1. 灰と黒
七階の部屋を出た私は、そのまま私室として自らに割り当てた部屋へと戻る。
やはりその途中では誰ともすれ違うことなく、三階へと下りてようやく掃除中の屋敷の侍女の姿を目にした。
そして部屋の前へと辿り着くと、カルロによって開かれた扉の中へと入る私。
「お帰り、お嬢様、カルロ。遅かったね」
その向こうにある玄関では正面の壁に背中を預けるようにしてクララが立っており、入ってきた私達にそう声を掛けて出迎える。
彼に対し、私とカルロはそれぞれ言葉を返し、靴を脱ぎ始める。
「ええ、少ししなくてはならないことがあってこの時間になってしまったわ。カルロ、付き合ってくれてありがとう。もう休んでいなさい」
一晩に渡って番をしてくれて疲れているであろうカルロに休むように伝えると、靴を脱ぎ終えた彼はこちらに一度礼をしてから自らの部屋へと入っていく。
私も底が平らになった乗馬靴を脱ぐと、柔らかな絨毯の上へと立つ。
「お嬢様、これを」
そんな私に対し、そう声を掛けてくるクララ。
そちらへと顔を向けると、彼は私へと向けて濡らされた柔らかなハンカチを差し出していた。
「……見ていたの?」
それが意味するところを理解し、彼へとそう尋ねる私。
鏡を確認していないので自分では分からないが、カルロ曰くまだ私の顔には泣き跡が残っているようなので、それを見て私が泣いていたことを知るのは不思議ではない。
しかしながら、今私と顔を合わせてそれを知ったならば、このようにハンカチを用意しているのはおかしかった。
つまりは、彼は私が泣いていたことをあらかじめ知っていた、つまりそれを見ていたことを意味している。
「どこかに隠れた敵が残ってないか城の中を確かめてる時に偶然お嬢様の姿を見つけたんだ。あの部屋の中はまだ確かめてなかったし、お嬢様を一人にする訳にはいかなかったから窓の外からいつでも飛び込めるように見張ってたんだ。外にカルロを待たせた時点で一人になりたがってるのは分かったけど……。申し訳ありません。俺が悪いから、もしお嬢様が許せないなら責任は取ります」
「いいえ、構わないわ。心配してくれてありがとう」
私の問いを否定することなく、その場に跪いて謝罪の意を示すクララ。
それに対して、私はそう言葉を返すと立ち上がるよう促す。
今の私は、よく仕えてくれているこの子にも支えられている。
恥ずかしいところを見せてしまったという思いはあるが、心配してくれたことは素直に嬉しかった。
「ところで、では私の口にしていた言葉も聞こえていたの?」
「ごめんなさい、それも聞こえちゃってた。何回も陛下って……」
「くれぐれも、そのことは内密にお願いね、クローディオ。恥ずかしいもの」
どうやら呟きまでも聞こえていたらしい。
別にこれといった実害は無いだろうが、念のために彼に対して口止めをしておく。
私の呟きを思い返しているのか少し不思議そうな表情をしている彼は、しかしこちらの言葉に頷いた。
「それと、お疲れ様。表沙汰には出来ないけれど、貴方が今回の戦功第一よ。本当ならば、それを広く知らしめなければならないのだけれど」
「構わないよ。俺はお嬢様のためにやったんだから。こうやって褒めてもらえるだけで十分さ」
そして、私は抜け道を通って内側から城門を開けてくれた彼のことを労う。
抜け道という性質上その功績を表立って讃えることが出来ないのが申し訳ないが、門が開かれたからこそ大きな損害が無いままにこの城を奪取することが出来たのだから、その功績は彼のものであると言える。
本来であれば大々的に讃えて功績を認めなければならないところなのだが、それが出来ない以上は本人がこう言っているとはいえ後で個人的に褒美となるものを何か与えなければならないだろう。
何を渡せば喜んでくれるだろうかと、頭の中で思考を巡らせる。
「いえ、そのような訳にもいかないから恩賞は何か考えておくわ。それはさておき、そろそろ休みなさい。貴方も眠っていないのでしょう?」
私がいつ目を醒ましてここに戻ってくるかなど予想のしようがなかったはずであるし、ということは恐らくずっと起きて私の帰りを待っていてくれたのだろう。
彼に対し、私はそろそろ眠るように告げる。
「ありがとう。それじゃ少し眠ることにするよ。お休み、お嬢様」
「ええ、お休みなさい。ゆっくり休むのよ」
そう言葉を交わすと、自らの部屋へと消えていくクララ。
一人になった私は自身も部屋に入ると、そのまま執務机に座って後回しにしていた比較的優先度の低い仕事に取り掛かる。
結果的にだが昨夜はゆっくりと眠ることが出来たし、何より今を生きると決めたからにはあまりのんびりとしてはいられない。
早速ペンを取り、私は書類を机上へと広げた。
オルタナシア城をほぼ無傷で手中に収めてから数日が過ぎた。
軍勢の総指揮官としてここで済ませておかなくてはならない仕事を手早く片付けた私は、守兵として残していく分を除いた軍勢に出立の準備をするように命じる。
この城は支配権の正当性を巡る内乱の最中だからこそ政治的な意味を与えられたが、平時であればこれといった価値の無い、守兵すら数人しか置かれないような半ば放棄された死んだ場所だ。
サフィーナ・オーロヴィアとして生きている私があまり長く留まっているべき場所ではない。
準備が終わるとすぐに全軍を率い城を発った私は、そのまま南下してレールシェリエを目指す。
現在はラーゼリア軍が侵攻してきたことによってそちらへの対応に追われていると思われるのでそこまで大きい訳ではないが、しかしこちら側が支配している南部地域の入り口であるルヴジェントから見ればそれなりに北に存在しているため現宰相の脅威がある。
道中にあった現宰相側の貴族の領地は事前に陥落させておいたとはいえ、それに対して警戒する必要があるために、勝利を収めた帰路であるとはいえ進軍速度は然程速くはなかった。
広い街道の上を通り行きとほとんど変わらない日数でルヴジェントへと辿り着いた私は、依然としてこの街の主将を務めるバルブロ・アルヴィドソンの出迎えを受けながら市内へと入る。
オルタナシア城の陥落という報せは民衆に対してはそうでもないだろうが、この国の諸侯に対してはかなりの意味を持つ。
いつものように密偵達に速やかにその事実を広めさせていたために彼も既に知っていたらしく、城壁の外にある無秩序な街並みの更に外へと迎えに出ていた彼から祝いの言葉を伝えられた。
その後は彼と馬を並べて実務的な会話を交わしながら細い通りを進んで城内を目指していく。
無秩序に街が作られているために幅が十メートルにずっと満たず、しかも頻繁に曲がりくねっている通りは万を超える数の軍勢が通るにはあまりにも狭く、長時間を掛けて四苦八苦しながら進んでいると大都市の計画的に設計された街並みや整備された広い街道の有難さがよく体感出来る。
とはいえ、狭く複雑な構造であるが故に防衛戦となった時には守備側の大きな助けとなってくれるのも確かなので、一概に悪いとも言えないのだが。
他国の軍勢が相手であればあっさりと焼かれてしまう可能性もあるものの、まさか現宰相もも自国の街を焼けるはずもないので、特にこの地が対現宰相の要衝として機能している今は盾として極めて頼もしいところだった。
やがて直線距離で言えば十分程度のところを数時間も掛けて通り抜けた軍勢は、そのまま城壁の内側へと入ると埠頭から輸送船へと乗り込んでいく。
司令官用の部屋へと入った私が独特の穏やかな揺れを感じながら本を読んでいると、やがて中盤に差し掛かった頃に乗っていた大型のジャンク船が停止する。
どうやら無事にレールシェリエへと到着したらしい。
船のほぼ中心部にある部屋から出た私は何度か階段を上って甲板へと向かい、そして千人乗りの大型船が五十層並んでも何も問題が無いような巨大な埠頭へと降り立つ。
南方諸国との関係は数百年に渡って友好が続いており、故にこの街の港はずっと貿易にしか用いられてこなかったため、初めの頃はこうして軍勢が埠頭を利用することに戸惑っているような様子を見せていた市民だったが、もうすっかり慣れたようでこちらの姿を見つけた人々は歓声を浴びせてくれる。
通りの両側へと分かれて祝いの言葉を口にする市民達に見守られつつ城門を潜った私達は、そのまま大通りを進んで執政府を目指す。
沿道の市民に見守られてさながらパレードといった風情で目的地に辿り着くと、私は広場で全軍に解散を命じる。
休むために兵舎へと向かう歩兵や愛馬を厩舎へと預けに行く騎兵などを横目に、ヴァトラと共に執政府の建物の裏手へと向かう私。
しばらく進んで人がほとんど通らないような奥まった場所へと辿り着くと、そこに設けられている囲いの中に一匹の灰色の体毛をした大きな獣が座っていた。
その姿が何者であるかは言うまでもなく、いつぞや王子が行った巻狩の際にヴァトラが拾った狼である。
まだ生まれたばかりであったらしいあの時はまだ私が腕の中に抱えられる程度の大きさだったが、この数ヶ月ですっかり成長し、今や我が愛馬に迫らんばかりのサイズへと成長していた。
未だ成長の途上であるようなので、最終的には同じかそれ以上の体躯になるのではないだろうか。
拾った張本人であるヴァトラはかなり気性が荒く豪胆な性格であるために平然としているが、本来臆病な動物である馬が過ごしている厩舎の傍に狼を置いておくことは出来ないし、屋敷で働いている侍女なども姿を見れば怯えるだろうから、こうしてあまり人の通らない場所に柵を作っていた。
私は地表に下りると柵の入り口を開き、その中へと入る。
「帰ったわ、フェール。いい子にしていたかしら」
すると少し勢いをつけるようにしてこちらに近付き、私へと飛びつく狼―――フェール。
雄の狼であるので力強く育つようにという意味も込めてフランス語で鉄を意味するフェールと名付けた彼は当然であるが私よりも体格も重さもずっと大きいため、とても勢いを受け止めきれずにそのまま後ろに倒れ込みそうになるが、それを察してか彼は途中で身体を止めて私が倒れないようにしてくれる。
腕を伸ばしてその柔らかな灰の毛並みに包まれた頭と耳を撫でると、心地よさそうに目を細めるフェール。
そうしていると、先程開け放った柵の部分からヴァトラが中へと入り、彼の方へと近付く。
狼と馬であるということで本来であれば捕食者と餌の関係であるはずなのだが、何故か(ヴァトラならば本気を出せば狼くらい倒せてしまいそうというのもあるが)平然と近付いていく彼女には怯えるような気配など微塵も見て取れない。
フェールの側もまた幼い頃から慣れているために襲い掛かったりすることはなく、ヴァトラの鼻先を舌で舐める。
そのような調子で、二頭はしばらくの間奇妙な戯れを続けていた。




