2:他人からの好意を、身に覚えのない借金がごとく重荷と感じる者もいる
『――他人からの好意を、身に覚えのない借金がごとく重荷と感じる者もいる』
暇な日に『世界の名言集切り抜き』みたいなのを眺めていたわたしが、妙に共感を覚えた言葉だ。
まあ……そんなわたしなので。
早田君からの好意に、こう返すしかなかった。
「わたしと付き合うなら……毎日わたしと会いたいなら……浮気することになるよ?」
畳みかけるようにわたしが言うと、早田君は目を白黒させた。
こうも彼を困惑させている事実に、胸が痛む。
いつもこの時間にバスで乗り合わせる彼。
いつも目が合う前から少し笑っている、彼。
わたしより頭ひとつ背が高く、近所にある立木見高校のブレザーを着ている彼。
毛先のハネた黒髪が日によってシルエットを変えている彼。
耳の下、襟との境目にたまにのぞく黒子が気になる彼。
骨と血管浮き気味な、大きめの手をした彼……ところでこういうわたしのフェチ的な観点は、早田君に気づかれていたのだろうか。
まあ。
もう、どうでもいいけれど。
どうせ今日で、終わりなのだから。
彼との時間は、わたしから……終わらせてしまうのだから。
「明日から毎日この時間、バスに乗って」
『浮気することになるよ?』などという妄言につづけてわたしが言うと、早田君は困惑の色を強めた。
でも彼に疑問をさし挟む余地を与えず、わたしはまくし立てる。
「水曜以外は部活あるって言ってたけど、いまは十月の中間テスト前だから活動ないでしょ」
「そうだけど、でもその前にさっきの、」
「だからこの時間にバスに乗って。土日も」
「いや、こっちの話遮らないで。さっきの『浮気』ってどういう、」
「そんで一週間後、またこの時間に会お。そのときまでに、決めといて」
「待った待って、説明してくれ。話が見えない。決めるって、なにを?」
「……『浮気する』……か、どうかを」
呆然とする早田君に言いつける。
そこで最寄りの停留所に着いた。わたしは彼の横を無言で通り過ぎる。
ステップを降りて振り返ると、動き出したバスの中で彼はすとん、と座席に座り込むところだった。
頭の上に疑問符が浮かんでいるのが見えるような、複雑な表情をしている。
わたしはバスが走り去るのを見届けてから、んんっ、と肩に力を入れて、脱力し、バス停のベンチに腰を下ろした。
「はぁ」
肩からバッグをずり落とす。
ふるふると震える両手を見つめる。
口が自然と開いた。
次いで喉の奥から、深く、深ぁーく、ため息がこぼれる。
「……あぁー……」
ゆっくりと、
うつむいて、
掌に顔を埋めた。
……言っちゃった。
そんで彼はもう、行っちゃった。
発言の訂正はできない。どうしようもない。
これから一週間先まで、のたうち回って待つしかない。
……まぁわたしにとって。
一週間先とは、明日のことだけれど。
「あーあ」
やってしまったことへの後悔で、ため息が漏れる漏れる。肺の空気を出し尽くしてしまいそうだ。
あーあ。
あーあ!
あーあー、あぁぁーもぉぉ!
彼がせっかく、好きと言ってくれたのに。
わたしも……早田君のこと好きだったのに。
だからうなずこうかと思ったのに!
「結局、前々から決めてた返事にしちゃったなぁ……」
遠回しなお断りの言葉。
『毎日わたしと会いたいなら……浮気することになるよ?』という意味不明な言葉。
でも明日になれば彼は理解するだろう。
この言葉に込められた意味――わたしの抱える、他のひととのちがい。
そこを知れば、納得してくれるだろう。
「さよならだろね、早田君」
出会って五度目でやっと聞き出せた彼の名前を、ぽつりとつぶやく。
そのときにわたしも名前を教えて、時たま呼ばれることが、とてもうれしかったのに。
わたし、七原氷雨と彼の出会いの物語はこれで終わる。
……はず、だった。
#
「浮気はしない。でも、付き合ってください」
一週間後にバスで再会した彼は、毅然とした態度でそう言った。
……いやいや。
すごい真正面から来たけれど!
理解してるんだろうか、このひと。
わたしの抱える、状況を。
「早田君、毎日会いたい、って言ったよね」
「言った」
「……毎日なんて会えないよ? わたし」
その事実をかみしめるのが嫌で、苦い顔になりそうだったからうつむいた。
じっと膝の上を見つめたままで言葉を継ぐ。
「この一週間で、会ったんだよね? あいつらに」
「……会ったよ。六人に」
言葉を切って、早田君は数え上げるように名を挙げる。
「燈火さんと木花さんと釦さん、吉埜さんと日乃さんと月乃さんに」
彼の口からあいつらの名前が出てくると、いよいよ現実感が増してきた。
知られてしまったのだ。
もうこれまで通りでは、いられない。
「じゃ、わかったでしょ」
「『毎日会えない』ってことの理由、か」
「ん。毎日会おうとするなら、浮気することになるよ」
非常につまらない種明かし。
うつむいたまま、ため息で声の震えをごまかして、わたしは早田君に告げる。
「だって水曜以外の日――ここにいるのは、わたしじゃないんだから」
だからお付き合いなんて、できない。
普通の恋人のように毎日会ったり連絡取り合ったり、日常を共有することができない。
そんなの申し訳なくて、それに付き合うなんてしたらあいつらにも負担だし……だから私はこう告げるしかなかった。
遠回しに、遠ざけるため。
つづけて、突き放す言葉を紡ぐ。
「ごめんね。だから、付き合えないの」
自分で言ってて死にそう。なんで好きなひとなのに追い払わなきゃいけないんだろ。
でも顔を下向けたままでお断りなんて失礼だ。
せめて最後くらいは、ちゃんと向き合おう。正面から目を合わせるの苦手だけど……
と思いながら顔を上げると。
早田君は、不思議そうな顔をしていた。
「え、なにその顔」
「その、いまの『だから』の意味がよくわからなかったからさ……」
「なに言ってるの。付き合えないでしょ。毎日会うなんて――できないのに」
「毎日会いたい、ってのは希望だったけど必要条件じゃないんだ。そういう事情があったならべつに構わないよ、会えるのが週一でも」
あっけらかんと、早田君は言った。
腕組みしてなにやらうんうんと、納得するようにうなずいている。
「遠距離恋愛のひとだって世の中にはいるし、なんなら月一でしか会えないひともいるわけで。そう考えたらむしろ僕は恵まれてる方だな」
「い、いやいや……そういうひとたちは、会えないときも電話なりSNSなりしてるでしょ……わたしは、水曜日以外ほんとうに、なにもしてあげられない」
「水曜ならなにかしてくれるんだ?」
「た、たとえ話。可能ってだけの話だからソレ」
こちらの揚げ足取るように、ぐいぐい来る早田君だった。
ちょっ、大胆すぎない? いや、告白なんて勇者の所業する人間が大胆じゃないはずがなかった。反語。じゃない。混乱してるぞわたし。
「待った待って、なに。早田君は……その。まだわたしと、付き合いたいと、思ってくれてるの?」
「……そうだよ」
急に照れ顔挟むのやめてくれないかな! 心臓に悪いから!
と、不意に彼は照れ顔から素に戻る。ちょっともったいなかったな、もっと見とけばよかっ……じゃない。
「あ、そうだ。氷雨さんに、言わなきゃいけないことがあった」
「……ん、わたしに?」
「えっと、そのぉー……誠に申し上げにくいのですが……」
あらたまってしまって変に敬語なんて使う早田君。
な、なんだろう。こわい。でもここまで来て耳をふさぐこともできやしない。仕方ないから先をうながす。
「いったい、なに?」
「その、ですね。……みなさんに」
「みなさんって、あいつらのこと?」
「そう、氷雨さんの言うあいつら。えー、あの。彼女たち六人全員に、ですね……」
「うん」
「『自分と付き合わない?』って訊かれたんだけど……」
わたしはめまいがして倒れそうになった。




