19. 綾
既に辺境伯家の領内に入っているとはいえ、ここから館まではまだそれなりの距離が存在していた。
そもそも、一貴族と言えども国内有数の大貴族であるヴェルトリージュ家の領地は極めて広大である。
地球に当てはめて言うと辺境伯家領の面積は日本やドイツのそれよりも広く、つまり小国どころか中規模の国家にも匹敵する程の規模を持つ。
それだけの規模の領地を内包するこの国がいかに広いかがそのこと一つ取っても分かろうというものだが、それだけ広いということは、即ち西端に近いここから館まではそれなりの距離があることを意味している。
到着までに数日は必要とする距離であるので途中宿で休みながら向かうことになるのだが、敵を警戒する必要が無いというだけでも一日に進むことが出来る距離はかなり大きくなっていた。
そして数日間街道の上を進み続け、私達は目指していた辺境伯家の館へと辿り着く。
二百年振りに目にするそれは、こうしてそれなりに離れた場所から眺める限りでは以前と全く変わっていない。
宿敵であるラーゼリア王国との国境沿いを領し国防を一手に担ってきた以上、一度開戦すれば戦況によってはこの館が包囲される展開も十分に考えられる。
実際、国史を紐解けば国境線から大きく内側に押し込まれて籠城せざるを得ない展開になったことも二度程あったはずだ。
故に周囲の地形も利用しつつ他の諸侯のものと比べ一際堅牢に作られており、館という呼称であっても切り立った丘の上に作られ高い城壁で囲われたそれはほとんど城砦と言って差し障りの無いものであった。
丘の途中にも防衛戦の際に用いる柵などがいくつも立てられており、過程の話ではあるがこの館を攻めるとなれば相当な苦戦を強いられることとなるだろう。
ここが過去に包囲された戦いの際も、ラーゼリア側は大軍で激烈な攻撃を仕掛け続けたにもかかわらず王家が編成した援軍が到着するまでの間遂に陥落させることが出来なかったのだ。
攻め落とすのは至難の業であると言えた。
ともあれ、城門へと続いている道の上を進みそんな館の方向へと近付いていく私達。
それなりに傾斜のある坂を上っていき、開かれている城門を潜る。
開け放たれた巨大な鉄の扉の奥、城壁の内部に広がっている光景にもまたとても既視感があった。
入って両側にそれぞれ兵舎と厩舎が存在し、正面には辺境伯一家が普段生活しているだろう館が聳える。
それそのものは誰の領地であっても目にすることが出来るものであるが、しかし通常と大きく異なっているのはその様式であった。
私の正面に建っている、辺境伯一家がそこで暮らしているという理由を以て館と呼称されるそれは、城壁を突破され直接攻撃を受けてもなお防衛することが可能なように設計されており、つまるところ最早城と表現する方が適切ではないかと感じるような外観をしているのだ。
その姿は、二百年前に目にした際と何も変わっていない。
目的地であった館へと辿り着いたので馬車を止めさせ、そして外へと降りる私達。
今しがたまで乗っていたそれを辺境伯家の使用人へと預けると、大きな車体は厩舎の方へと運ばれていく。
ただ馬を繋いでおくだけでなく、通常厩舎には馬車を停めておくためのスペースも用意されているのだ。
周囲では、第三騎士団の騎士達がここまで乗ってきた馬を厩舎へと預けに向かっている様子が見える。
それが終わるのを少し待っていた私とルウは、預け終えたらしい騎士団長がこちらに来ると屋敷の入り口へと向かった。
開かれた扉から内部に足を踏み入れると、そこには豪奢な内装の吹き抜けのようなホールが広がっている。
何も考えずに眺める限りでは一見何の変哲も無いように見える空間であるが、しかしよくよく注意をして観察すると浮かび上がることになる違和感。
そう、このホールは侵入してきた敵に対して上から一斉攻撃を仕掛けられるように作られているのだ。
右端から円く湾曲した壁に沿って自らも緩やかな弧を描くように上へと伸びている階段を上り、そして奥へと続く廊下を進んでいく。
こうして歩きながら感じる限りではあるが、屋内の雰囲気は以前訪れた際と何も変わっていないように思われた。
もちろん、内装などがそのままになっているという意味ではない。
経年劣化というものが存在する以上例えば壁紙などは二百年もそのままで持つはずもなく当然以前見たものとは違う意匠のものに張り替えられているが、逆に言えばその程度の変化しか起きていないのだ。
記憶と現実とを照合されつつも私は、三階へと歩き続ける。
三階にある客間へと案内された私は、そこで時を過ごし、世界が闇に包まれると眠気に意識を委ねる。
本来であればそこにもう一人居るはずの姿を目にしなかったのであるが、どうやらこの館の主であるヴェルトリージュ辺境伯本人は現在不在であるらしい。
領地の西側、つまり我が国の側からの攻撃は敵が占領地の拡大を優先させたために止まっているが、しかしその理由は国境の向こうから攻撃をしてくる軍勢には当てはまらない。
故に領地の東側の戦線では依然として現在も戦闘が続いており、その指揮のために辺境伯はそちらに赴いているのだそうだ。
とはいえ、それによる不都合などは特に起きていないので問題は無い。
翌朝、白い光を受けて目を醒ました私がカーテンを開けるついでに窓の外を眺めると、その先では雨が降りしきっていた。
豪雨と表現する程ではないが、それでも小雨とは呼べない程度のそれなりに強い雨だ。
よくよく耳を澄ませば、透明な硝子越しに弱いながら雨音も聞こえている。
そのまま窓越しに下を見下ろすと、そこには花壇や生け垣などが配置された庭園が広がっていた。
当然ではあるが、実家のそれとは全く違った意匠にデザインされた庭園。
通常であれば純粋に見る者の目を楽しませるために造られるそれも、しかしこの屋敷においては内部で敵を迷わせて迎撃出来るような実用的な構成に仕上げられている。
しかしながら、だからといってここが貴族の屋敷であり他の貴族を招くこともある以上、見た目の美しさが放棄された訳ではない。
母が手ずから指示した実家にあるものが装飾美(この表現にはいささか語弊があるが)の極地であるとすれば、それとは全く異なっているが、限界まで実用的にされているからこその機能美が確かに存在していた。
そして、そんな庭園の中に人影が一つ。
目を凝らすと、それは暗い色合いの衣服に身を包んだ灰髪の少年の姿だった。
彼は雨の中であるにもかかわらず傘を差さず、ただ濡れるに任せながら花々を眺めて歩いている。
誰かが気付いたとしたらその者が傘を持っていくはずであるので、そうなっていないということは未だ彼が庭にいることに誰も気付いていないようであるが、しかしだからといって放っておく訳にもいかない。
私はベージュを貴重にした色合いの雨傘を取ると部屋を出て、そのまま庭の方へと向かった。
階段を下りて建物の外へと出ると、私は傘を広げて雨の中へと歩き出す。
しとしとと弱く降り続く雨であるが、しかしその中にいる時間が長ければそれに比例して身体は濡れそぼつことになるだろう。
あまり濡れれば身体が冷え、体調を崩してしまうかもしれない。
歩きながら、私はそう彼のことを案じていた。
アーチ状に緑が配置された入り口を潜って中に入ると、当然であるが部屋から見えていたルウの姿は高い生け垣に隠されて見えなくなる。
だが、おおよその場所は分かっているので頭の中にあるつい先程の記憶と照らし合わせながら、あたかも迷路のように複雑に作られた庭園の中を探索していく。
そのまま数分程歩みを続けていると、やがて通路内のとある角を左へと曲がった先にルウの小さな後ろ姿を発見する。
特に足音を隠している訳ではないのだが、しかし彼はこちらを振り返る気配を見せない。
庭園の中ということで主に水捌けなどの都合によって地表には石畳が敷かれずに土がそのまま(とはいえもちろんきちんと整備はされているので雨水が溜まって泥濘になっていたりはしない)であり、また周囲には小さな雨音が無数に重なり合った音が響いているということで、彼は近付いてくる私の足音に気付いていないようだ。
私とて然程歩行が速い訳ではないが、しかし歩調を早めずともとてとてと体格に似合った速度で歩くルウの背中に追いつくことは容易い。
すぐ傍にまで接近した私は、そっと彼へと声を掛ける。
「サフィーナ?」
それによって初めてこちらの存在に気付いたらしい彼は、ゆっくりと振り返ると一言私の名を口にする。
こちらを向いたことによって見えるようになった灰色の髪は雨に濡れたことによって素肌に貼りついていたが、しかしそのことにより普段とは微妙に異なった妖しい雰囲気が彼の姿から感じられた。
どうしてか内心でかすかな動揺を覚えた私であるが、だがこうしている間にも彼の上には天より落とされる無数の水滴が降り注いでいる。
私は右手を彼の方へと差し伸べ、これ以上小さな身体が濡れないように首を傾げてこちらを見上げているその頭上に傘を広げた。
「お迎えに上がりました。斯様に濡れるのはお身体によろしくありませんわ」
「……やだ。しばらく一緒にいて」
「畏まりました。しばらくご一緒させていただきます」
雨に濡れたままでは身体が冷えてしまいよくないので館へと戻るように促した私だが、しかし彼はそれを拒絶するとそうこちらに要求する。
どうしようかと一瞬考えるが、まさか強引に連れ戻ることなど出来るはずもないし、少なくともこうして傘を差している限りはこれ以上新たに濡れることは無い。
既にそれなりに濡れてしまっているが、それに関しては後で身体が温まる薬湯でも煎じて差し入れすれば大丈夫だろうと判断する。
斯くして私達は、傘の柄の部分を挟むようにして横に並び、庭園の中を共に散策する。
探せばどこかに侍女や庭師もいるのだろうが、しかしそれらの人々は少なくとも私とルウの周囲にはいないようで、周囲から唯一聞こえてくるのは雨粒が傘の布の上に落ちて弾かれる音のみだ。
それからは特に言葉を交わしたりすることもなく、ただまるで私達だけが終焉を迎えた世界へと取り残されてしまったかのような感覚を覚えつつ、漠然と歩みを続けるだけであった。
しかし、会話をしないからといって決して気まずい訳ではなく、むしろ時間を忘れられる今は心が安らいでいるくらいである。
ただ隣に互いの存在を感じつつ、それからも会話を交わしたりすることはなく共に庭園のあちこちを気の赴くままに見て回っていては時を過ごしていた。




