第百十二話 新緑の水鏡に一滴 1
稔が画廊で刃物を向けられた日の翌朝。
晴れた青空には雲ひとつなく、早苗は取り置いてあった冬物の洗濯をしている。
その作業の合間合間には、溜め息。
何度目か分からない。
昨夜、早苗は稔に、これからは毎日画廊に一緒に行くと泣きついたが、にべもなく断られた。
稔は早苗を守るために断ったのだが、早苗にとっては稔を守ることも出来ない場所に一人でいることが苦痛だった。
同じような女が来たら。
また、稔が刃物を向けられたら。
心無い噂に稔が傷つけられたりしないだろうか。
早苗は稔と離れている時間が流れるにつれて、ぐつぐつと不安感が増していった。
午後になっても、早苗は落ち着けなかった。
手慰みに縫い物を始める。
頼まれていたかつ子の着物は縫い上がっていたので、余りの布で巾着袋を作り始めた。着物とお揃いの柄だ。きっと喜ぶだろう。
縁側に座り、窓ガラスを開け放って、わざとゆっくりゆっくり針を刺していると、久間木がやってきた。
「おや、縫い物をされてましたか。
一休みされませんか?
寿栄子とかつ子がふくらし粉で柏餅を作ったので、お裾分けに来ました。」
羽織姿の久間木は、カンカン帽を被ったまま、早苗の横に腰を下ろした。
「あら、今、座布団を用意しますね。敷いて下さいな。」
早苗は縫い物をまとめて片付けると、ちゃぶ台下から座布団を運んで久間木に勧めた。
久間木は、よっこらと声を掛けて座布団を敷くと、手に持った包みを早苗に渡した。
「ちょっと出掛けていましてね。はあ、疲れました。
帰って玄関を開けたら、寿栄子にお使いを頼まれて。ようやく座れました。」
はっはっはと笑う久間木に早苗は軽く頭を下げると、「お茶を用意しますから、一緒にどうぞ」と言ってから離れた。
ガラス戸の入った縁側は、以前よりも座ると狭い。
居間と奥の部屋の方と、一本の柱を真ん中に、それぞれ二間分ずつの縁側があるが、ガラス戸があるため、一間分ずつしか縁側に面して座ることが出来ない。
そのため、早苗と久間木が以前よりも近い距離で縁側で茶を飲むのも仕方がない事だ。
それを久間木は揶揄いの種にしている。
「これは、藤村さんに嫉妬されてしまいそうですね。」
ふっふっふと笑いながら、孫のかつ子が作ったと思われる形の悪い方の柏餅をちぎって食べている。
「ずいぶん作ったようですね。」
早苗は渡された包みの中に柏葉のついた蒸しパンが十個以上入っているのを確認し、夕飯にしてしまおうかと考えながら言った。
「なんでもかつ子が粉の分量を間違えたらしいですよ。小麦粉だっておもちゃじゃないですからね。」
「まあ、簡単に出来るから良かったのでしょうけど。」
柏葉の中には重曹でぽってりと膨らんだ、黄色味を帯びた蒸しパンが詰まっている。柏餅と言いながら、餅は一切使われていない。
かつ子が庭先にある柏の木を見て思いついたのか、柏餅作りをしたいと駄々を捏ねたのだろう。
まだ温かい生地から、柏葉を剥がすと、ほんのりと葉の匂いが動いた。
早苗はひと口かぶりついたが、なかなか餡子にまで辿り着かない。
これは夕飯に出来るなと思いながら、もうひと口。
重曹の苦味がじんわりと口に広がる。ようやく辿り着いた餡子の甘さで口が平和になる。
「これは帰ってもまだまだありそうですねぇ。」
久間木は嘆息しながら、ちぎった柏餅の蒸しパンをもぐもぐと食べている。
「入れ歯ですと、硬いものよりはまあ、こちらの方がまだいいですかね。」
「あら、入れ歯でしたか。」
早苗は口元を手で隠しながら、思わず言った。
「まあ、色々ありましてねぇ。酒はいいですよ。歯が無くても呑めますから。」
はっはっはと久間木は笑うと、早苗の用意した茶を啜った。
「もう還暦にもなれば、生きていられるだけで御の字ですよ。
早苗さんはどうですか?」
久間木は湯呑みを置いて、早苗と目を合わせて言った。




