第百十五話 新緑の水鏡に一滴 4
早苗は久間木の後ろ姿が見えなくなるまで縁側で見送った後、柏餅を風呂敷に包んでちゃぶ台に置くと、出掛ける準備をした。
少し大きめの手提げ袋に割烹着を入れて、鏡の前で髪を撫で付けた。そして、鍋の中身を確認する。
「お夕飯は、柏餅と凍み大根と筍の煮物と、帰りに揚げ物を買えばいいかしら」
と呟いた。
それから戸締りを確認し、最後に玄関の鍵を掛けると、手提げ袋を抱え、足早に駅へと向かった。
夕方の銀座の画廊は、いつもと変わりない一日を終えようとしていた。
昨日のことで、刃物を持った女に襲い掛かられた画家がいると、冷やかしが来るかと思っていたが、特に何も無かった。
画廊店主の言葉を借りると、「大したことじゃない」という事だろう。
人の出入りの多い場所で、いまさら珍しくもないのだろう。
そういった意味だと稔は思っていたが、画廊店主に言わせると、それもあるが、と少し歯切れの悪い口調で話し出した。
東京大空襲の前に、銀座は空襲を受けている。
道端に掘られた防空壕はどこまで役立ったのかあやしいものだった、と画廊店主は嘆息する。
終戦の後には占領軍のオフリミットの余波で存分に揉まれた。あの頃の銀座を知っていれば、藤村さんへの女の刃物なんて、かわいいものだと笑う画廊店主の顔は、頬で笑いながらも目は遠くを見ていた。
戦争の痕、なのだろう。
戦地に赴いていた稔たちの見た戦争も、所属する部隊と配置された場所で見た光景が違う。
それと同じように、ずっと内地にいた画廊店主の見た戦争を稔は共有も共感も出来ない。
ただ、辛い記憶を互いに抱えているとしか、分からなかった。
稔は何も言えず、黙って話を聞いていた。
ふと、人影が視界に入る。
視線を向ければ、見慣れた着物姿。
画廊の入り口に早苗の姿を見つけた稔は驚いて駆け寄った。
「早苗?どうしたんだい?」
「ごめんなさい。やっぱり気になって。」
「何もないよ。いつも通りすぎて、拍子抜けしていた所だよ。」
ふふふと稔は早苗に笑ってみせた。
そのふたりの後ろから、客が集団で入って来た。
店に出る前に寄ったのか、体の線がはっきりと分かる服を着たホステスたちだ。
「藤村先生、こんにちはぁ。」
「あら、こちらが刺されそうになった先生?まあ、素敵。いい男だわぁ。」
「失礼なことを言わないでよ。せっかく連れてきたんだから。」
がやがやと賑やかに話しながら店に入る。
「…いつも通りなんですか?」
じとりと早苗が稔を見上げる。
「…宣伝にはなったんじゃないか?」
目を逸らしながら、稔が答えた。
結局、然程の混乱もなく一日が終わった。
早苗は稔の様子を時々眺めながら、茶を出す客も来ないので、特に何もすることなく待っていた。
また、今日も一枚の絵に売約済みの印がついた。それを見て、早苗は我が事のように喜んだ。その早苗を見て、目を細める稔。
仲睦まじい藤村夫妻の様子に、画廊店主はこっそりと口元を緩めていた。
街灯が夜の銀座を変える頃。
入り口扉を施錠した画廊店主が、
「お食事にでもお誘いするのが礼儀でしょうが、昨日の事もあるので早くお帰り下さい。
まだ会期は終わってませんからね。」
と言って、ふたりを外へと追い出した。
裏口の扉近くで早苗は手提げ袋に手を入れ、稔を見上げてから、
「警察に手紙を渡すのでしょう?」
と言って、紙の束を出した。
稔と画廊店主は、お互いに目をやってから、稔が話し出した。
「示談で済ませることにしたから、警察には出さない。相手方も手紙の事は知っていたし、離婚をするから、次に何かあった時の為に持っていて欲しいって。」
「…そう。」
早苗は手に持った紙束を見て、眉間に皺を寄せた。
「奥さんも、大変でしたね。嫌な気持ちのするものでしょうが、念の為、取り置きしておいた方がいい。」
画廊店主も眉間に皺を刻みながら、早苗に言った。
「もう何もないといいのですけれど…」
「まったくですね。それにやはり奥さんも気が揉めるでしょう。
明後日の最終日には、一緒にいらして下さい。その方が落ち着かれるでしょうから。
明日はゆっくり休んで、明後日にお手伝い願いますよ。」
にっこりと笑う画廊店主に、早苗はほっとしたように笑いかけると、
「よろしくお願いします。」
と言って頭を下げた。
寒くもなく暑くもない、初夏よりも春めいている夜の銀座には、背広姿の男とスカートをひらめかせながら歩く女が入り混じって、流れをつくっていた。
若い着物姿の男女は、早苗と稔だけだった。互いに互いの顔を見つめ、周りの人間を気にする事なく、雑踏の中に足を運ぶ。
早苗と稔は手を繋いで、ゆっくりとした歩みで駅へと向かった。




