初めてだったんだ【ロバート視点】
「――ヴィル、ヴィルヘルム。居るか?」
宵も更けた頃、騎士団寮のヴィルヘルムの部屋の前で私はノックと共にそう声を掛けた。しかし返事はない。不審に思いつつもドアノブをひねってみれば、扉はあっさりと開かれた。
真っ暗な室内に入ると、僅かに何かが動く気配がある。
「……ロバートか。何の用?」
廊下側から漏れる明かりがベッドに腰かけながら項垂れるヴィルヘルムの輪郭を描き出す。私は手近にあったランプに明かりを灯すと、後ろ手に扉を閉めた。
「酷い顔だな。食事は?」
「ああ……最後に食べたのいつだっけか……」
億劫そうに前髪を掻き上げるヴィルヘルムの様子に、これは相当参っているなと改めて思う。無理もない。
「バーミリオン嬢とは、やはり没交渉のままか」
「…………もう、二度と会いたくないってさ」
その声は今にも泣きだしそうな弱弱しいものだった。十年来の付き合いだが、この男がここまで憔悴する姿を私は初めて見る。
「少しは会話を交わしたということか?」
「……門を挟んで、少しだけ」
「つまり、あのことについての説明は……」
「出来るわけないだろう。俺だけならともかく、ウェンディのことを巻き込む危険は冒せない」
私の立場からすると、ヴィルヘルムの判断は正しい。だが、それではバーミリオン嬢を説得することは到底出来ないだろう。私の方でも望みは薄いと知りつつ面会の打診はしてみたが、やはり梨の礫だ。
「ウェンディもだいぶ心を痛めている。なんとか誤解が解けるといいんだが」
キャロル・バーミリオンは完全に思い違いをしている。ヴィルヘルムとウェンディが恋仲? そんなことは絶対にありえない。それはウェンディが私の婚約者だからという話ではない。そもそもとして、二人がそういう関係になること自体がありえないのだ。
しかしそれは、内情を知っている人間だから言えること。何も知らない外部から見れば、確かに二人の行動は軽率だった。病室で抱き合う二人を見てバーミリオン嬢が受けた衝撃や怒り、悲しみは想像に難くない。
「……本当は」
その時、ヴィルがまるで懺悔をするように口を開いた。
「本当は、もう諦めるべきなんだと思う。ウェンディとのことは確かに誤解だけど……俺が彼女に一目惚れだったと嘘を吐いたことは確かだし、最初は完全に打算で近づいたのも本当だ。自分でも、なんで最初から正直に事情を話さなかったのかって毎日、死ぬほど悔やんでる」
それでも、とヴィルヘルムは血反吐を吐きそうな声で言う。
「初めてだったんだ。この子のためなら、全部を捨ててもいいって思えたのは。最初はジョージ・マホガニーなんて最低野郎が彼女と結ばれて幸せになるのが許せないから阻止しようと思ってた。けど本当は……あの夜、不安に押しつぶされそうになってたキャロルを、俺がこの手で幸せにしたいと思ったんだ。もしもの時は一緒に逃げようって約束したのも、全部まぎれもなく本心だった」
ぐしゃりと頭を掻きむしりながら、ヴィルヘルムが懊悩する。
「それなのに今は俺が一番、キャロルの心を傷つけてる。その事実があまりにも情けなくて……自分で自分に反吐が出るよ。だけど諦めて素直に婚約解消に応じることも出来ない。俺はキャロルを……どうしても手放したくないんだ……」
そう言いながら静かに涙を流すヴィルヘルムは今、生まれて初めての恋に苦しんでいるのだろう。
友人としてなんとかしてやりたいと強く思うが、私に打てる手は少ない。偶然を装い接触の機会を図ろうにも、最近のバーミリオン嬢は屋敷に籠り気味なのだ。外出するにも、女性のみの茶会や仲の良い友人との交流会に顔を出す程度。私も交友関係はそれなりに広い方だが、女性限定の場に潜り込めるほどの人脈や胆力は持ち合わせていない。
「――とにかく、お前に出来ることは誤解を解いて誠心誠意の謝罪をする機会を何としてでも得ることだな。数度会話を交わした程度だが、私から見てもバーミリオン嬢は聡明で話の分かる部類だ。話し合いの場さえ持てれば、可能性はあるだろう」
「……二度と顔を見せるなって言われてるのに?」
「それは彼女が真実を知らないからだろう。もし説明してそれでも拒絶されたなら……その時は潔く諦めろ」
私の辛辣な言葉にヴィルヘルムが見るに堪えないほど情けない顔になる。どうやら拒絶された時のことを想像したようだ。見目も要領も頗るいいこの男にこんな表情をさせられるのは、もはやバーミリオン嬢だけだろう。
それはそうと、ここに来る直前に私はひとつ重大な情報を得ている。
実はそれを伝えるために私はこの部屋を訪れたのだ。
「ヴィル、へこんでるところ悪いがひとつ嫌な話がある」
「……はは、これ以上、最悪なことってあるか?」
涙を強引に拭い乾いた笑いを漏らす友人に、私は粛々と告げる。
「ジョージ・マホガニーが現在行方不明だそうだ」
「――なんだって」
ヴィルヘルムは目を剝き一瞬にして顔色を変える。今にも食ってかかってきそうな気配に私は先んじて「落ち着け」と彼の肩に手を置いた。
「私も先ほど仕入れたばかりの情報だ。奴はマホガニー侯爵家のタウンハウスで軟禁されていたが、最近は監視の目もだいぶ緩んでいたらしい。どうやら使用人の何人かを唆したようだな」
「……キャロルは? バーミリオン伯爵家はこのことを知ってるのか?」
「それは分からない。念のため、ここに来る前に手紙は出しておいたが……」
バーミリオン嬢からするとヴィルヘルムの友である私への心証は現状、最悪の部類になっているだろう。もしかしたら手紙は読まれずに処分される可能性もある。
「明日、俺が屋敷に直接伝えに行くよ」
ヴィルヘルムは先ほどとは打って変わり、冷静な面持ちで私を真っ直ぐに見返してきた。
そこに迷いは一切感じられない。
「……また門前払いされるんじゃないか?」
「別に構わない。それで少しでもキャロルへの危険性が減らせるなら」
そう言い切ったヴィルヘルムの顔つきには凄味があった。絶対に彼女をジョージから守るという強い意思。その想いが、少しでもバーミリオン嬢に伝わればいいのにと私は柄にもなく神に祈りたくなった。
「ロバート、今更言うまでもないけどウェンディのことは頼んだよ。ウェンディにとってもジョージ・マホガニーの存在は害悪でしかないから」
「言われるまでもない」
私がジョージ・マホガニーを憎む気持ちは決してヴィルヘルムに負けていない。最愛の女性を心身ともに傷つけた外道。今だって許されるのならばこの手で殺してやりたいくらいだ。それでも理性と倫理観から奴を社交界から追放し、輝かしい将来を潰すことで手打ちとしてやったのだ。もしまた再び目の前に現れ、こちらに害を成すというのであれば――今度こそ、私自らの手で地獄に送ってやる。
「ウェンディのことは私に任せて、お前はまずその酷い顔を少しはどうにかしろ。食事と睡眠は無理やりにでも取れ。そもそもお前は病み上がりだろうが」
「ああ、分かってる。肝心な時に動けなかったら一生後悔するからな」
言って、ヴィルヘルムは先日の警邏中に怪我を負った脇腹を擦りながらゆっくりと立ち上がる。既に傷は完全に塞がっているが、激しい運動は医者から止められていると聞いていた。
「とりあえず飯食ってくる。明日も内勤だから、団長に許可を取って朝一番に伯爵家へ行ってくるよ」
「分かった。私も明日はウェンディのところに行って、なるべく傍に居るようにしよう」
互いに頷き合った私たちは、そのまま二人して部屋を出る。ヴィルヘルムは食堂へ、私は自室へそれぞれ歩みを進めた。
――この時は、まさか翌日にあんな事態が起こるなど、私たちは想像もしていなかった。
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