7. 書架
それから数日後、王子達の一行が出立したためようやく暇が生まれた私は、この国の歴史書を読むために書庫へと来ていた。
本当は次の日にでも早速読みたかったのだが、場所が分からなかったのでこっそりと探していたら今日になってしまったのだ。
幸い、母による礼法の授業は以前に数日でクリアしているので時間はいくらでもある。
父は再び王都へと出張に向かったし、母も滅多にこの部屋には来ないようなので、日が暮れて夕食になるまでは思う存分読み放題だ。
ちなみに、いつも私の後ろにさりげなく付き従っているメイドは途中で撒いてきたので、今この部屋には私一人である。
いくらなんでも六歳児がいきなり大人向けの歴史書を読み耽っていたらおかしいと思われかねないので、一人で来ることにしたのだ。
書庫の場所を彼女に尋ねればもっと早かったのだろうが、それをしなかった理由もそこにあった。
万が一途中で人が入ってきたら、開いた本を枕に寝たふりでもしておけば大丈夫だろう。
私は入り口の扉がちゃんと閉まっていることと、室内に他に誰もいないことを確かめてから本棚に向かう。
およそ三十畳ほどの広さを持ったこの部屋には、どこか懐かしさを覚えさせるような古本特有の匂いが漂っていた。
入り口側から見て横向きに配置された大きな書架には棚一杯に分厚い表紙の本が陳列されており、それは五つが等間隔に並んでいる。
当然書架には両面に棚が作られており、一面三百冊とすれば合わせて三千冊近い本が格納されている計算になる。
比較的小規模であるとはいえ、さすがは貴族の屋敷だった。
これが大貴族だった前世の私の実家だと更に凄まじく、書庫が丸々一つ独立した建物になっていた。
二階建ての建物の中に隙間無く本が並べられ、数えたことは無いが冊数たるや数十万は下らなかっただろう。
やはり規模が比較的小さいからかここには司書はいないようだが、前世の実家には十人近くの司書が専職していたくらいだ。
得てして、この世界の王侯貴族は本集めが好きなものなのだ。
好きというか、書庫の規模が家の規模や繁栄振りを誇示する象徴の一つになっていると言うべきだろうか。
大和時代の日本の豪族達は自らの権威を誇示するためにこぞって大規模な古墳を建造したそうだが、まあそれと似たようなものだ。
かつて私もよく利用していた王宮内の書庫は更に規模が大きかったし、それこそ我が国最大の貴族の一つであるベルファンシア公爵家の書庫なども見たことはないが恐らくそれに匹敵するような規模を誇っているだろう。
そういえば、恐らく私が死んだ時のクーデターで真っ先に槍玉に上がっただろう当時の実家は今はどうなっているのだろうか。
それも確かめなければ。
誰もいない静寂の中に、こつこつと響く私の靴の音。
私は書庫の間を歩き回りながら、背表紙を眺めて歴史書を探していく。
言うまでもなくこの国、ベルフェリート王国では地球に存在するどんな文字とも異なった文字が使われているのだが、前世の幼少期に文字の読み書きも教えられていたのですっかり日本語と同じように使いこなすことが出来るようになっている。
会話においても同様だ。
異界の言語であるにもかかわらず比較的簡単にマスター出来たのは、更に昔日本でOLをやっていた頃に必要に迫られて様々な言語を習得していたのがよかったのかもしれない。
今はもう日本語以外は忘れてしまったが、当時は三十ヶ国語ほどを仕事の上で使っていたものだ。
ああ、懐かしい。
あの頃は仕事が楽しくて仕方がなく、他人から見ればまるで労働中毒のような状態だったと思う。
この国で使われている言語は日本語よりも遥かに子音の数が多く発音が複雑なので、OL時代の経験が無ければきっともっと習得に苦労したことだろう。
とりあえず一番近くにあった棚から探しているのだが、まだ六歳の身体であるためどうにも上の方に置かれた本が上手く見えない。
背伸びしたりジャンプしてみたりもしたが、それでも同様だった。
仕方が無いので、壁際に置かれていた木製の足場のようなものを持ち上げて本棚の方へと運ぶ。
……重い。
いつぞやのカルロと同じように、一歩足を踏み出す度に重さで重心を取られ私はふらついていた。
大人ならばこの程度の重さなど何ともないのだろうが、いかんせん六歳児の身体というのは実に不便だ。
どうにか床に降ろすと、私はその上に乗って上方にある本を物色する。
「あ、あった」
しばらく探し回った後見つけたのは、緑色に塗られた布で装丁された、まるで鈍器のような厚さの本。
その背表紙には、『ベルフェリート史』とこの国で使われている文字で綴られている。
だが、見つけたはいいものの背が足りず、足場に乗ってなお棚の四段目に置かれたその本にまで手が届かない。
「くっ」
頑張って背伸びしてみるが、やはり届かない。
……何だか悲しくなってきた。
それからしばらく台の上で飛び跳ねて、私はどうにか本を取り出す。
そのまま足場の上に腰掛けると、膝の上に本を乗せてそっと開かせた。
さらっと流し読みしたところ、どうやらこの国の建国以来の歴史を紀事本末体で記したものらしい。
目次を読む限りでは今から二十年ほど前までの出来事が綴られているとのことなので、私の死後に編纂されたものなのだろう。
当然、著者名は私の知らない人物だった。
ぱらぱらと古い時代について記述された部分は飛ばし、クーデターの少し前辺りの出来事について書かれたページを開く。
クーデターの前の数年間といえば私が宰相補佐としてこの国の実権を握っていた時代であり、つまり現在実権を握っていると思われるベルファンシア公爵家から見れば相当に都合の悪い時代だ。
彼らに阿って私の治世が相当悪し様に書かれていてもおかしくはないのだが、今軽く目を通した限りでは特に記述に誤りや歪曲は見られない。
これなら書かれている内容を信頼しても大丈夫だろうと判断し、そのまま読み進める。
室内に響く紙をめくる音。
しかし、私の指はある箇所で止まった。
いや、それ以上ページをめくることが出来なかったのだ。
「何、嘘でしょ……?」
自分の顔が青ざめていくのが分かる。
記されていることが到底信じられない―――いや、信じたくなかった。
この書物の著者は正確に歴史を書き残すことを目的として執筆したのだろう。
誰にも阿ることなく、あくまでも中立に厳正に書き連ねられた無機的で平坦な文章。
その中に綴られた一節。
初めて気がついた時に父がベルファンシア公爵の名を口にしていたことから、彼らによるクーデターの成功そのものは薄々察していたし、覚悟もしていた。
それでも、まさかそれがここまで徹底的なものだとは思わなかった。
僅かでも血の繋がった縁者もろとも、私が当主を務めていたロートリベスタ侯爵家は滅ぼされていた。
私の派閥だと思われた者も、その真偽は問わず全員粛清されたらしい。
あの日の記憶が、私の脳内を駆け巡る。
しかも、当時の国王、フォルクス・ユーノリージェ陛下をも廃位して亡き者にしていただなんて。
私やあの子だけには留まらず、よりにもよってあの方を。
フォルクス陛下は常々私に政治が苦手だと洩らしていたが、それでもこの国を良くしたいと心から思い、いくら大貴族の当主であるとはいえただの女侯爵でしかなかった私を信頼して政治を任せてくれたお方だ。
お世辞にも有能な訳ではなかったが、それでも国の繁栄と民の幸せを心から願い、前例が無い政策を連発する私を信頼し国政を委任する度量のある方だったのに。
―――許せない。
何より笑えるのは、当時の私の政略結婚の相手だった夫が裏切って公爵の側につき、のうのうと生き延びていたらしいことだろう。
別にこちらとて無防備だった訳ではないにもかかわらずあれほどあっさりとクーデターが成功したのはおかしいと思っていたが、あの男が裏切っていたのか。
私の心を暗い憎しみと怒りが渦巻いていくのがひどく鮮明に感じられた。




