第百十一話 明日花という女 4
骨折をして家から出られなくなって、しばらく経ったある日。
動けない明日花をモデルにするため、藤村先生が自宅に訪れた。
モデルの明日花はそっちのけで、継母が藤村先生にべったりとくっついている。
その時間を狙って、明日花はお手伝いさんたちに頼んで、ある物を探してもらっていた。
それは、薬の瓶。
場所は、継母の部屋。
何の薬かは分からない。
ただ、時々継母と食事をする時、味の濃い料理だけ、継母が運んでくることに明日花とお手伝いさんたちは、違和感を感じていた。
その違和感とあの立ちくらみが病院のベッドにいる時に、一致したのだった。
昔から、お手伝いさんたちは、明日花の味方だった。最初に来た頃に、小さな体にぶかぶかの割烹着姿で、一所懸命に台所の勝手を説明する明日花は、立派な伊東家の主婦だった。
その姿を知っているお手伝いさんたちは、継母より明日花の味方についた。
そして、見つかった粉の入った瓶。
明日花とお手伝いさんたちは相談して、中身を見た目が一番よく似た片栗粉に替えた。
それからは、明日花はぼんやりすることもなくなっていった。
中身は確かめていない。睡眠薬かその辺だろうが、違うかもしれない。
問題は、表沙汰にならないようにすることだった。
父は事業主だ。犯罪者を出してはいけない。
唯一の肉親である父を困らせることは出来ない。
継母の気まぐれで、慣れない松葉杖のまま連れ出され、街中で放置された一件も、父には黙っていた。
もちろん、その後に書かされた藤村先生宛の手紙についても。
伊東家の子どもとして、明日花は自分の出来る精一杯のことをしようと決めていた。
だが、継母は自ら墓穴を掘った。
もう、父にも言っていいだろう。
長椅子からわずかに身を乗り出して、腕組みをした父に明日花は言った。
「お父さま、わたし、あの人に毒を盛られていたの。」
二度とあの女がこの家に戻れないように。
明日花は父との夕食の約束をして部屋を出た。
ふかし芋ばかり食べていた頃から、父との夕食は珍しくなってしまった。
だからこそ、たまにある父との食事は嬉しい。
今日は、母の話をしてみようか。
明日花は、自室に戻り部屋の扉を閉める。
部屋にはふかふかのベッドに立派な机。それに沢山の服にレコード。
すべて父が明日花に向けた愛情の表れだった。
空襲の焼け跡を体験した父は、とにかく明日花が衣食住に困らないようにと、遮二無二仕事をしている。
明日花はその父の心を知っているからこそ、買って貰ったひとつひとつを粗末にすることなく、大事に大事に手入れをして、扱ってきた。
その行為が、明日花の方が上等の物を与えられていると継母に勘違いをさせたのだろう。
父への想いを継母如きに負けるわけがない。
ふふふっとひとり笑う。
明日花はゆっくりとベッドに腰をかけ、そのまま倒れ込んだ。
目を瞑り、これからについて考える。
継母はいなくなった。
これからは、父の事業を継いでくれる人を見つけなければ。
入婿として、結婚すればずっと父から離れずに済む。
孫が出来れば、父はもっと喜ぶだろう。
母との思い出話が出来るのは、子どもの明日花だけだ。
絶対に、父から離れて死ぬことはしない。ずっとそばにいる。
そのためには、いいお婿さんを見つけなければ。
明日花は父の会社で見つけるか、見合いをするか考えているうちに、うとうとと眠ってしまった。
ほんのわずかな微睡の中、困ったように笑う母の姿は、藤村先生の奥さんに似ていた。
母の写真は、空襲で焼けてしまったから、疎開先に持っていった数枚だけしか残っていない。
燃えた写真を思い出させてくれた藤村先生の奥さんに、また会えるだろうかと明日花はぼんやり思った。




