶を二本抱えて運ぶ。
うっすらと額に汗をかきながら、ゆっくりと木陰を歩いて、自宅へと向かっていた。
夜に帰ってきた稔と、明日の予定と出掛ける時間を確認する。初日と比べて忙しくなることはないだろうと、稔は言った。
それでも早苗は行くことを主張し、稔は困ったような愛おしいような、不思議な気持ちを噛み締めていた。
それぞれ、久間木家の風呂を借りた後。
寝間着で布団の中に入ると、早苗は甘えるように稔の胸元に身を寄せた。
「早苗?」
「寂しかっただけよ。」
早苗の呼気が稔の胸元に温かく当たる。
「ずっと留守にしてたからなぁ。明日で終わりだから。」
稔は早苗の背中に手を回し、髪に顔を埋める。
「これが終われば、ずっと家に居るよ。」
「嘘つき。今度は出版社の人たちと本屋さんへ行くのでしょう。」
「手売りの手伝いだ。俺の画集だもの、行かないと。」
「いや、行かないで。」
早苗はいやいやと頭を振る。
「早苗、お金が入ったら一緒に街へ出掛けよう。」
宥めるように早苗の解けた髪に指を潜り込ませる。
「何も要らない。稔さんがいればいいの。」
「早苗がそう言ってくれるから、俺は生きていられるんだ。」
「何度でも言うけど。でも、それを言わせる為に意地悪をしてないでしょうね?」
ちらりと稔の顔を覗き込む早苗の目が光った。
稔は苦笑すると、掛け布団ごと早苗を抱きしめた。
「早苗、早苗。もっと広い所に住んで、ふかふかの布団に一緒に寝よう。」
「嫌よ。お掃除が大変だもの。」
「ふふっ、ご機嫌ななめだね。大丈夫、お手伝いを雇えばいい。」
「まあ、二人分のたつきだけで大変なのに、お手伝いだなんて。」
「そうなれるように、頑張るからね。奥様。」
「もう、またふざけて。」
くすくすと笑い合いながら、明日に備えて眠りましょうと互いの頬を撫でて、手を取り合って目を閉じた。
夢を見る事もなく、互いの体温に寄り添いながら、朝を迎えた。
個展も最終日となり、午後までにすべての絵に売約済みの印がつけられた。
「ひとまず、画廊側としては充分な成果は、出たと思いますよ。あとは、出版社側の頑張りですね。冨田さん。」
「そうですねぇ。有名な方が何人か買われていたので、それに釣られて画集を買う人が増えるといいのですが。」
客の落ち着いた午後の時間、画廊店主と出版社側の冨田と竹中が話をしている。
稔は別の場所で、肖像画の新規の注文客と話をしている。
それを見ながら、冨田が言った。
「画集と絵画の販売を同時期にしていただきありがとうございます。ただ、画集の後に絵を売った方が値段が上がって良かったのではないかと、そこが気掛かりで。」
「藤村先生は新人の部類で、まだ大きな公募展に出品もされていない方ですからね。
画集販売で、今後の箔がつくかもしれないと客に思わせて、さっさと今の内に売ってしまえばいい。値が上がるなら、次の個展もまたここでやってくれればいいだけですよ。
まあ、先行投資です。」
「そう言っていただければありがたいです。
戦争が終わって、貪るように活字を求めていた時代の次は、贅沢品の印象のある絵画作品に手をつけた方がいいという上の判断がありまして。
ここだけの話ですが、雑誌の挿し絵でそれなりに知られていて、美術界では無名の藤村先生に白羽の矢を立てたんです。」
「まあ、高すぎても買えませんからね。多少の余裕の表れと、ちょっとした自慢をしたい欲が出てくるのでしょうから。
絵を描く人間は、戦争中、どちらかというと爪弾き者扱いされてましたからね。
国家総動員法から戦争画の描き手になって……画材が無いと絵は描けません。戦争記録画を描くとなれば、お国の為になるし、画材も手に入るしで。描いた人間をどこまで責められるものでしょうかね。
画家が描きたい絵を描いて、それを一般市民が受け入れるゆとりが出来たのは、……本当に、喜ばしい限りですよ。」
大きく溜め息を吐く画廊店主を見て、竹中は何かを言おうとしてやめた。
戦前から画廊を営む店主に掛ける言葉など、青二才の自分には無かった。
冨田は小さく「そうですね」とだけ、相槌を打った。




