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第百八話 明日花という女 1

 


 学童疎開先に届いた手紙が最後の言葉だった。


『ご飯は食べていますか。』


 当たり前のお母さんの言葉は、十年前から止まっている。




 冨田家から自分の家に戻ると、父が珍しく家にいた。


「昨日は大変だったな。お前にも話すから、部屋まで来なさい。」

「はい、お父さま。」


 戦後成金と言われるこの家は、居心地が悪かった。

 洋風建築で、誰が見ても高価そうな家具が並んでいる。お手伝いさんたちの手によって磨かれた床も猫足のソファも、艶やかな飴色をしている。


 学校の友だちを呼べば、高級洋菓子店のケーキが出てくるだろう。

 未だかつて、お茶会をしたことはないけれど、これからは心置きなく友だちを招くことが出来る。


 父の書斎部屋へ入ると、長椅子に座るように言われた。


 テーブルを挟んで向かい側には、父。


 いつもなら重苦しい壁紙が明日花の気を重くさせるが、今は落ち着いて感じられた。


「話とは、あの女のことだ。」


 昨日、銀座の画廊に、明日花がモデルになった絵を継母(ままはは)と見に行った。それだけのはずが、警察沙汰になった。


 継母が画家の先生を誘拐しようと、刃物で脅したからだ。


 父は()()()と言っていることからして、もう決めているらしい。


「私の仕事にも差し障りが出るので、示談でこの話はまとめるつもりだ。相手の藤村先生にも了承を得ている。

 この家から犯罪者が出るのは商売上、許せんからな。」


 その父の方針はずっと前から知っている。だから、明日花はずっと黙っていた。


「あの女とは、離婚する。もうこの家には二度と入れるな。

 住む場所も与えてきた。しばらくの生活費もだ。もし、物を取りに来たといえば、お前か手伝いの人たちが代わりに取ってやれ。見つからなければ、渡せないとすぐに言えばいい。」


 高そうな三揃いの背広が皺になるのを気にもせず、父は固く腕組みをして座っている。


 父も今、大変なのだろう。


 戦時中から軍の下請けのような仕事をしていた父は、明日花が学童疎開のため、地方の親戚の家に預けられている間に、仕事を優先するようになった。


 明日花の家も、母親も焼けて、何も残っていないはずの場所で、父は狂ったように動き回っていたらしい。


 空襲の前から軍の物資を隠蔽していたらしく、それを売りながら焼け跡から土地を買い漁り始めた。

 明日花はその頃の父を知らない。ただ、母を亡くした父が気が狂ったようになったのは、今の明日花なら分かるように思えた。


 母を亡くした痛みを抱えきれなかったのだ。


 いつも粗野でがさつで、全然気の利いたことを言えない父は、家の外で戦いながらも、母と明日花のいるちゃぶ台の前ではいつも朗らかだった。


 学童疎開前の伊東家の食卓は、楽しい記憶しかなかった。


「今日も大変だった。大変だった。」

「まあまあ、お疲れ様ですね。はいご飯食べて。」

「たいへんだったー、たいへんだったー」

「明日花、お父さんの真似しちゃだめよ。」

「そうかぁ、大変だったの分かるか、そうかぁ。」


 父と明日花の干支は同じで、三十六歳にしてようやく産まれた明日花を両親は可愛がった。


 学童疎開で家を離れる時も、それぞれに気をつけることや、手紙を書くことを何度も何度も口にしていた。

 明日花は涙目になりながら、両親の話を聞いていた。


 それが母と顔を合わせて話した最後の記憶だ。


 疎開先は、母方の祖母の家で比較的食べる物に困ることなく暮らした。

 時々、地元の子どもたちに東京の子であることを揶揄(からか)われたりしながらも、取っ組み合いのケンカを繰り返しながら、馴染んでいった。


 まだ雪の残る三月。


 東京にいる母からひな祭りにかこつけて、数枚の千代紙と一緒に手紙が届いた。


 中身はいつも通り。


『ご飯は食べていますか。』


 それから始まる注意ごとと、迷惑をかけないようにというお小言。


 男の子に勝ったと書いたことが失敗だっとつくづく思った。


 そして手紙の最後にはいつも通りの『お父さんとお母さんは元気です。』の一文。


「早く帰りたいなあ…」


 従兄弟たちから隠れて読む手紙は、白い息でわずかに湿り気を帯びたように思えた。


 そして、それからすぐに東京が空襲に遭って、母が亡くなった。








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[一言] ママあああ!!!(ブワッ)
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