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第九十九話 咲き匂う桜と藤の村人

 

 


 竹中と全ての絵を運び出した翌日から、稔は気が抜けたのか縁側に寝そべってばかりいる。


「桜が花開くのを見張っているんだ。」


 至極、どうでもいい理由をつけて、日がな一日桜を眺めては、だらだらと酒を舐めるように呑んでいる。


「豊子さんからは、どういう知らせがあった?」


 早苗に膝枕をねだった稔は、早苗の膝の上でうとうととしながら、手紙を読む早苗に話しかけた。


「ええと、子どもたちに囲まれてだんだん乱暴になってきているって。」

「ふふっ、なんだい、それは。」


「畑仕事をして、ご飯作りをして眠るだけで終わるらしいわ。」

「十人以上の大所帯らしいからな。豊子さんも大変だ。」


 実は、豊子の手紙には稔には言えない内容も含まれている。


 豊子には嫁ぎ先の味を覚えろと言ったが、どうやら稲川家は全員料理が不得意らしい。


 今までは稲川の老母が何とかしていたが、食べ盛りの子どもたちのほかに大人も増えて作りきれないらしい。


 結局、畑仕事に不慣れながらも若い豊子に全ての家事が回ってきた。

 大雑把でも構わないと言われても、大量に作ることが出来ない豊子は、早苗から貰った料理本が大変重宝していると長々と書いてきていた。


 とにかく、書いてある分量を何倍かにして作ればいいと、腹を括って料理をしているらしい。


「冗談でもそんな所に、お嫁入りの道具と一緒に連れて行かれたら、たまったものじゃないわ。」


 早苗は稔の額を撫でながら、ふう、と息を出した。


「ははは、それは困るな。」


 全く困った様子もなく、稔は(くつろ)いだ顔で言った。


 早苗は稔の髪を撫でていたが、ふと気がついて言った。


「髪が伸びてるわね。」

「いや、まだ大丈夫だ。」


「切った方がいいわよ。」

「それじゃあ、展示会になったら。」


 なんとなく稔は逃げ腰のまま、その日は終わった。





 桜が三分咲きになった頃。


 久間木が花見に訪れた。


「ああ、綺麗に咲き始めましたね。」


 縁側の雨戸の戸袋を背にして、久間木が桜を見上げた。

 早苗が座布団を勧めると、一度腰を上げて座布団を敷いた。


 そして、また同じ体勢になる。


「すみませんね。どうも桜の花を見る時の癖になってましてね。」


 戸袋を背にして久間木が笑う。


「部屋の真ん前の縁側には、父が座ってましてね。私はいつも端っこに座っていたら、なんだか癖になりまして。」


 持参した煙草盆を寄せると、「失礼しますよ」と断ってから煙管(キセル)をふかしはじめた。


「いつも思うんですけど、なんで桜がここまで気にかかるのでしょうね。」

「春の花だからでしょうか。」


「早苗さんならそうでしょうね。私にはどうもそう思えない。農家の方なら、種蒔きの知らせだと言うのでしょうが。」


 ふわっと紫煙がくゆる。


「ああ、種蒔きと言えば。豊子さんは元気そうですかね。」


 そこからは雑多な話に紛れた。


 しかし、途中で早苗が豊子の手紙で思い出して言った。


「稔さん、髪を切るのはいつにしますか。」

「それじゃあ、今切って貰おうか。」


「え、今?」

「髪を切られながらでも、久間木さんとはお話が出来るからね。」


 早苗は不思議そうな顔をしながら、久間木に許可を求めると快諾されたので、準備を始めた。


 庭先に腰掛けを置いて、そこで切ることにした。


 準備を始めた早苗が見えない所へ行った時に、稔がこっそりと久間木に言った。


「早苗が嫌がるから、散髪は床屋さんじゃなくて、早苗に任せているんですが、どうも上手くなくて。」

「ほほう、それじゃ、私は監督役ですな。」


 ふふふと笑いながら久間木が委細承知したと頷いた。


「まあ、私の頭ではあまり説得力はありませんが。」


 久間木がつるりと頭を撫でたが、


「どことなくおかしい所があれば言って下さい。切られている方は分からないので。」


と、思いの外真剣な顔で稔が言った。





 稔の髪は全体的に長めである事が多い。それは早苗が短髪に仕上げられるほど、散髪の腕があるわけではないからである。


 ある程度の長さを残して仕上げるため、そうなってしまう。


「早苗、今日は久間木さんが親方だからね。素直に従ってくれよ。」

「そんなに心配しなくても、いつもなんとかなっているじゃない。」


「床屋さんは男が多いから、行っても大丈夫だって。」

「だめよ。一度稔さんの髪を切った床屋さんが稔さんの髪を売っていたでしょう。」


「あれは、本当だったのかなぁ。」

「本当だったから、大変だったのよ。」


 早苗は慣れないながらも(はさみ)を入れていく。


 何度も(くし)を通しては、ああでもないこうでもないと鋏を入れる。


 咲き始めの桜の下で、白い布を首から下に広げた稔が、二重まぶたの大きな目を伏せて、まつげで影を作っている。


 その稔の髪を手に、(たすき)掛けをして白い腕をあらわに髪切りに奮闘する早苗。時々、稔の髪を見直すように細めると流し目が美しく映える。


 久間木はその様子を見て、目を細めて笑っていた。


「桜の下で髪切りをするのが、これほど美しく見えるとは思わなかった。」


 久間木はぽつりと呟いた。


 早苗にも稔にも届いてはいない。


 それは、久間木の胸ひとつに収められた美しい春の絵の一枚だった。










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