7 古き吸血鬼は喉を潤す
それからどれくらいの時が経っただろうか。川に流され続けたテネリスは、やがてどこかの川岸に漂着していた。
「……ゴホッ、ゲホッ……!」
幸い、ヴァンパイアに溺死の概念は無い。すっかり体内を満たしていた水を可能な限り吐きだし、テネリスは倒れた体勢のまま周囲を見る。
空を見上げれば綺麗な月や星が浮かんでいる。遠くには山が見え、周辺には明かりがついた街灯、耳をすませば車が走るような音もわずかに聞こえる。
少なくとも、テネリスが先日見たゴーストタウンよりは余程期待が持てそうな環境だと窺える。
「……まさか、川に救われる日が来るとは」
ヴァンパイアは川を苦手とするという通説がある。一体どこの誰がそんなことを言い出したのかは知らないが、少なくともテネリスにとって川は味方でいてくれるようだ。
「さて、ここからどうしたものか……」
テネリスは、川の汚れた水のせいですっかり雑巾のようになってしまった衣服を叩きつつ立ち上がる。その直後、脳内に本能が強く訴えかけてくる。
――血が必要だ。
――血が欲しい。
――人を探せ。
――人を襲え。
――奪え。
――殺せ。
「……黙れ。私は、次は上手くやると決めたのだ……」
ズキズキと痛む頭を押さえつつ、ふらふらとした足取りでテネリスは歩き始めた。
街灯を辿っていくと、やがてそれなりに栄えた街へとたどり着いた。建物のいくつかには明かりが灯っており、それは住宅もあれば、駅や商業施設の類だろうか、それなりに大きな建物も見られる。そして何より、人が生活している気配が感じられる。
その様子に、テネリスは安堵した。少なくとも、人類が滅亡の危機に瀕しているわけではなさそうだとわかったからだ。
だがしかし、それに伴って本能の訴求も勢いを増す。テネリスは持ち前の精神力でそれを捻じ伏せ、己を戒めるように呟く。
「少なくとも、人を襲うことは、しない」
テネリスは一つ、人を襲わずに血を得る方法に心当たりがあった。
それは、病院に行くことだ。昨今、病院には輸血用の血液製剤が保管されていることを、テネリスは知識として知っている。
それは言うなれば「動物の血以上、人間の血以下」の位置づけだ。すなわち、テネリスが抱えている問題を解決するには十分ということである。
故に、目下のテネリスの目標は「病院を見つけ、血液製剤を拝借する」だ。
だが、その目的を達成するには一つ大きな問題がある。それは、道中で人間と目が合った時、テネリスの理性が保たれる保証がないということだ。事実、テネリスは人間がマンションに近寄ってきただけで頭のネジが飛んだ実績がある。
「……仕方あるまいな」
テネリスは周囲を見回して手ごろな木を見つけてよじ登り、そこから近場の建物の屋根に飛び移る。
「人間とすれ違わなければ、どうということはない……」
いっそ目隠しでもした方がいいだろうか。そんなことを思いながら、テネリスは夜空の下、屋根から屋根へと飛び移っていった。
「どこだ、病院……出てこい……」
テネリスは紅い瞳をギラギラと輝かせながら、赤い十字架を探し求めていた。古今東西、十字架を積極的に探しに行くヴァンパイアはテネリスが史上初だろうし、今後現れることも無いだろう。
テネリスは今、この街でも若干栄えているであろう、四、五階建てのビルが連なった場所を渡り歩いている。それなりに大きい建物が密集しているので病院もすぐに見つかるかと思ったが、これがなかなか見つからない。
空を飛翔すればもう少し効率的かもしれないが、それには幾らか血を消費する必要がある。血を消費することは即ちテネリスの理性は削ることと同義――節約できるところは節約しなければならない。
「出てこないならこちらにも考えが――おわッ!?」
周囲ばかりを見ていて、足元の注意を疎かにしていたテネリスは足を滑らせ、ビルとビルの間の隙間に転落した。そして途中に生えているアンテナや室外機、看板にぶつかって鈍い音を鳴らしながら転落した先は、空のゴミ箱であった。
「ッッ……フーッ……」
ゴミ箱から頭を出したテネリスは、苛立ちを抑えるために、わざとらしく大きく深呼吸した。
普通のヴァンパイアであれば癇癪でここら一帯を更地にでもしていたかもしれないが、テネリスは誇り高き真祖である。上手くいかない時こそ、冷静に努めなくてはならない。
幸い、ここは全く人が居ない路地裏で、テネリスの醜態を目撃した者もいない。手間ではあるが、足場は多いのでビルの上に戻ることも簡単そうだ――そう思った直後、少し離れた場所の裏口と思しき扉がおもむろに開き、人影が現れた。
テネリスは人間を視界に入れないよう、ゴミ箱の中に身を顰める。
「――先生、今日は本当に助かったよ」
「ああ、しばらくは安静にな」
会話しているのは二人の男だった。どちらも多少歳を重ねているのか、どことなく渋さを感じる声色だ。
「また何かあったら頼むぜ。表の病院じゃ、どこも俺みたいなのを診てくれないからさ」
「そもそも俺の世話になるような無茶をするなって話なんだが……言っても無駄か」
その言葉にテネリスはピクリと反応する。外観からは全くそうは見えないが、ここは病院なのだろうか?
ならば、人間の血を欲するこの衝動を抑えて、血液製剤が無いか尋ねる価値はあるかもしれない。失敗したら、その時はその時だが――今のテネリスは同じ過ちは繰り返さないと強く念じている。きっと大丈夫なはずだ。
「無茶はすんなよ」
「へいへい」
どこか不誠実な返事を返した男の足音が少しずつ離れていく。
「……よし、今日はこれで終わりだな」
テネリスが僅かにゴミ箱から顔を覗かせると、先生と呼ばれた男は気怠そうに呟きながら扉を閉めていた。
――行くなら今しかない。
「待て!」
テネリスはゴミ箱から飛び出し、閉まる寸前だった扉に手を挟んで強引に開いた。扉のフレームが若干歪んでいるが、そんなことはお構いなしだ。
「うわっ、何だお前!?」
「血を、血を要求する。血液製剤が、あるだろう?」
「あ?」
「頼む。私の理性が、残っているうちに……」
「……あとで説明しろよ」
初めこそテネリスの言葉に怪訝な声を上げた男だったが、テネリスのただならぬ様子を見て何かを察したのか、慌てた様子で奥へと駆けていく。
テネリスもそれを追いかけようとしたが、追う対象が男から男の首筋にシフトしかねないと思い、ぐっと堪えた。
コツコツと音を立てながら、外見に反して清潔感のある白いタイルが敷き詰められた廊下を進んでいくと、すぐに待合室と思しき部屋に到着した。
テネリスはそこにあった適当な椅子に座り、衝動を鎮めることに務め――。
「――おい、血液型は?」
「……何でもいい」
「量は?」
「あればあるだけ」
――集中したいのに、ちょくちょく話しかけられて鬱陶しかった。
そんな一幕もありつつ、男がいくつもの血液製剤を持って戻ってきた。透明なパックに入った赤黒い液体が、これ以上ないほどにテネリスの本能を刺激する。
「――ほらよ。貴重なモンだし、本来はこんな使い方絶対しねえんだから――」
テネリスは男のことなど忘れ、血液製剤を奪うように受け取ると、パックをちぎって端から順に浴びるように飲み干していく。
血液製剤は人間の本物の血には劣るが、今のテネリスの渇きを潤すには十分である。今まで血の摂取は最低限で済ませていて、最後に満腹感を得たのはいつかも覚えていない。
「ふふっ……ハハハ……!ああ、満たされるとはこんな気分だったのだなあ。最高だ……」
ぽっかりと空いていた穴が埋められていくような、素晴らしい気分に、テネリスは恍惚とした表情を浮かべていた。一か八かでここに乗り込んだ判断に誤りは無かったのだ。
「…………」
一方、文字通り血を浴びてはしゃいでいるテネリスを見て、男はドン引きしていた。




