これが何だか分かるか?
病院から自宅へと戻った私は、その足で父の執務室へと向かった。
「おお、キャロル。早かったな。話は聞いたよ。ヴィルヘルム君は大丈夫だったかい?」
「しばらくは安静が必要そうでしたが、思っていたよりもお元気そうでしたわ」
「そうか、良かったな」
「それよりお父様」
「うん?」
「私はヴィルヘルム様との婚約を解消、もしくは破棄したいと思います」
「…………すまん、耳が遠くなったようだ。もう一度言ってくれ」
「ヴィルヘルム様と結婚しません」
「聞き間違いじゃなかったのか……!!」
頭を抱える父に私は申し訳なさでいっぱいになったが、この決断を撤回するつもりは毛頭なかった。自分が我慢すればいいという考えは、病室での光景で吹っ飛んだのである。
仮に二度の婚約破棄で社交界から後ろ指をさされたとしても後悔はしない。それよりも、こんな気持ちのままヴィルと結婚する方が絶対に後悔する自信があった。
「……お前がこの手の冗談を言う子ではないことは父である私が一番良く分かっている。だからこそ、どうしてそのような話になっているのかをまず説明しなさい」
父の言い分は尤もなので、私はこれまでの経緯を丁寧に説明した。
そもそもの出会い自体がジョージへの復讐のために仕組まれていたことから、ウェンディという女性とヴィルヘルムが特別に親密な関係であることまで包み隠さず。
途中から青筋を浮かべながらも私の話を最後まで黙って聞いた父は、何とも言えないため息を吐いた。
「――お前も私も、どうやら婿を見る目は節穴のようだな」
「それは……そうかもしれませんわね」
父が推薦したジョージも、私自身が選んだヴィルも、伯爵家の婿に相応しいとは到底言えない。
「一応、身辺調査もしたんだがなぁ」
「もし次があるならば、次こそは徹底的に調査するべきでしょうね。私はもう自分の人を見る目が全く信用できませんので」
「違いない……ところでキャロル」
「なんでしょうか?」
「本当にヴィルヘルムとの婚約は破棄するのか? 彼から言い訳の一つも聞かない状態で」
「……やはり反対ですか?」
此度のことは私個人ではなくバーミリオン伯爵家にも少なからず影響が出る事柄だ。現当主である父が難色を示すのも無理はない。けれど私の意思は既に定まっているので、時間が掛かっても父を説得するつもりだった。
しかし、次に父が発した言葉は私の予想を裏切るものだった。
「私は別に婚約破棄自体には反対しないぞ? ……意外か?」
「それは……はい。てっきり反対されるかと。今回も女神契約による婚約ですので」
「……それなんだがなぁ。キャロル、これが何だか分かるか?」
そう言いながら父が執務机の引き出しから取り出した書類を目にした瞬間、私は思わず叫んでしまった。
「な、なんで契約書がここにあるのですか!? 神殿に提出したはずでは!?」
そう、父が見せてきたのは私とヴィルの婚約を証明する女神契約の書類だった。本来ならばとっくの昔に神殿に提出してあるはずのそれが父の手元にあるという事実に驚きを禁じ得ない。
「実は提出する直前で色々と思うところがあってな。ほら、ジョージの件で私もそれなりに反省したんだ。ジョージの時も女神契約でなければ、お前があそこまで婚約破棄に苦労することもなかっただろう? 正直なところ通常の契約であれば我が家の財力をもってすれば、よほどのことがない限り金銭で解決できる。だからわざわざ女神契約を結ぶ利点がない。そう考えて神殿への提出を見送っていたわけだ」
「……なんて大胆な。もしウィスタリア伯爵にこのことが知られたらどうするおつもりだったのですか?」
「その時は素直に訳を話して謝罪するつもりだったよ。そもそも今回の婚約期間はジョージの時とは違って一年に満たない予定だったわけだし、実際に結婚してしまえば婚約時の書類などわざわざ気にする者はいないだろうと」
確かに父の言う通り、婚姻を結んだ時点で婚約の契約は満了となる。それ以降は何の効力もなくなるので、わざわざ神殿に申請されていたかどうかを確かめることをウィスタリア伯爵がするとは考えにくい。
「……別に私はヴィルヘルムのことを信用していなかったわけではなかったが、今となっては値千金の行動だったわけだな」
父の言葉に私はハッとする。そうだ。ここに書類があるということは、ヴィルとの婚約は正式な女神契約ではないということ。これなら神殿からの横槍は入らず、ウィスタリア伯爵家との話し合いだけで事足りる。つまり――ヴィルとの婚約破棄において最大の障壁だと思っていたものがなくなったということだ。
「お父様……その、なんと言ったらよいのか分かりませんが……ありがとうございます」
「喜ぶのはまだ早いぞ。流石に契約書を提出していなかったことは我が家の落ち度になる。まぁその点を差し引いてもヴィルヘルムの方に婚約破棄の原因があるのだから落としどころは見つけられるはずだが……」
そこで父は改めて私の顔をジッと覗き込んでくる。
「本当に後悔しないな? 明らかに情事に及んでいたジョージとは違い、ヴィルヘルムの方は何か言い訳をしようとする素振りがあったのだろう?」
「……仮に何か理由があったとしても、もう私はそれを知りたいとは思わないんです」
初めこそ、真実を知りたいと願った。だけど知れば知るほど、ヴィルとウェンディの間にある強固な絆を感じざるを得なかった。それが……本当はとても辛かった。私では永遠に彼女には勝てないと、何度も思い知らされるに等しかったから。
「有体に言えば……私はもう疲れました。これ以上、彼とのことで心身を削られるのは嫌なんです」
目を伏せながら淡々と言い切った私に父はしばし沈黙したが、やがて厳かに口を開いた。
「――分かった。私の方でウィスタリア伯爵と話をつけよう。ただ相手方は遠方だし少し時間はかかると思うが……それは構わないな?」
「はい。本当にご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません、お父様」
「謝る必要はない。それよりもしばらくはゆっくりしていなさい。お前はまだ十七歳だ。これから先、いくらでも取り返せる」
その言葉に思わず私の目に涙が滲んだ。どんなに言い繕っても婚約破棄は婚約破棄――つまりは醜聞だ。それが二度も続けば、私の社交界での評判は地に落ちるだろう。必然的に婿取りが難しくなることは目に見えている。それが分かっていてもなお、父は私の意思を尊重してくれているのだ。本当に感謝してもしきれない。
「……このご恩は必ずお返しします」
「ああ、期待しているよ」
父に頭を撫でられるのはいつ以来だろうか。力強い掌にホッとすると同時に感じるのは、微かな違和感。その正体が、いつも頭を撫でてくれていた彼の手ではないことだと気づいた瞬間、私はグッと奥歯を噛みしめた。
やはりまだ、私の中には彼が残っている。早く忘れたい。そう強く願った。
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