第百六話 咲き誇る花に蜂 7
画廊の前にタクシーが一台停まる。
誰が呼んだのだろうかと、画廊関係者が客に視線を送る。
とりたてて、客に動きがない。
間違いかと思い始めた時、稔の腕を掴む女がいた。スカートの裾がふわりと広がる。
「さあ、藤村さん、行きましょう。」
柳眉の下にある大きな二重まぶたの目が弧を描く。
掴んだ腕と反対の手は、稔の腰にあてられている。
小さな刃物と一緒に。
切れない程度に、刃物を稔に押し当てる。
「さあ、藤村先生、タクシーに乗りましょうよ。」
一歩、女が足を進める。
稔は掴まれた腕を振り解こうかと一瞬考える。
しかし、周りの人の数に躊躇する。ひらけた外ならともかく、ここで女に暴れられたら、誰かが斬りつけられる。
稔は狂った女を何人も見てきた。
誰も話が通じなかった。
このまま、女の言う通りに動いて、出口まで行った方がいいと判断した稔は、素直に女と歩き出した。
それに、今日来ている着物は、早苗が珠代に貰った反物で拵えた藍染の着物だ。
切られてはいけない。
稔は固まって動けない画廊関係者に目配せをして、外へ向かった。
おそらく、他の何人かは刃物に気が付いている。
警察を呼ぶだろう。
それまでの時間を稼ぐことに稔は決めていた。
静まり返った画廊をゆっくり女に腕を取られて進んでいく。
タクシーの扉の前で女が腕を離してくれないかと、稔は期待していたが、力を込めた手はそのままだった。
稔はゆっくりと座席に腰を下ろした。
女が稔から離れずに座ろうと腰を屈めた時。
女の腰に、竹中が後ろから抱きついた。
そのまま竹中は腰を落として、しがみついたまま、女の体をタクシーの外へ出す。
瞬間、女の手に力が入るが、刃先は車内の座面を僅かに切り裂いて終わった。
竹中が舗装に尻餅をつく。
女は竹中の腕から逃れようと身を捩りながら、叫んだ。
「離しなさいよ!藤村先生以外が触るんじゃないわよ!」
やたらめったらに刃物を振り回すが、女の背中から腰にしがみついたままの竹中には届かない。
「邪魔よ!」
自分の腰にまわされたままの竹中の腕を目掛けて刃物を振り下ろす。
その女の腕を冨田が捻りあげた。
刃物が手から抜け落ち、硬質な音を立てて転がった。
「いやぁぁ!」
女の悲鳴が銀座に響いた。
画廊前は騒然となった。
急いで竹中たちが冨田の押さえた女の両手を縛りあげると、警察が来るまで控え室の方へ押し込んだ。
稔は女が両手を縛られてから、ようやくタクシーから降りる事が出来た。
稔は着物がどこも切られていないことを両手を使って確認すると、ほっと安堵の息を漏らした。
早苗の悲しむ顔は見たくなかった。
稔は駆け付けた警察官に、以前肖像画を描いた客であること、数ヶ月にわたって妻へ手紙を送りつけていると知りえること全てを伝えた。
後日、手紙を持参することを決めて、稔へのその場での聴取は終わった。
女は「藤村先生を返して!」と叫びながら、警察官に連れられて行った。




