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第百十四話 新緑の水鏡に一滴 3

 早苗は郵便物をちゃぶ台に置くと、縁側に戻って久間木の横に座った。


「…まあ、そういうわけで、珠代さんも旦那さんの事を色々思っている訳ですよ。」

「…ええ、まあ。」


 久間木は話をまとめようとしているが、早苗は思わず苦笑いを浮かべてしまった。


 確かに稔といつまでも珠代が話込んでいたのを気にしていたが、だんだんと早苗へのちょっかいが増えていたので、すっかり忘れていた。


 おそらく、久間木も珠代の事情を知っていた分、肖像画が出来上がった後の藤村家への度重なる来訪は予想外のことだったのだろう。

 まさか干し柿の柿取りに、モンペ姿で久間木宅の庭先をうろつくようになるとは、思わなかったに違いない。


 どこまでも珠代らしい。


 離れていった人間の話をして、笑いを浮かべていることに早苗は自分のことながら内心驚いていた。

 女は早苗を敵視するか、離れていってしまうものかのどちらかだと思っていたから、誰かと思い出話をして笑う事が今まで無かった。





 ほんの僅かな喜びと、泣きそうになる切なさと諦観が入り混じった気持ちを早苗は苦笑いの中へ閉じ込めて、終わりなのだと改めて自分に言い聞かせた。


「珠代さんへの写真は、その紹介を頼んできた友人に渡しましたから。

 今頃は届いていると思いますよ。」

「…久間木さんは、珠代さんが引っ越した先は、ご存知なのですか?」


 早苗はこの後に及んで再会を期待しているのか。

 やけに軋む喉奥を動かして、久間木に尋ねた。


「いえ、信州とかその辺りと珠代さんが言っていたのを聞いただけで。それ以上は知りませんねぇ。

 早苗さんは、珠代さんに会いたいですか?」


 何の含みもなく、久間木に聞かれて早苗は黙った。


 会いたいと思うことが、早苗からの一方通行すぎて、認めることが出来なかった。珠代に会いたいと思っても、本物の生きた娘のいる珠代にかつてのように早苗への関心はあるのだろうか。


 そこまでの変化が珠代の中にあるのに、酷い態度ばかりをとっていた早苗が会いたいと思うのは、お門違いだ。


 だから、早苗はこう答えるしかない。

 他の言葉は、無いのだから。


「いいえ。」


 いずれはこの言葉が、本心になるはず。


 早苗は笑みを(たた)えたまま、久間木に答えた。今の本心を悟られぬように。


 久間木は視線を逸らして答えた早苗を見ていたが、ふっと庭先へ視線を動かした。


「まあ、早苗さんたちがここにいれば、珠代さんもまた来られますからね。」


 しばらくの間、二人はぼんやりと視線を外したまま、庭を眺めていた。


 けきょ、と(うぐいす)の声。


 その声で久間木が思い出したかのように、話した。


「ああ、旅に出たいですね。信州蕎麦を食べに行くのもいいかもしれませんね。」

「旅行、されるのですか?」


「いえ、まだ決めてませんが、気楽な隠居の身で、まだ体も動きますからね。

 それに見える内に出掛けた方がいいでしょう。」


 庭を眺めたまま嘆息した後に、久間木が茶を啜る。


「こうして桜の木を眺めるのも、あと何度あるのか。

 旅も目が見える内に出なければ、と思ったのですよ。

 目が見えなくなっては、ひとりでは何も出来ませんからね。」


 久間木は肩をすくめて、早苗を見て笑った。


「ああ、まだ早苗さんや藤村さんには分からない話でしたね。

 いやいや、年寄りになるとついみんな同じに思えて。」


 はっはっはと笑いながら、久間木が頭を撫でる。

 その様子を早苗は瞬きもせずに、見つめていた。


 久間木が柏葉を折り曲げて茶碗の横に置くと、


「お邪魔しました。

 また家に戻って柏餅のおつかい役を続けてきますよ。」


と、言ってカンカン帽を頭に乗せて軽くお辞儀をした。


 早苗は夢から覚めたように、表情を作ると、「お構いもせずに」とだけ言って頭を下げて見送った。








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[一言] >「いいえ。」 ツンデレキターーー!!!!(大歓喜)
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