第百話 咲き誇る花に蜂 1
夜の闇に浮かぶ白。
満開の桜。
その下に佇む久間木の姿。
銀鼠色に縞の入った着流し姿。
見上げる桜は夜目でも吸い込まれそうな光と闇を孕んでいる。
触ればふわりと柔らかいだろう。
しかし、久間木は手を伸ばすことなく、仰ぎ見るだけだった。
早苗も稔も眠りの中の午前二時。
久間木だけが、桜を見ている。
久間木がひとり背を伸ばす。
同じ日の午後に、久間木は桜餅を手土産に藤村家を訪れた。
「ああ、満開ですね。晴れてよかった。こちらで食べてもいいですかな。」
久間木はいつもの定位置に座ると、戸袋を背に煙管を手にした。
「今、お茶を用意するので。」
稔が桜餅の入った包みを持って久間木に言った。
「おや、早苗さんはおでかけですか。」
「はい。今度はかつ子ちゃんの着物を拵え直すらしく。何か足りない物を買いに行くとさっき出て行きました。」
久間木は刻み煙草を摘むと手慣れたように、指先でまとめると煙管に詰めた。
マッチを擦って、咥えた煙管の先に火をつける。
久間木の口から、紫煙がたなびく。
「ふうむ。」
吸口を軽く唇にあてると、何かを考え始めた。
稔が皿に盛った桜餅と、湯呑み茶碗を久間木の横に置くと、稔も縁側に座った。
「藤村さん達がここに住んで何年目でしたかな。」
「桜はこれで三度…四度目でしたかね。だんだん分からなくなってきましたね。」
「それだけここの暮らしに馴染んできたのでしょうね。重畳重畳。」
久間木はぷかりと煙を吐いた。
「今さら言わなくてもいいのかもしれませんが、ここに長く住んでいるなら、いずれ耳に入るかもしれません。
私からお話しておきましょうか。」
「何をですか?」
「この離れの前に建っていた屋敷で心中があったんですよ。」
「え、心中?」
稔は湯呑みを口から離し、怪訝な表情を浮かべた。
それを見た久間木が苦笑しながら、答えた。
「早苗さんには内緒の方がいいでしょうね。女の人は色々気にしますから。
心中とは言っても、片方は私の身内です。
母は、書生と道ならぬ恋に落ちて心中しました。」
実際は知りませんけれどね、と久間木は笑うが、稔は久間木に担がれているのではと半信半疑の様子だった。
久間木はそんな稔の顔を見ては、好々爺の顔ではっはっはと笑う。
「脅かしてしまいましたかね。
まあ、突然言われても驚くでしょう。
この桜の木は父が母の為に植えたものだとは、ご存知でしたかな。」
「ええ、珠代さんが言ってましたね。」
「それは本当なのですよ。ただ、その前に話がありましてね。」
吸い終わった煙管をコンと逆さまに叩いた。
今の離れが出来る前に、ここは客間を兼ねた別宅があった。
そこに久間木の父が世話をする書生が住み込んでいた。
真面目な性分だと誰もが言う青年だった。
その書生と久間木の母親が恋仲になっていた。
普段から久間木の父は仕事に追われて、家にいることはなかった。
久間木の弟妹も子守りに任せられるくらいに大きくなっていた。




