02 三千院を訪ねる
三千院の家に婚約の挨拶に行く日、高志郎さんが車で迎えに来た。運転席に座っているのを見て、僕はちょっとだけ息を呑んだ。
左手の肘から先がない高志郎さんが、何事もない顔で車を発進させた。左手に取手がつけられてそれでギアを入れている。
ハンドルも片手で回せるようになっている。
「この車、特別なんだよ」
バックミラー越しに高志郎さんが笑った。
その優しい声を聞くと、僕の胸は少し落ち着く。
「左手がないくらいはどうってことないんだよ」
「すごい」
本当に、それしか言えなかった。
障害があっても普通に生活している人がいることは知っている。
でも、それは画面の中。誰かの話題の中。実際、その人が運転する車に乗るなんて想像もしなかった。
母さんは横で小さく笑っている。
母さんのその笑顔を、僕はまだちゃんと信じ切れていない気がする。
それでも、あの穏やかな横顔は、なんだかまぶしかった。
峠で車を止めて町を見下ろした。曇った空と、遠くの木立が黒く沈んでいる。
町は暗く見えた。山間の町ってああ言う風に見えるんだ。そして、首の後ろがチリッとした。
誰かいるのかな?と振り返ってみたけど誰もいない。当たり前だよね。こんな所で・・・
その町に近づくに連れて、僕の心に不安が広がった。不安って大げさな言い方だな。心配になって来た。僕はちゃんと挨拶が出来るだろうか?
遠くの奥の方大きな屋根が見えた。それが三千院と聞いて映画のセットみたいだと思った。そしたら、今度はどうしようもなくわくわくしてしまった。
「ここだ」
高志郎さんの声に合わせて、車は大きな石の門をくぐった。
くぐってからも、走り続けた!! 本気?石畳がずっと続いている。
屋根の形も、深い軒先も、どこもかしこも昔の時代劇みたいだった。
庭に車で入ったよ!
「ほよーー」と声が出た。
母さんも小さく笑って
「航平、失礼のないようにね」って言ったけど、僕の頭はもう昔の人たちのことでいっぱいだった。
ここを着物を着た武士が歩いて、縁側で碁を打って、庭を眺めていたかもしれない。
どこを見ても面白くて、見足りなかった。
そんな顔をしていた僕の背中を、高志郎さんがポンと叩いてくれた。
「いい家だろう」
「うん!」
僕は夢中で頷いた。
茶室に通されたときも、僕はずっとそわそわしていた。
畳の匂い、庭の苔、細い柱、全部が昔の物語の中にいるみたいだった。
密談する場所だよね・・・
お祖父さん?の聖一郎さんも、お祖母さん?の光子さんもきちんと着物で迎えてくれて、母さんはスーツの皺を気にしていた。
高志郎さんは横で静かに笑っていた。
でもお茶をいただくとき、僕は問題にぶつかった。
正座が、思ったよりきつい。
お菓子はすごく甘くて美味しくて、口の中は幸せなのに、足がどんどん痺れていく。
「では、応接間に行こうか」
高志郎さんの声に、僕は立とうとしたけど、立てなかった。
「あ?あれ?」
右足がまったく動かない。
僕は半分這うみたいになって、お祖父さんの前に進んだ。
聖一郎さんの目尻がほんの少し下がって、光子さんが「まあまあ」と笑っている。
「ゆっくりでいいのよ。足が治るまで、そのままで」
「はい・・・」
結婚の許しは、思っていたよりずっと簡単に出た。
高志郎さんと母さんのことを、お祖父さんもお祖母さんも静かにうなずいてくれた。
余計なことは何も言わなくて、僕には「頼むぞ」とだけ言った。
何を頼まれているのか、僕にはまだよく分からなかったけど、背筋を伸ばして頷いている母さんを見ていたら、僕も自然と背筋が伸びた。
足はまだ痺れていたけど。
帰りの車に乗り込んだ途端、眠くなった。
大きな屋根、苔の庭、畳の匂い、甘いお菓子。
全部が夢みたいで、門を出たころにはもう瞼が落ちてきた。
母さんの「もう寝ちゃったの?」って声が遠くに聞こえた。
高志郎さんが運転する車は、行きのときと同じで穏やかに揺れていた。
目を覚ましたときには、家に着いているな。最後にそう思った。
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