最終章『祝福の鐘は、雪の妖精と共に』
『------全島民収容完了。全隔壁閉鎖終了。周囲シェルターブロック、本島ブロックから順次分離、スタート------』
イヤホンから聞こえるフィアナさんの声。それに合わせて、次々に周囲ブロックが島から離れていく。
俺の真後ろにあったブロックEのシェルターも、もはや島から遠く離れ、小さな灯りが遠目に見えるだけになっていた。
「------二人きりだね、クリス。」
後ろを振り返ることもなく、そして誰にともなく、俺は呟いていた。
一歩、前に踏み出す。
俺の周りには、まだ先ほどの戦いの跡が色濃く残っている。あちらこちらが、さしずめ隕石でも降ってきていたのかと思うほどに深く大きく陥没し、倒れた木々を火の粉が舐めている。
ふと、前を見る。
「オーディン------ミツケタ。」
------いた。
陽炎の奥------目の前に、黒い軍服と、それと同じ色の装甲、そして、ふわふわと揺れる、長く美しい金色の髪が見える。
「------クリス。」
あれだけの攻撃を身に受け、地面や岩肌に何度となく叩きつけられていたにも関わらず、傷ひとつ見えないその姿を見て、俺は声を出していた。
ぼうっとしたエメラルドの瞳が動く。焦点が定まらないその視線が俺を捉えた時、俺はクリスに届けと言わんばかりに、大きな声で呼びかけた。
「クリス------そこにいるんだよね。
みんな待ってる。さあ、俺と一緒に戻ろう、みんなのところに…!!」
…声をかけて元に戻るなら、苦労はしない。
それはわかっているけれど、俺はその言葉を確かに口にしていた。
「オナカ…スイタノ------」
クリスから返ってくる、そんな声。
「…そうだよね、だってクリス、お昼から今まで、何も食べてないもんね…。
…帰ったら、たくさんいろんなものを食べようよ。さっき、クリスの故郷の食べ物、食べたばかりだから…今度は俺が教えてあげるよ。日本のおいしいもの…。何がいいかな…。日本って、本当にいろんなものがあるから…もしかしたら、生きてる間に全部は食べきれないかも…。」
…わかっている。
こんな言葉は、今、お腹を空かせた捕食者として、オーディンというただひとつの餌を求めているクリスには、まったく聞こえてなどいないだろう。
…そういえば、クリスはどう思っているのだろう。
俺が------餌となるべき俺が、捕食者たる彼女に、一歩ずつ着実に向かっていっていることを。
「アァ…ヤット…タベラレル------
オナカイッパイ------タベラレルノ------」
…クリスが、こちらに向かって手を伸ばす。その表情は、今までのぼうっとしたものではない。普段からは考えもつかないその妖艶な表情は、さながら獲物を追い詰め、さて、どこから喰ってやろうか、と舌舐りをしているかのようだ。
俺は逆らわず、その手を掴む。
「------…だから、今は俺を食べちゃいけないよ。
おいしいものをこれからたくさん食べるのに、お腹がいっぱいだったら、楽しみがなくなっちゃうから。」
目を閉じて、俺はクリスの手を、しっかりと握り直して、口を開いた。
「------接続------!!」
------俺がビフレストを繋いだと同時。
「ーーーーーー!!」
…クリスから俺に向かって、何かが勢いよく流れ込んでくる。
(------まさか、これがヴァルキリーからのビフレスト…!?)
狼化ヴァルキリーは、普段はオーディンからヴァルキリーへの一方通行であるビフレストを、自分からオーディンへと接続することができるようになってしまう------フィアナさんの言葉の意味を、俺は今、この場で知る。
------以前、クリスは俺とはじめてビフレストを繋いだ時、『真っ白で純粋、そしてあたたかい』と言ってくれたことがあった。
しかし…今、クリスから流れ込んでくる何かは------その彼女が白い純粋なものと言ったものではないことを、俺は直感的に察する。
俺からクリスに流れ込むものが白だとしたら、クリスから俺に流れてくるものは、白を片端から染め上げてしまう、黒。
「------ぐ、あっ…!!」
突如、全身を襲った激痛に、俺は苦悶の声を上げる。
爪で全身を切り裂かれ、鋭い牙で喉笛を食いちぎられるような感覚が全身を駆け巡ったかと思うと、血の匂いに集まり、獲物を横取りしようとする獣たちと、獲物を取られまいとする獣たちが、各々俺の腕を、足を、体を拘束して、俺の体が千切れとびそうな勢いで縦横無尽に引っ張り合うような、そんなとてつもない痛み。
「…っ、ぐ、うあぁぁぁぁぁぁっ…!!」
------俺はそんな中でも、俺の手を握るクリスを真正面に見据えて、その体をしっかりと抱き寄せていた。
「------クリス、聞こえる…?
俺は…ここだよ、ここにいるよ…。」
------クリスにその声が通じたかどうかはわからない。
俺の意識が、落ちていく。
深い、深い、闇の中へと------
目を覚ました時、俺はどこか街の中にいた。
「…ここは…。」
体を起こす。…そうだ、クリスは?
「クリス…クリス、返事して!」
俺は、先ほどまで腕の中にいたはずのクリスを呼ぶが、答えは帰ってこない。
「…おにいちゃん、だあれ?」
女の子の声が聞こえる。
振り返ると、日本人ではない、見たことのない女の子が、俺の方を見て不思議そうな顔をしている。
「君は…?」
よくわからないまま、俺はその子に問う。すると、女の子はうーん、とひとしきり考えた後に口を開いた。
「…えっとね、どーん、っておっきな音がして、お外がとっても騒がしくなって…それでね、気がついたら、おにいちゃんがいるのを見つけたの。」
…どういうことだ?
俺がそう思った時。
------ド、ゴォォォォン------!!
聞き覚えのある発砲音に、俺はとっさに女の子を抱えて地面に伏せる。砲弾が唸りを上げて俺の頭上を飛び越え、石造りの建物にぶつかって爆発した。
「いきなりごめんね、大丈夫だったかな?」
「…あ…ありがとう、おにいちゃん。」
それを皮切りに、四方八方から、似たような発砲音と爆発音が飛び交うようになってきている。…ここにいては危険だ、と、俺の心がそう告げていた。
「ええと…君、おうちは?お父さんやお母さんは?」
「えっと------あっちの方、あのおうち。」
…よし、どうして俺がこんなところにいるのか、どうして言葉が通じているのかもよくわからないが、とりあえず、この子を両親に引き渡さなければ。そう思った刹那------何度目だろうか。耳をつんざく砲撃の音がまた聞こえたかと思うと、先ほど女の子が指さしていた煉瓦造りの建物に巨大な穴が空き、その丈夫な壁ががらがらと大きな音を立てて崩れ落ちる。
「------え…。」
女の子が、信じられないような目で、崩れ落ちた建物を見つめる。
「そんな…パパ…ママ…。」
ふらふらと建物に近づき、ぺたんと座り込む女の子。その時、後ろから重苦しい地響きのようなものが聞こえてきて------俺は咄嗟に、それは危険な音だと察する。
「…君、だめだ、危ない!」
------俺が叫んだ時、どこからかまた大きな轟音が轟いた。恐らく流れ弾なのだろう。女の子の近くに着弾した砲弾が、女の子を軽々と吹き飛ばし、その小さな体が、かつて彼女の家だったのであろう瓦礫の山へと思い切り叩きつけられる。
「------っ!!」
俺が駆け寄ると、叩きつけられた衝撃だろう。全身から真っ赤な血を流しながら、女の子は俺に向かって、最後の力を振り絞るようにその小さな手を伸ばし、掠れる声で呟いた。
「------いたい、よ…苦しいよ…
たすけて…だれか------たす…け…て------」
そのまま、彼女は涙を流しながら目を閉じて、やがて動かなくなる。
「あ…あぁ…。」
ぐったりとしたその小さな体を横たえた俺の手が、震え出していた。
…小さな命が、尽きた。俺の手の中で。
「------逃げろ、早く逃げろ!!」
そこかしこから、人々の叫ぶ声が聞こえる。
------ふと、声のする方を見たとき、俺はここが果たしてどこだったのかを知る。
「------ブランデンブルク門…!?」
…遠目ではあるが、おそらく、間違いない。
ベルリンの象徴的建造物------ブランデンブルク門。
今度は、その砂岩で作られた門に砲弾がかすめ、そこに施されたレリーフがぼろぼろと崩れ始める。
「…ソ連が攻めてきた…。終わりだ…もう終わりだ…。」
「何だよ…何なんだよ…。総統は俺たちのドイツが必ず勝つって言ってただろ!?なのになんでソ連が攻めてくるんだよ!?」
「嘘だったのよ…総統の言葉も、ドイツの強さも、全部嘘だったんだわ…!!」
…周りから、呪詛や失望の叫びが止めどなく飛び交っている。その中でも、とめどなく撃ち込まれる弾丸や砲弾は留まることを知らず、街を次々に瓦礫の山へと変えていく。
------俺は気づいた。
おそらく、ここは------1945年、4月から5月にかけてのベルリン。包囲戦から大規模な市街地戦へと発展した、第二次大戦における独ソ戦、その最後の戦いの地。
「------貴様ら、今何と言った、ヒトラー総統や我らがドイツを愚弄するか!!」
黒く不気味な服を着て、二人の武装した兵士を引き連れた男が、先ほどまで騒いでいた人々を一喝しているのが聞こえる。
「こ、こいつらです、こいつらが言ったんですよ!俺は何も言ってない…そう、何も言っていないんです!」
「お、お前、秘密警察に目をつけられて、一人だけ助かるつもりかよ!?こいつも…こいつも言っていましたよ、ソ連が攻めてきたから終わりだ、とか、こいつに至っては総統が悪い、とか!…ほ、ほら、俺、ふざけたやつを告発しましたよ、だからその…俺は…俺は悪くない…悪くないんです!」
「ふ、ふざけないでよ!なんで一番あたしが悪いみたいになってるのよ!?元はといえば、あんたたちが男のくせに弱音を吐くからでしょう!?」
「ええい、黙れ!私の耳は誤魔化せん、貴様らは国家に対する反逆者だ、まとめて逮捕する!抵抗するならば発砲しても構わん、やれ!!」
人々の罪の擦り付け合いの中、痺れを切らした黒服の男が兵士に命令すべく右手を上げようとしたとき------
------パァンッ!!
軽い爆発音とともに、黒服の男が、胸から血を吹き出して倒れ伏す。彼の後ろに立っていた一人の兵士が、黒服の男に対して拳銃で発砲したことに気づいた時、その兵士が呟いた。
「…もはやこうなっては、秘密警察だろうがナチスだろうが総統だろうが関係ない。どうせ、遅かれ早かれこの国は連合国に負けるんだ…。」
彼が呟いた時------
「お、おい、あれ…。」
もう一人の兵士が、後ろを指差している。その先には------装甲を黒く塗り直され、ソビエト連邦の国章を施されていてもなお、ドイツ軍の兵士たちにとっては見覚えのある形の戦車が、目前に迫っていた。
「------ティーガーⅠ…鹵獲されたものがあると聞いたが…まさか…ここにいては危険だ、逃げろ、早く!」
先ほど黒服の男を撃った兵士が叫ぶと同時に、二人の兵士が構えた軽機関銃から撃ち出された弾丸が、軽い速射音と共に黒いティーガーへと襲いかかる。しかし、歩兵の持つ機関銃ごときで止められると思うな、と言わんばかりに、黒い装甲が金属音を発して弾丸をことごとく弾き返し、お返しとばかりに、アハト・アハトの砲口が彼らに…そして彼らの後ろで恐怖のあまり立ち尽くすしかない市民たちに向けられた。
「------伏せろぉっ!!」
兵士が叫んだ瞬間、アハト・アハトの砲口が火を噴いた。その砲弾は無抵抗だった人々を容赦なく吹き飛ばし、いくつかの屍を履帯によって嫌な音を立てながら踏み潰していく。
「…許す…な…。」
ヘルメットが吹き飛び、体のあちらこちらから血を流している兵士が、掠れる声で言った。
「許すな…ナチスを…ファシズムを…。
戦争を起こし…あんな…化け物を作らせ…ドイツを焼かせた…ヒトラーを…許す…なーーー」
兵士が、動かなくなる。
------命が、また消えた。
そして------俺は確信する。
これは、クリスの力…ティーガーの記憶。
狼化ヴァルキリーとなったクリスの、あの禍々しい黒の装甲。あれは------クリスに力を与えたティーガーが、祖国ドイツを焼いた時のものだったんだ。
「------やめろ…やめてくれ…もう…やめてくれ…!!」
その時、一人の男性------俺よりも年上…秀真さんや珀亜さんと同じくらいだろうか------が、黒いティーガーにふらふらと近づいていくのが見えた。
「もうやめてくれ…僕が…全部、僕が悪かったんだ…僕が…僕が…!!」
悪かった…その意味は、俺にはまったくわからない。俺が考えている間に、彼はそう言って、黒いティーガーの前に崩れ落ちる。しかし、ティーガーは今度はお前だとばかりに、機関銃の銃口を彼へと向けた。
------だめだ。
そこにいちゃだめだ!!
しかし、俺の声が彼に届く前に、機関銃が火を噴いた。唸りを上げるように立て続けに銃口が弾丸を撃ち出し、肩を震わせて動こうとしない男性へと襲いかかった。
「-----------!!」
叫んでいたのか、何も言えなかったのか、それはわからない。
そんな俺の視線の先で、胸を無数の弾丸に撃ち抜かれた男性が、そのまま後ろへと倒れこんだ。
生死を確認しようともせず、黒いティーガーはそのまま、履帯を軋ませて走り去っていく。置き去りにされた彼は、震える声で、しかし最後の力を振り絞るように言った。
「…はは、自分たちの…技術で…自分達の国が焼かれるとは…僕がやったことで…その結果とも言えるものによって、命を絶たれる…本当に…皮肉だ…な…。」
声が、途切れる。
彼も、もう、動かない。
俺の目の前で、また、ひとつの命が尽きたのだ。
「あ…あぁぁ--------うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ-------!!!!」
銃撃の音や砲撃の音が周りからとめどなく木霊し、廃墟と化したベルリンの街。
その中で膝をついた俺は、とめどなく涙を流しながら、喉が枯れるほどに叫ぶしかなかった。
フィアナさんは、ヴァルキリーのランクは、ニーベルングの環の制御をどこまで外すことができるか、外した後、無意識下で兵器の記憶をどこまで制御できるのかというところから決定される、と言っていた。
クリスに力を貸しているティーガーは、こんなにも悲惨なものを見ていたのか。
クリスは、悲しかったという自分の生い立ちや、失敗ばかりの自分への後悔のみならず、無意識下とはいえ、こんなにも辛い記憶と共に生きてきたというのか。
俺の目から流れる涙は、いつまでも止まらない。止められない。
どうして、こんなにも悲しいのか。ベルリンの街で目の前で息を引き取った人たちは、まったく面識もないはずなのに。
それとも、ヴァルキリーの力を得た代わりに彼女の背負ったものの重さは、それを否応なしに理解させられてしまうまでに重く、苦しいものだったのだろうか。
吹き飛ばされただけで。
弾丸で撃ち抜かれただけで。
それだけで、あんなにも簡単に、人は命を奪われてしまうのだ。
恐ろしい。
怖い。
嫌だ。
見たくない。
ここにいてはいけない。
でも、どこに行けばいい。
俺は、そんなことしか考えることができない。
涙でぼやける目の前が霞み、再び暗闇が俺の視界を奪っていく------
「ー------この、親不孝者が!!」
その瞬間、暗がりの中、男性の怒鳴り声と共に、何かを思い切り叩くような音が聞こえてくる。代わりに、先ほどまで聞こえていた爆発音や発砲音は、どこへともなく消え失せていた。
周りを見回してみると、どこかの家の部屋の一室のようだ。
ドアが少し開いている。先ほどの怒号は、その向こうから聞こえてきていたはずだ。そう思って、俺はその小さな隙間から向こうを見て------
「クリス…アンネ…?」
少し遠目だが、間違いない。クリスは頬を押さえて蹲り、アンネがクリスを庇うようにしながら、目の前で二人を高みから見下ろすようにしている男性と女性を、真正面から睨み付けている。
「アンネマリー、そこをどくんだ!お前も痛い目を見たいのか!」
アンネと同じサファイアの瞳をした男性が、今度はアンネを見て言う。アンネは彼を睨み付けたまま、口を開いた。
「…父さんこそ、姉さんになんてことをするのよ…姉さんはただ、ヴァルキリーの力が怖いとか、人を傷つけるのが怖いって言っただけじゃない!!それだけじゃない…父さんや母さんは、姉さんがどこかの戦場で誰かを死なせてしまったり、怖い思いをしてもいいっていうの!?」
「アンネマリー、違うわ、私やお父さんは、クリスティナのことを思って言っているの。ヴァルホルで学んだ人は軍人になることも少なくないと言うし、軍人なら国家公務員の扱いなのだから、お給料だってとてもいいはずよ。そもそも軍人になったからと言って、必ずしも戦場に出なくてはならないわけではないわ。それに、万が一戦場に行くことになったとしても、クリスティナはランク1なんでしょう?ほら、ヴァルキリーは同じランクのヴァルキリー以外は傷つけることはできないらしいじゃない。だから…。」
男性の隣にいる、こちらはクリスと同じエメラルドの瞳を持つ女性が、お茶を濁そうとでもするように、そう口に出す。
…俺は、この時点で理解した。
これは、クリス自身の記憶だ。おそらく、フィアナさんから聞いた、クリスが社島へとやってくる直前の記憶。クリスが辛い想いをしてしまっただけでなく、活発だったらしいアンネも、人に対して固く心を閉ざすことになってしまったという記憶。
アンネは女性の言葉を聞いて、さらに怒りを爆発させた。
「母さんも…姉さんを一体何だと思ってるのよ…お金のためなら、姉さんの意思や命はどうでもいいってこと?ふざけないでよ!!」
それに対して、男性…アンネの言葉を借りれば、二人の父親がテーブルを何度も叩きながら言う。
「子供のお前に親の苦労の何がわかる!?お前たち子供を生んだのは親だ、金を出して育ててやったのも親だ!そして生んでもらって育ててもらったお前たち子供は、育ててくれた親に感謝し、楽をさせるという義務があるんだ、なぜそれがわからないんだ!?」
「はぁ?勝手に私たちを産んで、自分たちのプライドばかり優先して、フィア姉さんの真似事をさせてきた、の間違いでしょ!?学校だって、習い事だって…フィア姉さんがヴァルホルに行ったって聞いた時にはあれだけ私たちのところを才能なしなんて貶しておいて、姉さんが資質があることがわかった途端に手のひらを返す、おまけに姉さんがその力を怖れたら親不孝呼ばわりして、こっちが我慢してきたと思えばすぐつけ上がって…今日という今日は言わせてもらうわ。昔から思ってたけど、父さんも母さんも、どれだけ天の邪鬼なのよ!?」
「…お…お父さん…お母さん…アンネ…。」
俯きながら、クリスが少しずつ口を開いた。
「喧嘩、しないで…。私がヴァルキリーになったのに、ヴァルホルでお勉強をするのは怖いなんて言わなかったらよかったの…。資質があることがわかった以上、ヴァルホルに行ってお勉強しなくちゃならないのは、それこそ資質を持つ人の義務なのに…。お父さんやお母さんに育ててもらったことだって…感謝しなくちゃいけないのに…。」
「…姉さん…駄目、言うことを聞いちゃだめ…!!この人たちは姉さんの優しさに甘えてるだけなの、つけ上がっているだけなのよ!!」
「アンネマリー…違うの…違うのよ…。私たちだって、あなたたちを愛しているの…。それは本当なのよ…信じて…!!」
アンネの言葉に、母親がおろおろしながら言った瞬間、ついに二人の父親の怒りが頂点に達した。
「子供が大人の苦労を知ったような口をきくなと言ったはずだ!クリスティナ、お前がヴァルホルで学び、軍人になり、お父さんやお母さんに楽をさせることはもう決定事項だ、わかったな?そして、お前にそんな弱音を言わせたのは周りの環境のせいだろう。どうせロンメルの娘にでも何か吹き込まれたに決まっている。こんなことなら、中等進学校など行かせるべきではなかった。これからヴァルホルへ行くまで、家から外に出ることも、誰かと話をすることも許さん、部屋で一人で大人しくしていろ、いいな!!」
そう言って、クリスの父親はクリスの長く綺麗な金色の髪を掴み、無理矢理に彼女を引き起こした。
「あぅっ…お父さん、痛い…ごめんなさい…悪い子でごめんなさい…ごめんなさい…!!」
抵抗はせず、しかし涙をぽろぽろと溢しながら、クリスが声を上げる。
------やめろ!!
そう叫びたかったが、声が出ない。
そのままクリスの父親は、扉の開いている向こう側の部屋…おそらく、あそこがクリスの部屋なのだろう。その暗い部屋へとクリスを押し込めた。抵抗しないクリスは、そのまま固い床の上へと倒れこみ、扉が父親によって閉ざされる------
「…ねぇ、あの子じゃない?」
「あぁ、新しく来たっていう子?」
「そうそう。あの子、模擬弾や空砲すらまともに撃てないらしいわよ。この前なんて、撃った瞬間気絶したって。」
「えぇ?あの子最上位ヴァルキリーなんでしょ?あはは、おっかしー!!」
別の声が聞こえて、気がつくと、俺は見知った場所にいた。
…ヴァルホルのパンツァーの学舎、その廊下だ。
先ほど話していたらしい女の子たちが、なぜか左足を少し引きずりながら、顔を伏せて廊下を歩くクリスを横目で見ている。…その中の二人はどこかで見たことがあると思ったら、いつだったかクリスのところをいじめていたヴァルキリーたち…ルイーゼとグラディスだ。
…新しく来たって言ってたってことは、クリスがヴァルホルに来てからのことか。そんなときから、彼女たちはクリスのことを目の敵にしていたのだろう。それも、あの時はルイーゼとグラディスの二人だけだったが、実際にはもっともっと多くの人間が。
「あぁ、そうそう。ある先輩から聞いたんだけど、ほら、生徒会にすっごい格好いいオーディンの先輩がいるじゃない?あの子、その人の告白蹴ったんだってさ。」
「ああ、あの先輩ね。でもどうして?」
「えっとね、遠くからだったからあんまりよく聞き取れなかったみたいなんだけど、あの子、もっと相応しい人がいるはず、とか、自分のヴァルキリーの力を欲することはしないで、とか言ったみたいよ。」
「うわぁ、何それ、感じ悪ーい。ちょっと見た目がかわいくて才能があるからって、調子に乗りすぎじゃないの?」
「だーいじょうぶ、あたしもそう思ったから、今朝あの子の上履きに画鋲仕込んどいた。」
「あー、だからあの子、今足引きずってたんだ。あははは、ざまぁないわ!ていうか履く前に気づけってーのー!!」
「いやぁ、それもわざとかもよ?わざとドジに見せて、男からの同情を誘うつもりかも…。」
女の子たちは次々に、クリスに対する暴言や妄想を言い合ってはけらけらと笑いあっている。
何がそんなにおもしろいのか。
以前、俺がルイーゼとグラディスの犯行現場を押さえた時。彼女たちが規則を無視してヴァルキリーの力を使おうとして、俺がその餌食にされそうなところをフィアナさんとアナスタシアに助けられた時。
…フィアナさんやアナスタシアがいなかったら、俺はどうなっていたのだろう。彼女たちはどうなっていたのだろう。
下手をすれば俺は死に、彼女たちは誰にも何も言われないまま、クリスのところをいじめていたのだろうということは、容易に想像がつく。
------戦場の光景…ティーガーの記憶も悲惨なものだった。
しかし、クリスの記憶も、相当に心が痛む。
あちらこちらから、また映像が飛んでくる。
それはすべて、クリスが辛い顔をしているもの。
クリス。
そんな顔をしないで。
そう思った時、また視界が暗転する。
「------やっぱり…誠さん…来てしまったんですね。」
闇の中で、いつの間にか、聞き覚えのある、鈴の鳴るような声が聞こえてきた。
いつの間にか蹲っていたらしい顔を上げると------黒い軍服と装甲に身を包んだ金色の髪の女の子が、悲しそうな顔で俺を高みから見下ろしている。
「------クリス。」
俺は、彼女の名を呼んだ。
「クリス…クリス、なんだよね…?」
咄嗟に、クリスに向かって手を伸ばす。
しかし、クリスは俺の手を取ることなく、くるりと後ろを振り向いて俺に言う。
「…恥ずかしいところ、見られちゃいました。…失望、しましたよね?」
「……。」
何も言えない俺に、クリスはまた、
語りかけるように言う。
「…いいんです。わたし、兵器ですから。人を傷つけることしかできないものですから。わたしは…ティーガーは、そのために生み出されたものなんですから。
それに、お父さんやお母さんともあんなことになって、アンネにも辛い思いをさせちゃって、言いつけ通りにヴァルホルに来ても、なかなか周りに溶け込めなくて、チームでも役立たずで…それだけじゃないです。わたしは、わたしの手で、たくさん傷つけてしまいました。ヴァネッサさん、βのみんな、リゼットちゃんに飛鳥ちゃん、ヴィクトリカちゃんまで…嫌いって言われても、仕方ないです。
…それに今、わたし、あなたを食べようとしているんですよ?そんな相手…怖くて、気持ち悪くて…一緒にいられないですよね…。
…仕方ないんです。わたしの力では、もう、わたし自身を抑えることができない…。食べたい、食べたい、って、体の中で何かが暴れてるんです。だから…。」
…クリスの言葉が、俺の胸に突き刺さる。
…これが、クリスの本心なんだろうか。
わからない…というよりも、そんなこともまったく考えられないほどに、俺の頭の中に、先ほど見た戦火に焼かれるベルリンの、クリスの家の、そしてヴァルホルに来たばかりのときの映像が渦巻いては消え、それに伴って神経が焼き切れていくような感覚に襲われている。
俺は、何をしていたんだったか。
ここに、何をしにきたんだったか。
頭が、ぼうっとする。
感覚が、失われていく。
意識そのものが、暗転しようとしている------
------その時。
コツン、と、指先が何か固いものに触れた。
(「…あれ…。」)
はっとして、目を開けた時------いつの間にか、俺の左手が、制服のポケットの中に入れられていたのに気づく。
(「------俺は、ポケットの中のものを知ってる」)
今度は、目の前のクリスを見る。
目の前のクリスは、本物だ。
俺にはわかる。
クリスから、黒い感情が流れ込んでくる。
俺からは、白い感情が、クリスに向かって流れ込んでいる。
------。
ああ、ようやく理解した。
俺が流した涙の意味を。
あれは、俺の涙…そして、俺とビフレストで繋がるクリスの涙。
俺たちは、きっと同じものを見ていたのだろう。そして、人の痛みを理解しすぎるクリスと俺が繋がっていることで、彼女の悲しみも、俺は理解することになったのだ。
そうだ。
俺は、クリスと繋がっている。
ヴァルキリーとオーディンとして。
クラスメイトとして。
過去には友達として。
そして今は------かけがえのない恋人として。
それは、決して途切れることはない。どんなに辛いものでも、否定するわけにはいかない。
だって------そのすべてがクリスなのだから。
そう思った瞬間------急に、今まで見えてこなかったものが見えてくる。
ぽつぽつと現れるそれは、クリスを案じる、みんなの姿。αのみんな、フィアナさんやアンネ、重樹たち、珀亜さん…みんないる。
その中には…俺の姿もあった。
…伝えなければ。
俺の気持ちを。決して変わらない、俺だけの気持ちを。
そして…俺だけじゃない、みんながクリスのことを待っていることを。
「…クリス。」
俺はクリスの手を握り、社島でそうしたように、クリスの体を引き寄せ、一思いに抱きしめる。
「あ…誠さん…だめ…!!わたしに近づいちゃ…このままじゃ、わたしはあなたを本当に食べちゃう…そんなのは嫌…嫌なんです…!!まだまだたくさん、あなたとの思い出、作っていきたいのに…なのに…。」
整った顔を歪めて、ぽろぽろと涙を流しながら言うクリス。
「…やっと、本当のこと言ってくれた。」
俺は彼女を抱きしめたまま、ポケットから小さな箱を取り出す。
--------ポケットに入っているものは、俺からのクリスへの、クリスマスと誕生日のプレゼント。そして-------俺とクリスの繋がりの証。二人で一緒に生き、同じ時間を歩むことを決めた俺の、今できる最大限のプレゼント。
俺が、箱の蓋を開ける。
「いろいろあったけど、壊れてなくてよかった。
------ちょっと早いけど、誕生日おめでとう。それから…メリークリスマス、クリス。」
「あ…。」
箱の中を見て、口元を押さえたクリスの目から、つうっ、と一筋の涙が伝う。
中に入っていたもの------それは、銀色に光るペアリング。
俺はクリスの左手を取って、その片方を彼女の薬指へと通す。
「…よかった、ぴったりで。…実は、少し不安だったんだ。フィアナさんに言われて慌てて買いに行ったから、サイズとかまったくわからなくて…そりゃまあ…俺のお小遣いで買えるくらいのだから、そんなに大したものではないんだけど…。ただ、俺がクリスと一緒にいたいって思ったら、これしか思いつかなくなっちゃって。」
俺がそう言うと、クリスが上目遣いで俺の顔を見て呟く。
「誠…さん…。」
俺はクリスの瞳をしっかりと見た後、笑顔を浮かべて言った。
「…みんな、クリスのことを待ってる。シャーリーも、ヴィクトリカも、エレーナも、飛鳥も…もちろん、リゼットも。
それだけじゃない。重樹も、βのみんなも、珀亜さんたちも…アナスタシアたちも…アンネも、だ。
それに…もしも、みんなの言葉がクリスに対する嘘だったとしても…クリスには、俺がいる。
俺はクリスの居場所になりたい。許し、許される人間でありたい。だから、世界中が全員敵になったとしたって、俺はクリスとずっと一緒にいる。クリスには、絶対に嘘はつかない。…いや、つきたくない。思い出したんだ…俺は…そのためにここにいるんだ、って。
…だからクリス…俺の側にいて。俺の隣に…ずっと、ずっと。」
「…わたし…誠さんと一緒でいいんですか…?あなたの隣で生きて…いいんですか…?」
俺は、震える声でそう問いかけてくるクリスを再びぎゅっと抱きしめて、しっかりと声に出す。
「クリス…俺はクリスのことが、本当に好きだ。もう、クリスのいない世界なんて想像できないし、したくない。
今、君の言葉を聞いて、君も同じことを考えてくれてるんだってことが、改めてよくわかった。俺を大切に思ってくれてること、愛してくれること、だからこそ、俺を食べることは嫌だって言ってくれたこと。
…さっき、君は自分のことを、ただの兵器って言ったよね。…ただの兵器が、そんなこと思うはずない。
君は、クリスティナ・E・ローレライだ。ヴァルキリーであったとしても…俺の大好きな…そして、俺のことを愛してくれる、クリスという一人の女の子だ。
秀真さんや珀亜さんが教えてくれたんだ。俺には君を救う力がある、俺にしか、君を救えない、って。
みんなとも約束したんだ。必ず君を助けて、一緒に帰ってくるんだ、って。
…一緒に帰ろう、クリス。
もう俺は------君を絶対離さない。」
------クリスの右手が伸びて、俺の左手を取る。
箱の中のもうひとつのリングを手に取ったクリスが、今度は俺の左手の薬指へと、リングをゆっくりと通してくれる。
「…ビフレストって、運命の赤い糸みたいです。すごく優しくて、温かくて…あなたと繋がっていること、実感することができるから…。」
クリスが、俺の手を握る。
「誠さん------わたし、やっとわかったんです。
誠さんが、わたしに教えてくれたこと…無理に戦うことはない、守りたいもののために戦えばいいっていう、あの言葉の本当の意味。わたしが生まれた意味。
わたしが戦う時は、あなたを守るとき。わたしが生まれた意味は、あなたと出会うため。
…わたし、戦います。私自身の中の、記憶の獣と。
------あなたと同じ時間を、あなたと一緒に生きるために。」
抱き合う俺とクリスの距離が、さらに近づいていく。
互いの息遣いも聞こえるような距離となった時、俺たちは同時に、ルーンを口ずさんでいた。
「------相互接続------」
「Verbinden Sie sich miteinander------」
------俺とクリスの唇が触れあう。
やわらかく、そして温かいクリスの唇。クリスがここにいることの証を感じると同時に、俺からクリスへ、クリスから俺へ、大きく、そして温かいものが流れだし、流れ込んでいく。
------俺が、溶けていく。クリスと一緒になっていく。
だが、恐怖は感じない。クリスから流れ込むものは、今まで流れ込んできたものとは違う。いつか、俺とのビフレストを、白く、温かなものと言ってくれたときのように、彼女から流れ込むものもまた、同じ感覚を覚えるもの。
そして、俺は理解する。
俺がクリスへと流れ込んでいくと同時に、クリスの中にあったもの…俺にずっと流れ込んで来ていたはずの黒い何かが、白い奔流となった俺に一気に押し出されるように、彼女の中から消え失せていく。
------クリスの口が、はっきりとルーンを口ずさむ。
今まで聞いたことのない------多分、クリスが今、自分で考えたのであろう、自分だけのルーンを。
「『------Werden Sie eine Bindung, um Ihr Heimatland zu schützen------』」
※※※
(another view“Christina”)
------『祖国を守る絆とならん』。
わたしがそんな意味を持つルーンを唱えた瞬間------周りに眩い光が満ちる。
わたしの体を覆う、旧ドイツ陸軍の将校用軍服にプリーツスカートを合わせたスヴェル。その外側を守る黒い装甲が砕け落ち、元あった場所に新たな装甲が現れる。だが、それはわたしの見覚えのあるサンドブラウンでも、先ほどまで纏っていた、すべてを覆い尽くす漆黒でもない。
その装甲は------雪のような白。
同時に、砕け落ちた装甲から漆黒の闇が吹き出した。それは次第に大きくなり、ひとつの形を作っていく。
黒く、巨大な狼の姿へと。
わたしと狼が、真正面から向き合う。
白の戦乙女であるわたしの纏う装甲を形作るのは、願い。
わたしと、わたしの中にいる誠さんが、同じ未来を歩みたいという気持ち。
黒の狼を形作っているのは、記憶。
わたしと、わたしの力であるティーガーが体験した、痛み、苦しみ、悲しみ、恐怖…そんな、たくさんの人の気持ち。
巨大な狼が天を仰ぎ、高らかに吠えた。びりびりとした空気の振動が、わたしの全身を舐めていく。
しかし、怖くない。
誠さんが、わたしと一緒にいてくれるから。わたしに力を与えてくれるから。
(「------行くよ、クリス!」)
「------はい!!」
心の中に響く誠さんの声にわたしが応えた時------狼が地を蹴った。
太く強靭な前足が、わたしの正面から襲いかかってくる。その先に備えられた爪を以て、装甲ごとわたしの身体を抉るつもりか。
「------Rüstung------」
わたしはその場から動くことなくルーンを唱える。瞬間、わたしの左腕に、巨大な盾のように、100ミリメートルという厚さを誇る巨大な装甲板が出現した。巨大な狼の前足による攻撃を、わたしは左腕の装甲を掲げて迎え撃つ。
白い装甲板と黒い爪が、真正面からぶつかる。
「…っ…えぇいっ!!」
火花を散らす装甲を強引に傾け、わたしはその前足をなんとか受け流す。わたしの身体を引き裂く手応えがないどころか、わたしの呼び出した装甲板が傷ひとつついていないことに驚愕したように、狼の動きが一瞬止まったところをわたしは見逃さなかった。
「Acht-Acht------Feuer!!」
わたしが叫んだ瞬間、右手に現れたティーガーの主砲、アハト・アハトが、狼の右前足の付け根、人にすれば肩にあたる部分を照準に捉える。アハト・アハトが轟音を轟かせて火を噴いた。砲弾が狙い済ましたところへと直撃し、その部分が大きく抉れるように吹き飛ばされた瞬間、返り血のように漆黒の闇が一気に吹き出す。凄まじい痛みなのだろう、狼がのけ反りながら、大きな咆哮を上げた。
わたしをしっかりと敵として認識した狼が、手負いとは思えない凄まじいスピードでわたしの後ろに回り込んだと思うと、今度はその強靭な顎と鋭い牙を以て、わたしの喉笛を食いちぎるべく突っ込んでくる。
------しかし、その牙は、わたしの今いたところの空気を噛んだ。
噛みつかれそうになる刹那、左腕の装甲板を消して横へと飛んでいたわたしに狼が気づいた時には、その胴体にわたしの砲口が向いている。再び轟音が轟き、咄嗟に空中で身体を捻ったらしい狼だったが、今度は左後ろ足、そのお腹にほど近いあたりに砲弾が着弾し、またそこから黒い闇が勢いよく吹き出す。自分の勢いを殺しきれない狼は、そのまま自分から暗い地面へと突っ込んだ。
「------誠さん。」
わたしは、私の中にいる誠さんに、語りかけるように言う。
「…不思議です。わたし、前まで自分が撃った音もびっくりしていたのに。攻撃が当たったら痛いから、当てないように、当たらないように、って気をつけていたのに。
でも------あなたを好きになったときから…あなたを守る、って決めた時から、全然、びっくりしないんです。怖くもない…それに…身体も驚くほど軽くて、痛いと思っても、それすらも心地よくて…本当にわたしなのか、不安になってしまうくらいなんです。」
(「------大丈夫だよ、クリス。」)
心の中で、誠さんが私に語りかけてくる。
(「クリスが俺のことをしっかり守ってくれる。俺のことを想ってくれる。それは、クリスがクリスだからだ。ここに、クリスが存在しているからだ。俺が今、クリスと一緒にいるからだ。
俺がいることで、クリスが強くなれるなら…いや、そうでなくとも、俺はずっと一緒にいる。だから…怖がらなくていい。痛いと思ったら、俺にもそれを分けて。
…俺たちは、二人で生きるって、そう決めたんだから。」)
…誠さん…わたしは、あなたと出逢えて、恋人になれて、本当に嬉しい。
そう思った時、わたしに手玉に取られていることに、多少なりとも腹を立てたのだろう。起き上がった狼が、また高らかに吠える。その時、闇の中から、目の前の巨大な個体とは違う小さな黒い狼が、溢れ出すように湧いてくる。
(「…仲間を呼んだ、ってことか…?」)
誠さんが言った時、もう一度巨大な狼が吠えた。その瞬間、小さな狼たちが動いた。統率の取れたその群れは、わたしを逃がさないように包囲する。ひとつひとつはそれほどの強さではないのだろう。とはいえ、数の優位がそう簡単に覆ることはない。むしろ、この小さな狼たちの役目は、わたしを倒すのではなく、迂闊な行動をできなくすることなのだろう。その証拠に、彼らはわたしに対してむやみやたらに攻撃を仕掛けることはせずに一定の距離を保ちつつ、わたしの視線や砲口が向いた瞬間に、射線の先からしっかりと外れるように動く。
「くっ…!!」
どこから仕掛けてくるのかとわたしが迷う間に、おそらくこれが狙いだったのだろう。巨大な狼が、再び私に向かって突っ込んできた。
「------っ!!」
逃げ場はない。わたしは咄嗟に、もう一度左腕に装甲板を呼び出した。先ほどとは違い、今度は真上から。重力にものを言わせたあの巨体ゆえの重さが、わたしに向かって一気に迫る。分厚い装甲と太い前足が再び衝突し、そのまま純粋な力での押し合いとなる。
「ぐっ…うぅぅぅぅぅっ…!!」
重い一撃に、わたしは歯を食い縛って必死に耐える。少しでも気を抜けば、装甲板は無事でも、おそらく、その巨体の重さでもろともに押し潰されてしまうだろう。しかし、そちらに集中するしかないわたしと違い、敵には第二、第三どころではないほどに多い攻め手がある。わたしの動きが止まった瞬間を狙い、動けないわたしに向かって、小さな狼たちが四方八方から襲いかかってくる。
------しかし。
(「…MG34、照準完了。
------一斉射撃、開始!!」)
心の中に、誠さんの声が木霊する。その瞬間、私の左右に一門ずつ出現した機関銃が、雷鳴のような音を立てて銃弾を立て続けに撃ち出した。わたしが制御しているものではない、誠さんの火器管制を受けたその機関銃は、小さな狼たちの身体を片端から過たず撃ち抜き、狼たちは撃ち抜かれた者から、再び闇となって霧散する。
(「クリス、周りは俺に任せて。本命に集中するんだ!」)
わたしに、誠さんが語りかけてくる。
…そうだ。
わたしと鍔迫り合いをしている狼が一頭ではないように、わたしだって、今はもう、一人じゃないんだ。
「------負け…ない…。」
わたしの唇が、そんな言葉を呟く。
「わたしは…わたしは、誠さんと生きる…。これからずっと生きて…誠さんと一緒に、幸せになりたい…。
だから…負けない…ここで…負けるわけには…いかない------!!」
わたしは右手を装甲板に添えて、再び強引に左腕を振り払う。
今度は傾いただけではない。わたしに半ば投げ飛ばされる形となった狼が、今度は受け身も取れずに背中から地面へと激突した瞬間、そのままわたしは主砲を狼へと向け、間髪入れずに砲撃を撃ち込んだ。狼の頭に照準を合わせて撃ち出した砲弾は、倒れながらも首を強引に捻ってかわそうとした狼の左の頬を捉え、そこからまた深い闇がとめどなく吹き出していく。
(たす…けて…。)
わたしの三度目の砲撃の着弾と同時に、声が聞こえてくる。
確かに、たすけて、と聞こえた。目の前の狼から、わたしと同じ声が。そして、四度目、五度目、六度目、七度目、八度目と攻撃を加える度、たくさんの声が、狼の中から木霊する。
(こわい…。こわいよ…。)
(やめろ…家族は…家族だけは…!)
(みんなもういない…わたしの周りはわたしだけ…!!)
(お前のせいで仲間が死んだ…お前が、お前が…!!)
(嫌だ…こんな世界…嫌だ…嫌だ!!)
たくさんの痛み、苦しみ、恐怖、憎悪、後悔…そんな言葉が、わたしの心へと入ってこようとする。
…わたしは、このすべてを知っている。
それらはわたし自身の記憶。そして、わたしに力を与えているティーガーが溜め込んだ、様々な人たちの記憶。
…わたしは気づく。
それを知っているからこそ、しなくてはならないことがあるのだということ。
この記憶の狼を倒すことは、誠さんとこれからを生きるための、唯一の道。
------しかし、それだけではいけない。
わたしの中に眠るわたし、そしてティーガーの記憶の中に眠る、たくさんの人々。
味方、敵、軍人、民間人…そんなものは関係なく、彼らも、わたしと同じように、時代という大きな流れの中で、確かに生きていた人々。
彼らは、泣いている。
恐ろしさ、無力感、憎悪…たくさんの人々が、そしてわたし自身が、わたしの記憶の中で泣き続けている。
だから------
「誠さん------わたしに、力をください。
守るための力を…泣いている人たちを助けるための力を!!」
わたしが声を発したとき。
(「…やっぱり、そう言うと思ったよ、クリス。
秀真さんや珀亜さんは、獣を倒した、って言ってたけど…でも、きっとそうじゃない。
だって、狼は兵器そのもの、そしてヴァルキリーそのもののはずだから。もしも本当にただ倒してしまったなら、きっと珀亜さんも今はいない。ヴァルキリー本人を含めた、記憶の中にいる人たちを助ける力…それがヴィーザル型のグレイプニル遺伝子、その本来の力なんだって、今は思ってる。でも、俺はオーディンだから、力は持っていても、それを扱う術を持ってない。------記憶の中の人たち…ヴァルキリー、とか、オーディン、みたいに言うなら、なんだろう…英霊…かな。彼らを導くことができるのは…俺と心から繋がれるヴァルキリーであるクリスだけだと思うんだ。
…終わらせよう、クリス。狼を倒して、記憶の中の人たちを救って…それから帰ろう、みんなのところに。」)
心の中で、誠さんがわたしにそう告げたとき。
わたしの中から、力が溢れてくる。
海の水が満ちるように、ビフレストを通して、誠さんのあたたかく優しく強い力がとめどなく流れ込み、わたしにさらなる力を与えてくれる。
わたしと社島で出逢い、一緒にお勉強をして、練習に付き合ってくれて、無理に戦うことはないと諭してくれて、そして、わたしを好いてくれた、そんな大切な人が、今、わたしと共にここにいる。
それだけで、わたしはどこまでもどこまでも強くなれる。ヴァルキリーとしての力も、そして心の強さも。
ゆっくりと、狼が立ち上がる。
その鋭い視線がわたしに向いた時、わたしは同時に右腕の砲塔を狼へと向けた。
最後の力を振り絞るようにして、狼が吠えた。そのまま、押さえつけるでも食いちぎるでもなく、今度はわたしを飲み込もうとするように身体を起こし、巨大な顎を大きく開いて襲いかかる。
「------Feuer!!」
(「------発射!!」)
わたしと誠さんの声が重なった瞬間。
九度目の轟音と共に、わたしのグングニルから撃ち出された砲弾------誠さんの力によって生み出されたヴィーザルの剣が、闇を纏った空気を一直線に切り裂き、唸りを上げて狼へと迫る。体を起こしていた狼の心臓をその切っ先が捉え、一思いに背中まで撃ち貫いた。
…黒い巨体が、闇を吹き出しながらゆっくりと倒れていく。その中から、きらきらと光るものが現れては、天へ向かって昇っていく。
(何だろう…すごく、心が軽い…。)
(本当だ…。何か、救われた気分だ…おお、神よ…。)
(------やっと…パパやママのところに行ける…。
おねえちゃん、おにいちゃん…ありがとう…またね。)
狼が闇となって霧散する刹那。
そんなたくさんの声が、どこからともなく聞こえたような気がした------
※※※
「…終わった、んだね。」
そう言って、俺はまたクリスの隣に立った。
目の前には、もう狼はいない。周りにたくさんいた小さな狼たちも、今はもうすべてが闇となって消え失せていた。
そんな中で、クリスが呟く。
「…まだ、います。」
クリスの言葉が終わるか終わらないかの間に、天に昇らなかった光の粒が形を成していく。
「…えっ…?」
俺は困惑していた。だって、光が消えたとき、目の前に立っていたのは、クリスの記憶の中で、黒いティーガーの凶弾の前に倒れた、あの男性だったのだから。
「…あぁ、ようやく君たちと話ができるね。」
男性は、俺たちに笑顔を浮かべて、そう言った。
「あの…あなたは?」
俺がそう聞くと、クリスが代わりに答える。
「…わたし、あなたを知っています。わたしの力の源であるティーガーを試作した技士の方…ですよね。」
「その通りだ…。あれから幾年月も経っているはずだが…覚えていてくれたんだね。嬉しいよ。」
クリスの言葉に、彼は涙を堪えながら答える。
「あの…話ができるとか、嬉しい、って…一体、どういうことなんですか?」
困惑する俺に、彼は今度はこちらを向いて言う。
「あぁ、すまないね。…実はね、神の元へと旅立つ前に、僕は君たちに、どうしても伝えたいことがあるんだ。長くなるかもしれないが…話を聞いてくれるかい?」
俺とクリスは顔を一瞬だけ見合わせるが、すぐにふたりとも首を縦に振った。
それを見て、彼は「ありがとう。」という言葉と共に話し出す。
「…あの戦争が始まって、ティーガーを作る計画が立ち上がり…僕は技士の一人として、別々の二社で争われたコンペティションに参加した。元々、僕はそのコンペに負けた側の人間だったんだけど、そのあとすぐ、僕は勝った側によって引き抜かれたんだ。…僕の師だった人が作った砲塔作りの技術を、そちらへと提供するために、ね。
引き抜きが告げられたとき、僕が聞いた理由は、向こうの会社の独自の砲塔の製作が間に合わず、先生の作ったものの改良型を乗せることになったこと、そのために、技術と人員の提供が必要だから…というものだった。ただ、これは僕にも本当の理由はわからないけれど…当時、ヒトラー総統が先生をいたく気に入っていたことも、その理由のひとつだったんだと思う。
ただ…僕は最初、行きたくないと思った。僕は先生を尊敬していたし、先生の技術も別の形で実現することがわかっていたし…何よりも、その決定は先生の作った技術を他の会社に売り渡す、あるいは無償でくれてやることになりかねないということだ。先生を尊敬する者として、自分の手でそれをさせられることは、僕にとって最大の屈辱だった。
…でも、先生はナチスのやり方に納得はいっていなかったようだったけれど、総統の命令に等しいものを覆す力がなかったこともまた事実だった。それに…技術を使ってもらうことが、技術屋として一番の名誉であることも知っていたから、というのも、もしかしたらあるのかもしれないね。
新しいところに移っても、僕はまだ納得できていなかった。先生の作った砲塔を早く改良したがる新しい顔ぶれの技術屋たちが、先生の作ったものを壊してしまいそうな気がしてならなかったんだ。
だから、僕はひとつの提案をした。『まずは設計図通り、そのままの形で作った砲塔を乗せた試作車両を作り、そこから問題の洗い出しをしていくべきだ』とね。
その提案は面白いほど上手くいった。向こうだって技術者だったから、その手順が必要とはわかっていたみたいだし、砲塔の製作に手こずっていた彼らにとっても、その過程はどうしても必要なものだったんだろう。
…そして僕は、先生の技術を改良した砲塔を乗せたティーガー以外に、先生の技術そのものを使った砲塔を乗せたティーガーを完成させた。…そう、君の力の元になったティーガーⅠは、先生の技術そのものを使った砲塔を乗せたもの…。どの歴史にも記録されていない、一技術者でしかない僕のエゴによって生み出された車両だったんだよ。」
…歴史に記録されなかった車両。
それを聞いて、俺もクリスも目を見開く。
「それが…わたしに力を貸してくれるティーガーの、作られた理由…。」
クリスが、驚きを隠せない顔で呟くと、彼は首を縦に振り、それからまた続ける。
「…しかし、この車両は試作車両ではあっても性能は申し分なかったこと、そして戦線が拡大したことによって、少しでも多くの戦力が必要だと判断されて、モスクワ侵攻のために前線に送られることになってしまった。
僕は、それも嫌に感じた。先生の技術が失われてしまうことを恐れた…作った者として愛着が沸いてしまったんだろうね。僕はその決定には反対だったけれど、一技術屋でしかない僕が、軍の決定に逆らえるはずがなかった。
…ただ、車両の納品に立ち合った将校が、僕にこんな話をしてくれたんだ。
『君の技術者としての誇りを無駄にはしない。私は必ずドイツに帰り、もう一度、君とこの車両を出会わせよう。君がこの車両を…祖国ドイツを守るための力を、私に与えてくれたように』ってね。
彼は、敵を倒すための力ではなく、祖国を守るための力、と言ったんだ。軍人なんて、ナチスの横暴な奴らと同じような輩しかいないんだと思っていた僕にとって、彼の言葉は本当に新鮮なものだった。
そして、彼はこうも言った。『もしもよければ、周りの環境に合わせ、その都度私の隊で色を塗り替えたい。君との約束を果たすため、わがままを許してはくれないだろうか。』
僕は、彼の言葉を信じてみたいと思った。あれをやれ、これをやれと命令するのではなく、一技術者でしかない僕に、そうやってお願いをしてきてくれた将校なんて、僕は見たことがなかったから。
僕は、必ずまたお会いしましょう、この車両をよろしくお願いします、と言って、彼を握手をして送り出した。…それが、彼と僕との最初で最後の握手になった。
そしてあの日…ベルリンの戦いで、黒く塗り直されて、ソ連軍と共にベルリンを蹂躙するティーガー…それに搭載された、僕の作った砲塔を見て、僕は、彼が死んだことを察した。そして、僕の中に後悔ばかりが押し寄せてきた。どうして彼を止めなかったのか、どうして握手をした手を離してしまったのか…目の前で祖国を焼く戦車を、どうして、自分のエゴなんかで作ってしまったのか…。機関銃で撃たれたとき、こうなることは自業自得だと開き直れてしまうほどだった。
でも…機関銃で撃たれた僕が、最後に考えたことがあったんだ。
------彼は、何の色をあの車両に与えたのだろう。
あの黒の装甲は、彼の塗り替えたものだったのだろうか------。
そして…僕があの巨大な狼の中に封じられた記憶のひとつとして、互いを思い、信じ合いながら狼と戦う君たちを見た時、それがわかった。
君の纏う装甲…その白い色は、彼が僕との、祖国を守り、必ず帰るという約束を果たすために、ソ連の雪の中でも目立つことのないように、冬に合わせて塗り替えてくれていたものだったんだね…。」
クリスの白い装甲------自分が信じた人の誓いを示すその色を見て、ついに堪えられなくなったのだろう。彼はその場に跪き、肩を震わせて涙をぽろぽろとこぼし始める。
あの映像が、頭の中を過る。
あの時------瓦礫の下に沈み、炎が燃え盛るベルリンの町で、彼が言っていた「僕が悪かったんだ」という一言。
あれは------自分のエゴで作られたティーガーが、祖国を焼くことになったことに対するもの、そして、自分が信頼した人の手を放すことになってしまったことに対する言葉だったんだ。
「------あ、あの…!!」
俺が言葉を発しようとした瞬間。
「『Erinnerungen, die existieren』…。」
クリスが、何かを呟いていた。
「クリス…それは?」
俺が問うと、クリスはこちらに顔を向けて言った。
「…わたしの…ティーガーの記憶の中にある、将校さんの言葉なんです。進軍のとき、ティーガーの車長さんだった彼が、よく兵士のみなさんとのお話の中で言っていた言葉…ええと、日本語にすると、『そこにある思い出』というような意味です。
わたしも、あなたのお話を聞いて、確信したんです。彼が言っていたものは------あなたのことだったんですね。」
それを聞いて、彼がはっとしてクリスを見る。
「…彼は…僕を覚えていてくれたのか…。
…僕の生涯は、後悔の連続だった。でも…その後悔のおかげで、僕は彼と出会うことができて、彼はそんな僕との約束を…それほどまでに守ろうとしてくれていたのか…。」
彼がそう言うと------クリスが彼の前に膝をつき、その手を取って言った。
「…彼に代わって、わたしの中のティーガーに代わって…そして、わたし自身の本当の気持ちを、あなたにお話させてください。
あなたがわたしを…そのティーガーⅠを生み出してくれたから、わたしはここにいて、ヴァルキリーになれて、社島に来ることができて…そして、ここにいる誠さん…わたしが愛する人と出逢うことができたんです。
たとえ後悔の連続だったとしても…あなたのしてくださったことは、あなただけではなくて…わたしにとっても本当にうれしくて、奇跡で…生み出してもらえて、わたしは、本当に幸せ者です。
------だから。
ありがとうございます------お父さん。」
クリスが発した、お父さん、という言葉。
クリスと彼に、血の繋がりはない。
しかし、確かにクリスは、彼を父と呼んだ。
彼の目から、涙がとめどなく溢れる。
そんな彼の手を、クリスは優しく、しかししっかりと握り続ける。
今まで、自分の存在を必要ないものと思い込み、自分の持つ力を恐ろしいものとしか思えなかったクリス。しかし、記憶を辿り、宿した力のルーツを知り、その中で自分の力に込められた「存在する理由」を見つけた彼女だからこそ、今、彼に向かって「幸せ者だ」ということができたのだろう。
「…よかった。これで、僕も安心して、神の住まう場所へと旅立つことができる…。」
彼の体が少しずつ、光となって天へと昇っていく。その時、彼がこちらを向いて言った。
「…そうだ。最後に、君たちの名前を聞かせてほしい。」
「あ…鶴城 誠です。」
「ええと…クリスティナ・E・ローレライ、です。」
「マコト君、そして、クリスティナさん、か。…自分の名は、君たちがここにいる証、そして、遥か未来、生きていた証になるものだ…大切にするんだよ。」
「あ…あの…あなたは…。」
俺が聞くと、彼は笑顔を浮かべて言った。
「僕は…フリードリヒ・フェアアイン…。マコト君…クリスティナさんと…いや、違うな。血は繋がっていないけれど、彼女が僕をお父さんと呼んでくれたから、あえてこう言わせてほしい。娘を…頼んだよ。」
彼------フリードリヒさんの言葉に、俺はしっかりと首を縦に振る。
「…任せてください。ここでクリスと繋ぎ直した手は…もう、絶対に離すことはありません。」
フリードリヒさんが、自分の体が消え行く中で、もう一度、にこっ、と笑う。
「君たちに、神の祝福があることを願っているよ。二人とも、幸せにね。
ありがとう…さようなら------」
フリードリヒさんの体が光となって霧散したとき、雲間から光が差し込むような、光の階段が現れる。
「------帰ろう、クリス。
フリードリヒさんの分まで、俺たちは幸せになろう。二人で、一緒に------」
「------はい、誠さん。
あなたと一緒なら…わたしはきっと、もっともっと幸せになれます。…あなたと一緒に、幸せになりたいんです。」
俺たちは、光の中へと一歩を踏み出す。
帰るんだ------俺たちを待つ、みんなの元へと。
※※※
(another view“Syuma”)
「…もうじき、午前0時か。」
医療ブロックの一室、救護室と臨時の指令室を兼ねるこの場所で、僕は呟いていた。
「…白鷺司令…誠からは、まだ連絡は来ないんですか…?」
シャーリーさんの言葉と共に、この場にいる子供たち全員が、僕の方へと顔を向ける。
…この指令室が、救護室を兼ねている理由。それは、パンツァーαとパンツァーβの子供たち、そしてアナスタシアさんを受け入れるため…。先のクリスティナさんとの戦いや、その前の一件で怪我をして治療を受け、麻酔や薬が効いてベッドの上で眠っている仲間のところにいたいという気持ちもあったのだろうが、もうひとつ、彼ら、彼女らが、自分たちは事の顛末を見守りたい、という意思のもと、ここへと集まった結果だった。
「……。」
僕に代わり、ヘッドフォンをつけたフィアナさんが黙ったまま、首を横に振る。
誠君を島に残し、周囲シェルターブロックを退避させてから今まで、この部屋に置いてあるスピーカー…フィアナさんのつけているヘッドフォンと同じく、誠君の持つ無線機と繋がっているはずのそれは、未だ何の音も発しない。…それは、この場にいる以上、みんなもわかっているはずだった。そして…約束の時間まで、もう間もないことも。
「…秀。そろそろ時間だ、自沈措置を始めるしかないだろうね。」
僕の傍らに立ち、スピーカーを眺めていた珀ちゃんが、口を開いた。それに反応するように、エレーナさんが僕に問う。
「…それは、鶴城を見捨てる…ってことで間違いないんだね?」
僕は、その問いに対し、彼女をまっすぐに見て、首を縦に振る。
社島本島ブロックの自沈措置を行う権限は、今は僕と珀ちゃんに委譲されている。…僕と珀ちゃんのどちらかが、島を支える海中ポール、その中に仕掛けられた爆薬を起爆するスイッチを押せば、それでおしまい。
「…ま、待ってください!まだ誠が死んだって決まったわけじゃ…。」
「そ、そうだ、それは早計に過ぎる!せめて誰かを偵察にやって、無事を確認してからでも遅くはないだろう…!」
シャーリーさんと、彼女に支えられているヴィクトリカさんの声と共に、僕たちの前に殺到する子供たち。それを諌めるように、珀ちゃんが口を開いた。
「…あたしたちも、本当ならそうしたいさ。でもね…考えてごらん。あたしも含めて、みんながあれだけ頑張ったのに…クリスちゃんは、どんなに弾を受けて吹っ飛ばされても、平気な顔をしていただろう?偵察を出したとして、もしもクリスちゃんの狼化が沈静化していなかったら…考えるまでもないよね。」
「…な、なら、遠隔操作のドローンとか…。安全なところから飛ばすなら、なんとかなるんじゃないっすか…!?」
悪そうな見た目の男の子…重樹君と言ったか------彼がそう言うのに合わせ、パンツァーβの数人がこちらを向くと、珀ちゃんがまた口を開いた。
「…それも無理だね。ドローンで偵察するには島から離れすぎているし、何より今は海風が強すぎる。海上自衛隊や航空自衛隊のヴァルキリーの子たち何人かに手伝ってもらって、島から離れた状態でも何とかマコに渡した無線や爆破設備の信号を中継できるようにはしたけど…それでも、島に一番近い子で、位置としてはクリスちゃんの照準から、おそらくこのくらいあれば何とか外れられるだろう、くらいの距離がある。その一番近い所からドローンを飛ばすにしても、今の天候じゃ、島に着くまでに海の藻屑になるだろうね。」
「そんな…。」
「なんて…ことなの…。」
ベッドで横たわる子たちを覗きこんでいた大きな体の女の子と、重樹君の隣で重樹君の手を握る眼鏡をかけた小さな女の子------確か、アニヤさんと初瀬さんといったはず------が、珀ちゃんの言葉を受けて、しゅんと首を下げてしまう。
「…ごめんね、みんな。だけど…僕も、誠君と約束した。もしも時間までに彼からの連絡がなければ、僕は島を沈める、って。そして…その時はもう、間近に迫っているんだ。
…僕は、彼との約束を果たす。その後、どうしても、その決定を下した僕が許せないならば…今度は君たちが、僕の命を奪ってほしい。君たちは、そのための力を、もう持っているんだからね。」
「…あたしのこともだ。狼化の経験者のくせに、クリスちゃんやマコにほとんど何もしてあげられなかったどころか、みんなを危険な目に逢わせてしまったからね。
だから…あたしはみんなに撃たれるとしても、スヴェルを纏うことはない。秀だけでなく…あたしの命も、みんなが奪いな。」
「…マコトも、クリスも、帰ってこないの…?」
僕がそう言うと------リゼットさんが眠るベッドの隣、エレーナさんが見守っていた飛鳥さんが、ベッドから僕たちの方を見て言う。
「クリスと一緒に帰ってくる、って言ったのに…。マコトの嘘つき。わたし、許さない。ゆる…さ…ない…。
…ぅ…ぐすっ…。嫌…嫌だよぉ…お願い…マコト、クリス…もう、わがまま言わないから…もう悪い子になるの、やめるから…わたし…二人と会えなくなるの…嫌だよぉ…!!」
堰を切ったように、飛鳥さんの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。
「ヒメ…!!」
自分も泣き出したいという心を抑えるように、エレーナさんが飛鳥さんを固く抱きしめた。それにシャーリーさんが、そしてヴィクトリカさんが続く。リゼットさんのベッドの側から、パンツァーαのみんなの嗚咽が聞こえ始めた時、アナスタシアさんが涙をぽろりと溢し、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。
「彼は愛する姫君を救うべく、巨大な敵に立ち向かった騎士…その愛と誇りは死してなお、決して色褪せることはない…。
愛する者と共に生きることが幸せならば、愛する者と共に命を終えることもまた、ひとつの幸せの形…どのような命令をも、どのような他人の意思をもすべて無に還す、愛という大きな大きな力…。
鶴城さん…あなたは自分の愛を貫いた…わたくしは、そう思っていいのですね…。
ならば------わたくしは応えねばなりませんね。
鶴城さん、あなたの騎士道…しかと見せていただきました------大儀であります。」
…彼女も、辛いはずだ。
かつて愛した人を、そして愛する人を奪い合ったに等しいライバルと同時に、かけがえのない友を、目の前で失うことになるのだから。
…僕は、恨まれるだろう。しかし------恨まれてもなお、これは僕がしなくてはならない。たとえ、このボタンを押した後、ここにいる子供たちによって命を奪われることになろうとも。
僕の手が、ボタンへと伸びる。
これで------本当におしまい。
「--------------っ。」
フィアナさんが、ヘッドフォンを押さえて立ち上がる。
それと同時に------
『カァァァァン…カァァァァンーーーーーー』
…スピーカーから聞こえてきたのは、僕たちにも聞き覚えがある、鐘の音。
「この鐘は…クリスマスパーティーの後夜祭が終わる合図…12月25日、午前0時に鳴らすことにしていたものです…!!」
フィアナさんがこちらを向く。
このスピーカーは、誠君に渡した無線機の周波数のみ受信するようになっている。自衛隊や他ブロックとのやり取りは、それ以外の周波数を使うように要請した。
------まさか。
僕がはっとして、スピーカーに耳を澄ませたとき。
『------え…すか…』
確かに、聞こえた。
珀ちゃんが、慌ててフィアナさんに向き直る。
「…フィアナちゃん、音量、もっと上げられる!?」
「…は、はい、すぐに上げます!!」
フィアナさんが音響装置のダイヤルを回したとき------
『------秀真さん、聞こえますか?応答お願いします!』
『ええと…届いていますか…?わたしたちの声…ヴァルホルの鐘の音…ちゃんと届いていますか…?』
------。
「誠君と…クリスティナさん…なのか?」
僕は、フィアナさんが持っているものとは別のヘッドフォンを掴み、マイクに向かって話しかける。
『…はい、誠です。連絡が遅くなって、すみません。』
『…あ…あの…クリスティナ…です。誠さんと…今、一緒です。』
…奇跡だ。
誠君------君は…本当に奇跡を起こしたんだね。
僕がそう思った時。
「-------------きこ…え…ます…。」
いつのまにか、目を開けていたのだろう。酸素マスクをつけられたリゼットさんが、まだ少しだけ苦しそうな顔をしながらも、その目尻からぽろりと一筋の涙を伝わせて呟く。
「二人の声…私にも、聞こえます…。クリスマスの鐘の音も…。
きっと、これは帰ってきた二人を…愛する二人に神様がくださった、祝福の鐘の音…あぁ…神様…!!」
リゼットさんのその言葉に、わぁっ…!と、周りのみんなから歓声が上がる。
「…誠君、聞こえているね。
みんな、君たちを待ってる。今から迎えに行くよ。二人で待ってて。それと…本当に、よく頑張ったね。」
『…ありがとうございます。わかりました。待ってます。』
誠君との通信が切れ、僕はフィアナさんに向き直る。
「フィアナさん、喜びたいのは同じだろうけど…もう少し、手伝ってもらいたいんだ。大丈夫かな…?」
「…はい。自衛隊、及び各ブロックへの警戒フェイズは、警戒レベル4からレベル3へ移行したことを伝達済みです。島の自沈シークエンスは中断、点火スイッチも再度ロックしてあります。」
「さすが、仕事が早いね。…よし、みんな、行こう。二人を迎えに。」
僕はそう言って、もう一度ヘッドフォンを手に取り、ブロックを操舵しているスタッフに向けて指示を出す。
部屋の中は、まだ子供たちの声で騒がしい。
------そして、僕もまた、彼らと同じように、逸る心を抑えるようにしながら、モニターに映る社島を、この目でしっかりと見据えたのだった------
※※※
------カァァァァン…カァァァァン…
鐘の音が鳴りやむことを知らない社島で、俺はクリスと共に、その音を耳に焼きつけるように聞いていた。
「あ…。」
ふと、クリスが顔を上げる。つられて顔を上げた俺の目に映ったものは、天から降り注ぐ、白い雪。それらは海風に身を任せるように、右へ、左へと踊り回る。
「ホワイトクリスマス…か。」
俺がそう言うと、俺の左側にいるクリスが俺の左手をぎゅっと握り、それから腕を絡めるようにしてくっついてくる。
「…クリス?」
俺が言うと、クリスはいつものように顔を赤くしながらも、俺から飛び退くことはせず、さらに俺へと体を密着させてくる。
…あたたかい。
クリスの、やわらかくてあたたかな体。俺の全身に伝わってくる甘い匂い。
それだけで、俺はクリスが俺の隣にいることを感じることができる。
「あぅ…ええと…寒かったので、ついくっついちゃいました。」
上目遣いをしながら、クリスがこちらを向いてそう言う。
「…まだ、迎えには時間があるから。もっとくっついていようよ。誰も見てないし。」
俺がそう答えると、クリスは嬉しそうに、また俺の方に体を寄せてくる。
「…あ、そうだ。」
ひとつ気づいてしまった俺は、クリスに向き直って言う。
「左手が寂しいと思ったら…そういえば、あれって、記憶の中の世界での出来事なんだった…。」
俺は、クリスに左手を見せる。
薬指にあったリングが、ない。
「…あ…わたしの指にもないです…。でも…夢の中みたいなものですから…もう、仕方ないような…。」
言いながら、露骨にしゅんとするクリス。
「…じゃあ、あのときの再現、今しようよ。」
------俺はそう言って、ポケットの中を探る。
「あ…。」
ポケットから、記憶の世界で出したものと同じ箱が出てきた時ーーークリスがあのときと同じように、口を両手で抑えて声を漏らす。
…多分、俺がずっとこれをポケットに入れてたから、記憶の世界にも持っていけたんだ。だって…俺はあの世界で、クリスと記憶を共有することになったんだから。
「クリス、左手を出して。」
俺が言うと、クリスはまた顔を赤くしながら、上目遣いで呟く。
「…あの…誠さん。」
「何?」
「その…あの…わ…わたし…あの時は、お誕生日おめでとう、それからメリークリスマス、って言ってもらえました。
…でも、今は、それじゃ嫌です。
------せっかく、ホワイトクリスマスで…こうやって鐘の音が聞こえてくるんですから------」
「あ…。」
今度は、俺が顔を赤くする番だった。
今日はクリスマス。クリスの名前の由来になっている、神の子キリストの生まれた日。
鐘の音は、人から神へ、祈りを届けるための言葉。
そして------永遠に共に歩むことを誓う二人に対する、神からの祝福。
それをクリスが望むなら。
俺は、クリスの左手を取る。
「------私…鶴城 誠は、クリスティナ・E・ローレライを生涯の伴侶とし、健やかなる時も病める時も、彼女を愛し、彼女と共に歩むことをここに誓います------」
俺がクリスの左の薬指にリングをはめると、今度はクリスが俺の左手を取る。
「------わたし、クリスティナ・E・ローレライは、鶴城 誠を生涯の伴侶とし、喜びの時も、悲しみの時も、彼を深く深く愛し続けることを、神の御前にて誓います---」
クリスの指が、俺の指にリングを通してくれる。
「誠さん------」
クリスがちらっと俺を見て、それから俺をぎゅっと抱きしめて言った。
「今の言葉…嘘にしちゃ、嫌ですよ…?」
「…嘘になんて、するもんか。」
俺はそう言って、クリスをぎゅっと抱きしめ返す。
「クリスを幸せにするって、フリードリヒさんとも約束した。それに…何よりも俺が自分に誓った…。クリスを離さない、クリスの側から離れたくない…。これからも…ずっとずっと一緒にいよう。
そして------俺はずっと守っていくよ。フリードリヒさんがくれた、クリスの笑顔を。」
俺の言葉に、クリスが応える。
「わたしも、あなたとずっと一緒にいます。今、神様に誓ったように。わたし自身に誓ったように。
誠さんは、わたしと出会って、わたしの力を怖がらずに、ずっと優しく接してくれました。練習に付き合ってくれて、力が怖いと思ったら使わなくていいと言ってくれて、守りたいものができたとき、その力を使えばいいと言ってくれて------そして、一度離してしまった手を、あなたは握り返してくれました。一緒に生きようと言ってくれて…わたしがいてもいいところに、あなたはなってくれました。
だから------わたしもあなたの笑顔を守ります。
フリードリヒさん…お父さんからもらった力は、わたしの心から守りたいもののためにあるんですから------」
クリスの目が閉じ、少しずつ俺へと近づいてくる。
…クリスが、俺のことを求めてくれている。
ならば、俺はそれに応えるだけ。
互いの距離が息遣いが聞こえるほどに縮まり、互いの鼓動を、密着した体全体で感じる。
そして------柔らかな唇が、俺の唇へと触れる。
先ほどよりも、より熱く、より甘く…そして、この時間が続けば続くほどに、俺の心は、クリスへの愛おしさに満たされていく。
--------フリードリヒさん、俺たちを…ずっと見ていてくださいね。
未だ鳴り止まない、祝福の鐘の音。
雪の妖精が舞い踊る中、俺はクリスと唇を重ねながら、どこかで見ているであろうフリードリヒさんに届くようにと、心の中で呟いた------




