第百一話 咲き誇る花に蜂 2
そこで母は女になったのだろうと、淡々と息子である久間木が話した。
「まあ、それで二人は心中しましてね。互い手首を紐で結んで。
それで初めて妻の不貞を知った父は怒りましてね。
軍刀を持ち出して大変だったらしいです。まあ、なんで父が軍刀を持っていたのかよくわからないのですが。
母が亡くなった後に仕事が変わった事しか私は知りません。軍にいたのか、どういった立場だったのかも分かりません。
ただ、その後、母が心中した建物を壊して、今、藤村さんが住んでいる家を建てたんですよ。
そして、父が住むようになった。その後に桜が植えられたんですよ。
我が親ながら、どちらも理解出来ない親でしたね。」
久間木は湯呑みを手にとると、ぬるくなった茶をこくこくと飲み、桜餅へ手を伸ばした。
「おや、食べないのですか。」
話に呑まれた稔は、夢から醒めたように口を開いた。
「あ、いえ、食べます。」
もそもそと桜餅を食べる稔。
久間木は苦笑しながら、話を続けた。
「まだ私も子どものような頃の話です。覚えている人も少ない。
外聞が悪いからと、母は病気で亡くなったことになっています。書生の方は馬に蹴られたか、故郷に帰ったか。そんな話になっているはずです。
ただ、何故か隠しても出てしまうものでしてね。藤村さんに長く住んで貰おうと、お話することにしたのですよ。」
久間木は何でもない様に、話を変えた。
「ところで、藤村さん。この縁側にガラス戸をそろそろ入れませんか。
大家の私が心苦しいのですよ。」
「いえ、それは大丈夫ですよ。」
「そう言って毎年冬は不便でしょう。雨戸では暗いですよ。」
「いえ、なんとかなっていますから。それに…」
「それに?」
「画集の評判が良さそうで。もしかすると、引っ越しをするかもしれません。」
「引っ越し?」
久間木は驚いて声をあげた。
「さっきの話のせいでしょうかね?」
「いえ、それはあまり。まあ、驚きましたが、もう住み慣れていますから。」
「それじゃあ、一体。」
「もう少し広い家に早苗を住まわせてやりたいなと思いまして。
借りている裁ち台も縁側に持ち出さなくてもいいような、広い所なら早苗も喜ぶだろうな、と。」
「それは、早苗さんには?」
「いえ、まだ何も言ってません。画集の評判が良いと言っても、まだまだどうなるか。」
「それでも藤村さんは手応えを感じているんですね。」
「まあ、そうですね。」
照れたように稔は頭を掻いた。
早苗が切ったばかりの稔の髪を見ながら、久間木は悲しげに眉を寄せた。
「まあ、全てただの夢想です。実際、画集が売れるかは分かりませんから。」
稔が顔を上げた時、久間木の顔はいつも通りの好々爺の微笑んだ顔だった。
「それじゃあ、私は画集が売れないように祈りますかね。」
「いえ、それは、その。」
はっはっはと久間木が笑い、
「まあ、なんにせよ、藤村さんは早苗さんの為に頑張って描かれてましたからね。」
と、稔に言った。
稔は真面目な顔をすると、
「早苗には、出来る限りのことをしてやりたいと思ってます。久間木さん達にも会いに来やすい所に住むつもりです。
それまでどれくらい掛かるか分かりませんが、お世話になります。」
丁寧に頭を下げた。
久間木は寂しそうに笑ったが、稔に頭を上げるように言い、
「それなら尚更ガラス戸は入れてしまいましょう。次の店子の為にもね。」
と、朗らかな顔をして言った。
翌日から久間木が手配をした建具屋が来ると、寸法を測り、一週間も経たない内に藤村家の縁側にはガラス戸が入った。
出来上がったガラス戸を見にきた久間木は、
「ああ、父親がガラス戸を入れ直さなかった理由が分かりましたよ。桜の花見をするには邪魔だったのですね。」
と、戸袋を背にして座った時に言った。
「本当に父は桜を眺めていたんですね。」
久間木は早苗から茶を受け取りながら、葉の出始めた桜の木を見上げて、ぽつりと溢した。




