8. 砂の天秤(2)
数日後に編成が終わり、水軍の輸送船に乗ってルヴジェントへと出た軍勢は、そのまま北上してベルファンシア公爵家の領地へと向かう。
全員が騎兵である麾下のみで行動する時とは異なり、今回は諸侯の連合軍という形である上に全体で見れば当然ながら歩兵の数が大半なので、そう早く移動出来る訳ではない。
一日の移動距離は少し頑張って街道沿いに存在する村三つ分の距離とほぼ同じ、即ち直線距離にしておよそ六十キロ超程度なのだが、とはいえいくら宿場として栄えていようとも規模的に村に数万の軍勢が宿泊するのは不可能なので、近くの開墾されていない平地で野営をする形となる。
得てして、軍勢の移動とは時間を要するものだ。
時折休息を挟みつつも、巨大な石造の水道橋や一面の小麦畑というこの国ではありふれた風景を通り過ぎながら行軍を続けると、次第に目的地が近付いてくる。
麾下のみの時とは違い緩やかな速度で進軍しているし、特に姿を隠している訳ではないので、あちらも私達の接近を把握しているだろう。
一定距離にまで近付くと、私は伯爵の立案に基き部隊の指揮をユーフェルに任せて自らは麾下のみを引き連れて離れる。
そして密かに公爵領の奥深くにまで侵入すると、そこから反転して南下する私達。
敵軍は迎撃のために南下しており、近辺にはほとんど存在していない。
要するに、軍勢を囮のようにした形である。
途中で森を切り開いて作られた石畳で舗装されていない道に入ると、そのまま南下を続けていく。
交通のために切り開かれてこそいるが元々この辺りは森の真ん中であるため、沿道に町や村などは見受けられない。
木々のざわめきを背景音として楽しみつつヴァトラの背に揺られていると、ふとそうした静寂を切り裂くように周囲に人の気配が満ちる。
「挟撃、されっ……!?」
背後から殺気を感じて振り返ると、そこにはかなりの数の軍勢の姿があった。
目測だが四万は超えているのではないだろうか、言うまでもなく、それが味方であるはずがない。
そして、前方には同様におよそ三万程度の軍勢。
こちらの作戦を読まれて待ち伏せられていたことを瞬時に理解し、私は思わずそう呻く。
彼我の距離はあっという間に近付き、こちらは敵からの攻撃を受け始める。
兵数でずっと勝る敵から不意打ちで攻撃を受けているのだ、ここは味方からの救援など望めない敵地深くであるし、このままでは壊滅してしまうだろう。
―――迷っている暇は無い。
「皆、私に続きなさい!」
そう叫んで混乱する兵達を激すると、私はヴァトラの背を撫でて左側にあった森の中へと駆け込む。
当然ながら、樹木が覆い茂り地形も起伏が激しい森の中を騎馬が移動するのは危険なのであるが、しかし前後を塞がれている以上は他に逃げ場は存在しない。
無論、それさえもこちらを誘導する敵の罠である可能性も十分にあるが、だとしてもあの場にい続けては壊滅するだけなのだから躊躇はしなかった。
進行を遮る樹木を避けながら森の中を高速で駆けるのは非常に難しいが、私が何も言わずともそれら全てを上手く回避しながら疾駆を続けるヴァトラ。
とはいえ、舞台の都合上こちらはそれ程の速度を出せないし、たとえ通常であれば絶対に追いつけない歩兵であってもここであれば私達とそう変わらない速度を出すことが出来るし、また私達が逃げ込むことを見越して伏兵がいる可能性もある。
私は背後の様子を確かめるために振り向くが、しかしそこには敵が追撃を仕掛けてきている様子は無かった。
あれ程の数の伏兵を用意して必殺の態勢を整えていたにもかかわらず、捕捉出来る確率が高いのに追撃の気配を見せない。
そんな矛盾に首を傾げていた私の視線の先、樹木の向こうに、一瞬だけ銀色の煌きが見えた気がした。
危惧し警戒していた伏兵なども結局おらず、無事に彼らの手から逃れることが出来た私達。
しかし、平地を疾駆しながら何度考えても先程のあれは不自然だ。
咄嗟の目測であるので正確ではないだろうが、前後の軍勢を合わせて敵勢は七万はいただろう。
まず第一に、それ程の軍勢をどこから集めたかが分からなかった。
そもそもこの地には既にベルファンシア公爵家の私兵である七万がおり、それと先程の軍勢を合わせれば実に十四万にも達する。
ラーゼリア軍との戦いに追われている現宰相がそれだけの軍勢を用意出来るとは思えないし、根本的に普通に領地を護るだけならば初めの七万だけで十分であるにもかかわらずわざわざ更なる軍勢をこちらに回す意味も無いだろう。
ああして待ち伏せされていたということはこちらの作戦を読んだ者が現宰相側にいたのだろうが、だとすればわざわざそのためだけに新たに七万をこちらに送らずとも、既存の七万で対応すればよいのだ。
そして、更に不可解なのは、彼らがどこの兵なのかである。
あの時敵兵が身に着けていた装備は公爵家のものではなく、中には様々な意匠のものが混在していた。
ベユキア子爵家のものやダーリヒ伯爵家のものなど、多彩に上るそれを一つ一つ挙げていれば枚挙に暇が無いが、しかし見渡せた範囲ではベルファンシア公爵家の装備は一つとして存在していなかったのだ。
つまり、元々いた公爵家の私兵はユーフェルが率いているこちらの軍勢と正面からぶつかり、その他諸侯の兵があの場にいたということになる。
だが、そのためだけにわざわざ対価を払ってまで軍勢を動員するのは非効率であるし、あの場にいたと思われる諸侯の面子を考えれば現宰相の命で動員されたとは考え難い。
ということはこちらの行動を読んだ上で兵を用意出来る人物が向こうには他にいることを意味しているのだが、それが誰なのかは特に思い当たる点が無いので分からなかった。
そうした疑問は尽きないが、ともあれ失敗したからと言って何の成果も挙げずに退く訳にはいかない。
当初の目的の達成は難しいとはいえ、それを補えるくらいの成果を何か挙げなければならないので、私はユーフェルに対して伝令を送るとそのまま南東の方向に進み続ける。
現在は軽装である騎兵隊のみであるので、全軍で進んでいた時とは比べ物にならない速度で移動することが出来た私達は、しばらくすると敵側の城の近くへと辿り着いていた。
比較的後方に存在する、攻略目標だったものとはまた別の公爵家の領内の城である。
前線から離れており、また兵の大半がこちらの軍勢の迎撃のために南に向かっているために、守備兵が少なく警戒もされていなかった城は、門から内部に駆け込むとすぐに落城した。
とはいえ占拠したままここで防戦する余裕などとても無いので、城門を破壊したり武器庫を燃やしたりして城を使えない状態にだけすると、休息を取った後に後にする。
一つだけでは埋め合わせにはならないので同じように他の後方の城も落としていく私達。
そうして三つを陥落させたところで反転し、ユーフェル達と合流して退いたのであるが、結局あの軍勢は最後まで再び姿を見せることがなかった。
ルヴジェントに着くといつものように船に乗り、南を目指す私達。
現宰相側の守備軍を撃破して公爵家領の一部を占領するという決定的な勝利を収めることは出来なかったが、とはいえ一定の成果は挙げることが出来た。
いろいろとあっていつもよりも精神的に疲れていたので、レールシェリエに着き執政府に入った私はそのまま休もうと思い、真っ直ぐに三階の自室を目指す。
すると、時間も遅いので巡回の侍女以外にほとんど人影を見掛けない廊下で、彩やかに青い髪をした伯爵と遭遇する。
「ベ、ベルクール様……っ!?」
私の喉から半ば無意識にそんな戸惑いの声が洩れ出す。
それと同時に羞恥に染まり紅く熱くなっていく頬。
こちらの姿に気付くとそのまま近付いてきた彼に、私は今抱き締められているらしい。
いきなりのことに、思考が大きく混乱する。
ちらりと横目で見た彼の表情はいつもの理知的で落ち着いたものではなく、そこには大きな感情の揺らぎが表れていた。
「よくぞ無事に戻ってきてくれた、サフィーナ嬢。……済まない、貴嬢を危険に晒したのは私の責任だ」
私の身体をぎゅっと抱き締めながら、そう口にする伯爵。
それで、この状況の意味を理解する。
伏兵に遭っていたことを知って、教え子である私のことを心配してくれていたらしい。
もっとも、状況が理解出来たからといって羞恥が薄れる訳ではないのだが。
高鳴る心臓が自分でも分かる程に体内に暴れ、皮膚を伝って激しい鼓動が伯爵にも感じられているのではないかと思う程だ。
「ご心配いただきありがとうございます。ですが、ご安心ください。私は無事に戻りましたわ」
依然として頬が燃えているように熱いのを自覚しつつ、しかし私を心配してくれた彼に対してそう声を掛ける。
そもそも、私はむしろ被害にあったのが自分であってよかったとさえ思っているのだ。
本来は伯爵が向かうところをいろいろなしがらみの都合で私が指揮をすることになったが、もし予定通りに彼が指揮を執っていた場合は当然伏兵に遭うのも彼だったということになる。
私は部隊が騎兵であったために無事に脱出出来た(もちろん何故か追撃をしてこなかったのも理由の一つだが)のであって、歩兵が中心である彼の部隊が仮にあの場にいれば全滅していた可能性が高い。
怪我の功名であることは否めないが、そうならずに済んでよかったと私はとても安堵していた。
そして、こちらの言葉を聞いて安心したのか背中に回されていた腕が解かれ、彼の身体が離れていく。
「貴嬢が無事に戻ったことは幸いだった。私の言えたことではないが、くれぐれも身体には気をつけるように」
「ええ。ベルクール様のお心遣い、受け取らせていただきました」
「では本日はもう休むといい」
伯爵の表情は、既にいつも通りのものへと戻っている。
謝意を伝えると、彼は最後にそう言い残してこの場を後にした。
その場に残された私は、ようやく落ち着きかけた鼓動を感じつつ、自らも再び部屋へと向かったのだった。




