第百七話 咲き誇る花に蜂 8
冨田からの連絡で駆け付けた伊東明日花の友人である冨田の姪は、ずっと明日花の手を握っていた。
稔が最初のモデルとして描いた時よりも、少し大人びて見えた。
この頃の娘たちの成長と変化は数ヶ月単位で起こることに、稔は初めて気が付いた。
早苗の変化の様子を所帯を持った頃に見ていたはずなのに、嫁になったからだと、見逃してしまっていた。そして、すぐに離れてしまった。
稔は早苗との時間への喪失感を改めて感じていた。
「明日花、大丈夫?お父さんは来ないの?」
「きっとこっちには来ないわ。警察へ行って、事件にならないように動く方が大事だもの。」
「そんなことないわよ。きっと心配してるわ。ああ、でも家には誰もいないのよね。…ウチに泊まりに来て!一人にさせられないもの。」
「お手伝いさんがいるわ。」
「ダメよ。夜にはみんな帰ってしまうのでしょう?」
「そうね。でも仕方ないから。」
動揺したまま明日花に声を掛ける冨田の姪に比べて、明日花はどこまでも冷静だった。
その様子を見ていた冨田が姪の方をぽんぽんと叩き、
「オレもそう思うよ。送るから一緒に行こうか。」
と言った。
竹中は警察へ行き、状況の説明と今後の対応について聞いてくるとのことだった。
稔は画廊店主と相談して、出来る限り穏便に済ませる方向で取り扱うことに決めた。
まだ展示会の会期は残っている。
刃傷沙汰で悪影響が出るのは避けたい。
稔は傷つけられなかった羽織と着物に触れてほっと息を吐いた。
画廊の周りはいつも通りに人が流れていた。
稔は人の流れを見ながら、帰りにあんぱんを買って、それを食べながら早苗に話そうと思った。
何処までも、稔には女が取り憑いていた。
早苗への愛情を目で見せてやれればいいのに、とビルの上の空を眺めながら稔は思った。
日が暮れた藤村家に、車が一台。
三揃いの背広姿の男が二人。
静かに塀の外で車を降りると、玄関で訪の声を掛けた。
稔が帰宅すると、早苗は二枚の名刺を差し出して言った。
「今日、銀座の画廊で、伊東さんに刺されそうになったそうね。」
視線は名刺の方に固定されて、稔の顔を見ようとしなかった。
僅かに、名刺を持つ手が震えている。
早苗を抱きしめると稔は言った。
「大丈夫だ。竹中くんと冨田さんが助けてくれた。傷はひとつもついてない。着物も切られていない。大丈夫だ。」
稔がゆっくりと早苗に話すと、早苗は声をあげて抱きついた。
「稔さん!稔さん!守ってあげられなくてごめんなさい!わたしが離れてしまっている間に…」
早苗は言葉を失くし、ただ声をあげて泣いた。
稔は早苗を抱きしめて、背中を何度も何度もさすった。
稔は自身の体に刃物を向けられた時よりも、早苗が泣く方が辛かった。
「大丈夫。怪我はないよ。
それに、事件にしないで終わらせるつもりだ。逆恨みも怖いし、この名刺の人たちだって、その為に来たんだろう?」
「…ええ、示談にして欲しいって。」
鼻声で早苗は答える。
稔は胸元に早苗の顔を押しつぶすように抱きしめると、頭頂部に口付けを落とした。
「そうだろうね。画廊にも来たよ。俺たちも大きな事にはしたくないから、示談で済ませようと思う。
早苗、怖かったろう。急に知らない男たちが来て。」
「…怖かったのは、そんなことじゃないわ。稔さんが斬られたかもしれないと思ったら、もう」
震えながら話す早苗に、稔は申し訳ない思いと、それに優る愛おしさを感じていた。
早苗は違う。
早苗だけは違う。
稔をここまで愛してくれるのは、早苗だけだ。
稔は早苗の艶やかな髪を撫でて、そっと耳へ口付けた。
ふたりは抱き合ったまま、葉桜の梢が風に鳴る音を聴いていた。
稔の買ってきたあんぱんを食べる早苗の目は腫れていて、何度も稔に頬を撫でられながら、ぱくりぱくりと食べていた。




