第百十三話 新緑の水鏡に一滴 2
視線を合わせたまま、早苗は久間木にどう答えるべきか迷った。
稔が女に刃物で刺されそうになったなど、突然言われても久間木が戸惑うだけだ。
だが、早苗の重苦しい心の内を久間木になら言ってしまってもいいのではと、考えてしまう。
その逡巡を読み取ったのか、続けて久間木が言った。
「…昨日、藤村さんの画廊で、騒ぎがあったという話を聞きましてね。」
早苗は一瞬で気配を強ばらせた。
それに気付いた久間木が穏やかに笑う。
「ああ、そういうつもりではなかったんですよ。
仕事中に夫に何かあれば、気にするのが妻です。それが稔さんに何があったのなら、早苗さんなら尚更気にかかるものでしょう。」
それでも早苗は肩を張ったまま、視線を俯かせて黙っている。
久間木は目を合わせない早苗に苦笑する。そして、困ったように頭に手をやると、「内緒話をしましょうかねぇ」とぽつりと呟いた。
久間木の内緒話は、珠代の事だった。
早苗は伺い見るようにして、久間木と視線を合わせて相槌を打った。
「珠代さんの旦那さんが戦死されたのは、ご存知ですか?」
「ええ、戦死公報が来たと。」
「その旦那さんが亡くなった時期が合わないと思ったそうですよ。」
「え?」
珠代の元に戦死公報が届いたのが三月の空襲の前。
死亡した日付はその前の年の九月。
半年後の戦死公報はまだあり得る。
しかし、空襲の後から急に珠代の元に軍人たちが来るようになった。
息子も娘も亡くしたばかりの珠代だったが、そこに違和感を感じるだけの頭は残っていた。
夫が隠している物を出せと、珠代を囲み言い続ける軍人たち。
九月に戦死をしたのなら、何故今頃になって騒ぎ始めたのか。
夫の戦死は、戦場で敵に殺されたのではなく、同じ仲間だと思っていた軍の誰かに殺されたのではないだろうか?
珠代の推測は当たっていた。
九月に亡くなったはずの夫を戦地で稔が見かけていたのだ。
稔たちが歩き続けていた時。
十一月の頃にひと月ほどの休憩があった。その際、見かけたらしい。
「私も詳しくは知りませんが、藤村さんの教育時代の仲間の上司だったらしく。一度見ていた人だったから覚えていたそうですよ。」
「じゃあ、珠代さんが稔さんに肖像画を頼みに来たのは。」
「ええ、その時の話を聞く為ですよ。紹介したのは私ですからね。」
久間木は茶のおかわりを貰い、喉を潤した。
「どこでどういう繋がりだったのか分かりませんが、私の友人が珠代さんを藤村さんの客として紹介して欲しいと言って来ましてね。やけに含みがあるように思ったので、予め聞いておいたんですよ。
藤村さんに紹介するのに、厄介な人だと困りますからね。」
「…いえ、それなりに厄介でした。」
「…まあ、そうですね。」
久間木と早苗は無言で柏餅を手に取って食べた。
葉桜もそよがない、静かな日和。
しばらく黙っていると、郵便屋がやってきた。
早苗は縁側からそのまま庭へ出ると、配達人から直接郵便物を受け取った。
あの洋封筒は、もう無かった。




