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第百五話 咲き誇る花に蜂 6

 


 翌日から稔は毎日画廊に通った。


 初日ほどの人出はなかったが、それでも途切れることなく客は続いた。

 銀座の画廊といえども、人が絶えることなく訪れることは珍しい事だった。


 早苗は稔からその事を聞いて、我が事以上に喜んだ。

 展示された絵画にも売約済みの印がぽつぽつとつけられ、次の開催を望む声もいくつか出始めた。





 初めての稔の個展は順調だった。


 しかし、会期も折り返し、書店での画集の販売数も伸び始めたある日のこと。




 騒ぎが起きた。




 その日、モデルのひとりである伊東明日花が継母と共に画廊を訪れた。画廊店主が早苗と似ていると思ったのか、応接部分で茶を出しながら、話をしていた。


 早苗に断られたモデルの話を明日花にしているようだった。

 稔は最初の挨拶で明日花の足の具合や、絵の感想を聞いたりと一通り話をした後は、他の客の対応に回っていた。


 稔は明日花と早苗が似ているとは思っていなかった。

 確かに共通する部分はある。しかし、それは早苗ではなかった。


 召集前の娘らしい早苗に、焼け跡を経て再会した早苗。その目はいつでも稔への思慕が溢れていた。


 その目を見たいがために、何度も早苗の顔を見る。そこにある眉、鼻、唇、切れ長な目、肌の色、匂い。その全てが揃って、尚且つ、稔への特別な感情を内包した動きがあってこそ愛しい早苗となる。


 顔が似ている程度では、画家の稔の目は曇ることは無かった。


 早苗にとっての唯一が稔であるように、稔にとっての唯一が早苗であった。


 それを分からない外野がざわざわと騒音を立てた所で稔にはまったく興味が無かった。

 関心が動いたとすれば、早苗に似た面立ちが、戦地で早苗への追慕を抱いていた自分を思い出した事だった。


 そのせいか、明日花の相手として思い描いたのは、あの美術学校を出た初年兵だった。


 あの初年兵だったら、きっと余す事なくこの少女を絵で表すだろう。

 稔は初年兵の目を貰った気持ちで(えが)いた。


 あの港町は、初年兵の故郷だったのだろう。

 海からも遠く離れた山中で亡くなった男。故郷の海へ魂だけでも帰れたのだろうか。


 明日花を描いた時、筆の感触がいつもより深く感じられたように思えた。


 あの初年兵の描く少女。


 きっと、それは稔が一番観たかった絵だ。


 あの初年兵に代わり描いているような、初年兵の為に描いているような不思議な気持ちだった。


 明日花の絵は、どこかの金持ちに買われていく。年齢は稔よりもっと上だ。

 しかし、この世に存在させる為に力を尽くした稔は、絵の行き先が出来る限り長く残る場所であればいいと思うだけだった。


 本当の送り先は、空の彼方だ。

 届いていればいいと願うだけだった。





 その稔が描いた明日花の絵を特別視している人は何人か居た。


 早苗と明日花が似ていると思った人たちだった。


 しかし、初日の稔と早苗の仲睦まじい様子を見て、早苗と明日花は稔の中で混在していないとすぐに理解した。


 早苗へ向ける視線に、明日花の絵の中にはない専有感があった。


 だが、それを理解しない女も居た。


 伊東明日花の継母(ままはは)だ。


 骨折の治った明日花の付き添いとして、画廊へ足を踏み入れた。しかし、稔は気にも留めない。




 洋封筒で自分の素描と手紙を早苗に送り続けている事に、気が付いていないのだろうか?


 毎日、鏡台の前で髪をほどき、服を脱ぐ。そして、鏡に写った自分を描く。


 稔の視線を思い出して。


 その目を貰ったような気持ちで、自分を描く。


 美しく、扇情的に。稔の目に写った自分を毎日描く。

 性的な興奮を覚えるように。


 そこに描かれた自分が、稔との関係を全て表現していると確信出来た。


 明日花でもない、早苗でもない自分こそが稔の本当の恋人だ。


 それは描くたびに、確固たる考えになった。稔と繋がっていると信じることが出来た。


 それなのに、何故、稔は話し掛けてこない?


 女は明日花に挨拶した稔が離れて行くのを見て、咄嗟に引き留めようとした。


 しかし、声が出なかった。


 ーーー奥様はお元気?


 そんな事を言ってもしょうがない。


 女が聞きたいのは、早苗の事ではなく、自分のことだった。


 また稔に見つめて欲しい。


 稔の目を貰った自分がここに居る。


 そして、目の前に稔がいる。


 ーーー今すぐ、自分のものにしたい。


 小さな手提げの中に手を入れて、感触を確かめる。


 女は、タクシーを呼んだ。









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