第7話 静かに動き出す聖遺物
翌朝。
神聖帝国の空は淡く光り、窓を通して差し込む朝の光が静かな部屋を照らしていた。リシェルはゆっくりと瞼を開き、見慣れてきた天蓋の模様をぼんやりと見上げた。昨日よりも胸の鼓動は落ち着いている。緊張はまだ残っているけれど、怖さは薄れていた。
すぐ近くの寝台で、レオンハルトが静かに目を覚ます。彼は上体を起こし、白金の髪をさらりと整える。金色の瞳が朝の光を受けて淡く輝いた。
「おはよう、リシェル」
「お、おはようございます……陛下」
まだ目が合うと心が跳ねる。けれど、どこか安心する。彼の声はいつも落ち着いていて、自然と呼吸が楽になる。
「今日は宮内のいくつかを案内する。君も同行して構わない」
「わ、私も行ってよろしいのですか?」
「外を歩くことに慣れておいた方がいい。それに……」
レオンハルトは少しだけ視線を逸らした。その言葉は途中で切れたけれど、拒絶ではないと分かる。むしろ、彼自身が誰かと日常を共有することに不慣れなのだと感じられた。
その時、遠慮のない大きな声が部屋中に響いた。
「陛下ー! リシェル嬢ー! 朝だよーん!」
レオンハルトが微妙に眉をひそめる。
「……マルセル。ノックをしろと言ったはずだ」
「えぇ? ノックしたら起きないかもじゃないですか!」
「ノックはそのためにある」
間の抜けたやり取りに、リシェルは自然と笑みが漏れた。
今日のマルセルは赤茶の髪を高く結び、神官服なのに妙にラフなストールを巻いていた。どう見ても神官より旅芸人に近い。
「今日はですねー、リシェル嬢の帝国内案内です! 聖具庫、回廊、そのあと聖泉に寄りまーす!」
紙を広げて見せるが、上下逆だった。
レオンハルトが淡々と告げる。
「逆だ」
「おっとっと。こういう日ってあるよねぇ!」
「毎日だろう」
「あはは! たしかに!」
この二人のやり取りは不思議と緊張を和らげてくれる。リシェルは深く息を吸い、気持ちを整えた。
三人は回廊へ向かった。大理石の床が光を反射し、歩くたびに靴音が澄んで響く。聖堂の奥にある聖具庫へ入ると、整然と並ぶ器具のひんやりした輝きが目に入った。
レオンハルトが棚から小さな水晶玉を取り出し、リシェルへ差し出す。
「触れてみるといい」
「は、はい……」
水晶にそっと触れた瞬間、小さな光がぱちりと弾けた。
「……っ!」
「心配はいらない。聖力の強い者は、こうした器具によく反応する」
レオンハルトは穏やかに説明した。
ただ、その表情の奥に、ふっと影のようなものが揺れた気がした。
(陛下は……私の聖力をどう感じているんだろう)
不安とも期待とも言えない感情が胸に渦巻く。
その時だった。
カンッ、と棚の奥で金属が触れる音がした。ごくわずかだが、確かに何かが動いた。
「え? 今、音しましたよね?」
マルセルが振り向く。
レオンハルトは表情を引き締め、空気の気配を読むように静かに目を細めた。
リシェルの手にある水晶玉が、また小さく光った。
次の瞬間、奥に置かれた古びた箱の留め具がひとりでにカチリと鳴った。
開きはしなかったが、明らかに反応していた。
マルセルが目を丸くする。
「へぇ……妙だな。これ、中身は古聖布で、ただの保存箱なんですけど」
「ただの、ではない」
レオンハルトが低く言った。
空気が少しだけ張り詰める。
「古の聖布は、真に選ばれた者の近くで反応する。だが……」
彼はリシェルを見つめる。
「今のは弱すぎる。力を抑えているような反応だ」
リシェルの喉がひくりと鳴る。
「お、抑えて……?」
レオンハルトはそっと彼女の肩に触れた。柔らかく、安心させるような手つきだった。
「恐れる必要はない。危険ではなく“適性”の表れだ。君の聖力はまだ自覚できていないだけだ」
「適性……」
「いずれ分かるようになる。ゆっくりでいい」
マルセルも笑顔で言う。
「大丈夫だよリシェル嬢! 陛下がついてるし、俺も一応いるし! あんまり役に立たないかもだけど!」
「役に立たないのは困る」
「ですよね〜!」
二人のいつもの調子に、リシェルの胸の緊張がほどけた。
夕暮れの頃、部屋へ戻ると、緊張よりも「ここで生きていくんだ」という気持ちが少しだけ強くなっていた。
食事を終えると、マルセルは手をひらひら振りながら帰っていく。
「さてさて、夜は陛下がいるから安心だね! ではまた明日〜!」
「……あいつは本当に騒がしい」
「ふふ……でも、明るい方ですね」
「そうだな。君が笑うなら、悪くはない」
レオンハルトの声がどこか柔らかかった。
夜が深まり、二人は再び同じ部屋で眠る準備をする。
レオンハルトは書類を片付けながら、ふとリシェルを見た。
「今日のことが気になっているな」
「……少し、怖かったです。私の力が……変かもしれないから」
彼は椅子に腰掛けたまま静かに言った。
「恐れる必要はない。君は――私を救う可能性を持った人だ」
「救う……?」
言葉の意味が胸に深く刺さる。
直視できないほど真っ直ぐな瞳に、息が止まりそうになった。
「おやすみ、リシェル」
「……おやすみなさい、陛下」
灯りが静かに消える。
闇の中でも心臓の鼓動だけははっきりと聞こえる。
レオンハルトという存在が、日に日に近くなっていく。
怖くて、不安で……でも嬉しくて。
そんな混じり合う気持ちの隅で、部屋の片隅に置かれた聖遺物の欠片が、ほんのわずかにあたたかく光っていた。




