6. 夢幻
閉ざしていた瞼を開く。
外気に触れた私の瞳が映したのは、転生して以来毎日目にしている見慣れた天井だった。
背中には第一王子の腕の感触ではなく、沈み込むように柔らかい羽毛のシーツの感触。
どうやら、私は自室のベッドに横たわっている状態らしい。
レオンの腕の中で揺られているうちに、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。
誰が掛け布団を掛けてくれたのだろうか。
「起きたか?」
思考を巡らせてどうにか状況を把握している私に、どこかから声が掛かる。
室内を見渡すと、兵士のような格好のままの王子が少し離れたところにある椅子に腰掛けてこちらを見ていた。
大きく背もたれに背を預けるようなその座り方は一見乱暴なようだが、しかし育ちがいいためかどこか気品のようなものが感じられる。
「申し訳ございません。殿下の前でこのような失態を……」
彼の方から抱き上げてきたのだから別にそれは問題無いが、王子をよそに眠ってしまったことはかなりの失態だ。
王族に対する礼節以前に、淑女としての。
慌てて私は、謝罪するためにベッドから起き上がろうとする。
「構わん。ゆっくり横になっていろ」
しかし、王子に制止されたので私は動きを止める。
気にはかかるが、本人が気にしていないというのだから仕方がない。
彼は椅子から立ち上がり、こちらへと近寄ってくる。
一瞬遅れて、木製の椅子が軋む音が無音の部屋に響いた。
ふと思い出したが、カルロはどこにいるのだろう。
少なくとも、この部屋にいる気配は無いが。
「そういえば、殿下が来られた時この部屋に誰かおりませんでしたか?」
「いや、無人だったが。それがどうした?」
「いえ、使用人が殿下と知らず何か無礼をしてしまってはいないかと思いまして……」
「安心しろ。今は忍びの身だ、無礼を咎めたりする気はない」
王子と鉢合わせしていたのなら大変だと思ったのだが、どうやら不在だったらしい。
一体どこにいるのだろうか。
老婆心というやつか、少し心配になる。
「腹は空いているか? もし食べたいなら何か持ってきてやるが」
そのまま思考をしている私の顔を上から見下ろすような位置に立ち、私に尋ねる王子。
「いえ、この後夕食がありますので……」
しかしその好意を、やんわりとお断りする。
どうやらお忍びらしい目の前の王子は参加しないだろうが、正式な賓客である第二王子と夕食を同席するのだ。
礼節的に考えて、王族がいる場で自分の分を残してしまう訳にはいかない。
もちろん料理人もそれを見越して量を少なめに配膳しておいてくれるはずだが、まだ身体が小さいので今余計なものを食べてはそれすら完食出来るか分からない。
「夕食なら、少し前からもう始まっているぞ」
「そ、そんな!」
だが、彼が軽く口にした言葉に、私は王族の目の前であることも忘れて思わず悲鳴のような叫びを上げてしまう。
その拍子に飛び起きるように座り、頭を抱える私。
やってしまった。
まずい、あまりにもまずすぎる。
王族を招いての会食に寝坊するだなんて打ち首ものである。
両親に累が及ぶ前に、自害して首を差し出すべきだろうか。
誰かこれは夢だと言ってくれ。
わなわなと唇が震える。
今の私の顔は、きっと血の気が失せて真っ青になっているだろう。
「おい、大丈夫か?」
王子が、今にも気絶しそうな気分の私の肩を掴む。
でも半ば錯乱状態の私はとても言葉を返せなかった。
何か返事をしなくては無礼になるということは頭では分かっているのだが、返すべき言葉が頭の中で纏まらないのだ。
今無理に何かを口にすれば、かつて日本人だった頃のような素の口調になってしまうだろう。
それはあまりにまずい。
とはいえこのまま言葉を返さないのも十分にまずいので、まさしく八方塞がりの状況だった。
この状況で私がなすべきことは一つだ。
お忍びらしいこの第一王子にどうにか頼み込み、第二王子への取り成しを頼むしかない。
私は、千々に乱れた思考を懸命に組み立てていく。
「殿下、どうか……!」
ほとんど王子の胸倉に縋りつくような勢いで言葉を振り絞る私。
もう、無礼だとかは気にしていられない。
「安心しろ。アルフェリオにはもうお前は欠席すると伝えてあるし、ついでにオーロヴィア子爵にもお前が出席しない旨を託させておいた」
「へ……?」
それを宥めるように告げた王子の言葉に、私の口から間の抜けた声が漏れる。
「お前が眠っていたことは、第一王子である俺の公認だ。不敬にはならん」
「よ、かった……」
全身から力が抜け、膝立ちになって王子に迫っていた身体がくずおれるようにシーツに触れる。
同時に、安堵の息を履く私。
「だが、今の態度は不敬だな」
しかしそれも束の間、そんな私に追い討ちを掛けるように彼がにやりと笑って言った。
散々無礼を働いてしまっていたのを思い出し、再び私の表情が引き攣る。
「も、申し訳ありませ……!」
「今の不敬の分の貸しはいずれ返してもらおう。五年後にでもな」
謝罪の言葉を遮るように王子は私の耳元に唇を近づけ、そう告げた。
美声が聴覚を刺激し、私の四肢に鳥肌が走る。
「では、いずれまた会おう」
そのまま彼は踵を返すと、私に一言告げて扉の向こうに姿を消した。
どうやら、第一王子はかなり押しの強い性格らしい。
次にあった時の対応の参考に、それを頭の中に書き留めておく。
不意に、ベッドの下から物音が聞こえた気がした。
「……?」
私が不思議に思って覗き込むと、そこには光を反射した二つの瞳がこちらを見つめていた。
「ひぃ……!?」
先程の恐怖とは違った種類の恐怖を感じ、小さく悲鳴を上げてしまう私。
昼間ならともかく、薄暗くなった一人の部屋でこれは怖い。
「だ、大丈夫ですか!?」
しかし、次の瞬間に聞こえたのは聞き慣れた少し甲高い声だった。
そしてベッドの下から這い出してきたカルロ。
「か、カルロ?」
「はい」
よかった。
私は近付いてきた少年の胸に頭を預け、瞳を閉じる。
「どうしてそんなところにいたのかしら」
「えと、さっきの人がお嬢様を抱き抱えてこっちに来るのが窓から見えて、慌ててベッドの下に……」
「なるほどね」
姿が見えないと思ったら、単に隠れていただけか。
いくつかの意味で、安堵する私。
「……今日は疲れたわ。もう寝ましょう」
今日というより、主に今だが。
肉体的な理由ではなく、精神的な理由でぐったりとしてしまう。
まだ成長しきっていないカルロでは、先程の王子のように私の身体を抱き上げるのは無理だ。
どうしようもない倦怠感を感じつつも、私は一度立ち上がるとベッドの上に身を投げ出す。
「お休みなさい、お嬢様」
「カルロはどこで寝るつもり?」
私に声を掛けたきり一向にベッドに入ってくる様子の無い彼に、私は尋ねる。
寝具は余っていないはずなのだが。
「えっ、もちろん床で……」
「駄目よ、そんなの。身体に悪いわ。端に寄ってあげるから、ベッドで寝なさい」
この年頃の子供が、いくらそれなりの質のカーペットが敷いてあるとはいえ床で寝ては身体にいい影響があるはずがない。
幸いにも私のベッドはかなり大きいので、少し端に寄れば十分に二人で余裕を持って眠ることが出来る。
私は、彼にベッドで眠るように命じた。
「そ、そんな訳には」
「いいの。さもないと私も床で寝るわよ?」
確かに主人と同じ場で寝るのは礼節には反しているが、まだ幼いこの子がそれを気にする必要は無いはずだ。
少なくとも私はそう思うし、ベッドで寝かせてやるのが身体はともかく精神では大幅に年上の大人としての勤めだろう。
無理にでもベッドで寝かせようと、私は軽く脅しを掛けた。
きっとこの子にはこう言うのが一番効くだろう。
「分かりました……」
「よろしい」
観念したように頷くカルロ。
彼は何故か顔を赤くしつつも、靴を脱ぐと恐る恐るという感じで私の隣に横たわった。
「それじゃ、少し早いけど私は寝るわ。お休みなさい」
「お、お休みなさい」
そう言葉を交わすと、私はそっと瞳を閉じた。
まるで身体がどこまでも沈んでそのまま埋もれてしまうのではないかという錯覚さえ抱く、とても柔らかいベッド。
傍らから聞こえる小さな寝息。
瞳を開くと、闇に包まれてぼんやりとしか何も映らない視界。
まだ時間は夜中か早朝らしい。
どうやら、早く目が醒めすぎてしまったようだ。
右腕には少しの重みと、暖かな体温を感じる。
カルロが私の腕に抱きつくようにして眠っているらしい。
やがて少し闇に目が馴れ、彼の方を見るととてもあどけない寝顔で眠っていた。
いつからか私の前では幼いなりに凛々しく引き締めた表情しか見せなくなっていたが、やはりこうして見るとまだ小さいのだと改めて実感する。
普通のこの年代の子供らしい生活を犠牲にしてまで私のために頑張ってくれているのだから、いつか何かしらの形で報いてあげなければ。
私は、瞳を閉じてぐっすりと眠っているカルロの柔らかな頬をそっと撫でる。
「……いつもありがとう」
そして、聞こえていないだろうことは分かっていつつもそう呟くと、私は起こしてしまわないように気をつけながらそっと彼の身体の中から腕を引き抜いた。
少し彼が身体を身じろぎさせたので、今ので眠りが浅くなってしまったのかもしれない。
万が一にも目を醒まさせてしまわないように気をつけなくては。
懐から手のひらサイズの小さな機械式時計を取り出して時刻を見ると、まだ深夜の二時前だった。
早く寝過ぎたのだろうか。
そのまままた眠りに就こうかと思ったが、外行き用のドレスを着たままなのでどうにも眠り辛い。
結局、私は起き上がって寝間着に着替えることにする。
カルロを起こしてしまわないよう慎重に身を起こし、毛布を彼の身体に掛け直した。
私は一度床に降りて箪笥に近付くと、その中から適当に寝間着を取り出して卓上に置く。
そして先に懐から機械式時計を取り出しておくと、袖から腕を抜いたりしてドレスを脱いでいく。
ドレスにも様々な種類があるが、私が普段身につけている(母の好みなのだろう)ものは一人で着用するのが困難な作りになっている。
だからいつもメイドに手伝われながら着用しているのだが、逆に脱いでしまうのは簡単なのだ。
脱いだそれを、私は畳んで寝間着の隣へと置いた。
少し身体が震える。
私は今下着と靴下しか身につけておらず、素肌の大半は大気に露出されている。
季節はまだ春先であり、また夜中であることもあって気温もかなり冷たい。
窓は閉まっているので風の流れなどは無いが、それなりの肌寒さを私は感じていた。
そのために手早く寝間着に袖を通していくと、少し身体が温かくなった。
卓上に置いておいた時計を手に取り、再びカルロを起こさないようにベッドへと潜り込もうとすると、ふと庭で何かが光ったような気がした。
私が窓際に近付いて硝子越しに庭の方を覗いてみると、どうやら誰かが何かをしているらしい。
このままではよく見えないため、音をさせないようにそっと窓を開けて下を覗くと、ちょうど真下の辺りにいたのは昼間会話を交わした第一王子の姿。
その逞しい腕には一振りの剣が握られ、振るわれる度に刀身は月明かりを反射させて輝きを放つ。
どうやら、一人で訓練をしているらしい。
まるで剣舞のように美しいその動きは、嫋やかな月光に照らされてとても幻想的に見える。
私もそれほど強くはなかったとはいえ前世では剣を使っていたので分かるが、眼下の彼はかなりの使い手だ。
経験も体格も違うので当然ではあるが、今のカルロとは比べ物にもならないだろう。
どこまでも洗練された動きに、私は思わず眠ろうとしていたのも忘れ見蕩れてしまう。
「きゃっ!?」
夢中になり過ぎたのかもしれない。
いつしか身を窓から乗り出させるようにして王子の訓練を眺めていた私は、ふと風が強く吹いた拍子に下に落下してしまった。
いくら下が比較的柔らかい土とはいえ、六歳の身体で二回から落ちてはきっとただでは済まないだろう。
頭から落ちていて、とても受け身も取れそうにない。
私の悲鳴が聞こえたのか、少し驚いたような表情で上を向き、私を視界に映す彼。
そんな彼の顔を最後に、私はぎゅっと瞳を閉じた。
一秒、二秒、三秒。
しかし、予期していたような衝撃や痛みは一向に襲ってこない。
恐る恐る閉じていた瞼を開かせると、すぐ目の前には第一王子の整った顔があった。
「大丈夫だったか?」
彼の問い掛け。
どうやら、落下した私は空中で王子の腕の中に受け止められている状態らしい。
しばらく呆けていた私だが、それを把握すると慌てて彼の腕から降りようとする。
「も、申し訳ありませ……」
「いいからじっとしていろ。そのままでいい」
身体をじたばたさせた私だったが、王子に制止されたので動きを止める。
私が暴れたにもかかわらず落としそうな気配さえなかったのは、さすがといったところだ。
とはいえ、この状況はどうしたものだろう。
「何があったんだ?」
「殿下の剣筋があまりにも美しかったので、つい見入っていたら落ちてしまいましたの」
嘘を吐く訳にもいかないので本当のことを説明したのだが、かなり恥ずかしい。
私は、羞恥で顔を赤くして王子の方から思わず顔を少し背けてしまった。
「そうか」
「そのせいで殿下にご迷惑をお掛けしてしまいました」
「構わん。別に嫌ではないのでな」
「ですが、このような形で殿下のお手を煩わせるのは……」
「部屋まで送っていってやるから、大人しく抱かれていろ」
彼はそう告げると一度私を片手で抱え直し、身体を受け止めた際に投げ捨てていたらしい剣を拾って腰に佩いた鞘に差す。
その際に何かを見つけたらしく、それを手にすると私に見せてきた。
「これはお前の時計か?」
彼の大きくも綺麗な手に視線を移すと、そこには先程まで手にしていた機械式時計が握られていた。
部品のいくつかがひび割れ、針は凍りついたように止まっている。
どうやら、落下の衝撃で割れてしまったようだ。
「私のものですが……どうやら壊れてしまったようですわ」
隠し立てする理由も無いので、素直に答える私。
すると彼は束の間だけ何かを思案すると、そのまま手を懐に突っ込んだ。
再び取り出された手には、先程とは別の時計が握られている。
「これをやる。使え」
「このようなものを賜る訳には」
私の手に握らせようとしてきたそれを拒絶する。
王家の紋章が入っていないので専用品ではないようだが、それでも意匠など見るからに高級な時計だ。
繊細で優美な装飾が施され、本物だろう金が全体にふんだんに使われている。
恐らく、これだけで我が領の予算の一年分にはなるだろう。
ただの令嬢に過ぎない今の私の立場で、このようなものを受け取るのはまずいだろう。
受け取って売り払ってしまいたいとも思うが、王族から下賜されたものを売ってしまう訳にもいかない。
「いいから受け取れ。いずれお前に必要になる」
意味深なことを言いつつなおも勧められては、臣下である私も断る訳にはいかない。
渋々ながらも受け取ると、私はそれを懐に入れた。
少なくとも私がもっと大きくなるまで、これは誰にも見られないように気をつけて隠しておかなくては。
それを見届けた王子は再びお姫様抱っこのような体勢に抱えると、私の部屋を目指して歩き出した。
私の視線の先に映る真夜中の庭園は、昼間とは全く違うどこか妖しげな雰囲気を漂わせてとても美しい。
やがて玄関の方に回ると視界から庭園は消え、私達は屋内へと進んでいく。
当然ではあるが、まだ幼い私と比べると第一王子の歩みはずっと早い。
あっという間に私の自室の近くへと辿り着いていた。
「殿下、そろそろこの辺りで……」
「遠慮するな。またベッドに寝かせてやる」
もう自室が近いのでそろそろ降ろしてほしいと言うと、王子はそう言葉を返してくる。
これはまずい。
ベッドの上では、まだカルロがすやすやと眠っているはずだ。
変に鉢合わせさせないためにも、どうにかここで降ろしてもらわなければ。
私は頭の中で言葉を選んでいく。
「申し訳ございません。いくら殿下といえど、この時間に女の寝室に入るのは……」
「ふむ、それもそうか」
私が遠回しに拒絶の意を伝えると、彼は身体を床に降ろしてくれた。
おかしな伝聞が広まっては、王子は困らないかもしれないが私が困るのだ。
どうやら、ちゃんとそれを察してくれたらしい。
「ではな。またいずれ会おう」
そして彼は、一言そう言うとどこかへと歩き去っていく。
剣の訓練に戻るか、あるいは宛がわれた(両親は彼が第一王子だと知っているのだろうか)部屋へと戻るのだろう。
武人らしく均整の取れた長身で細身の身体が曲がり角に消えると、私は自室の扉を音を立てないようそっと開けて中へと入る。
穏やかな寝息が聞こえるので、どうやらまだカルロは眠っているらしい。
先程落下した際の悲鳴で起こしてしまっていなかったことに安堵しつつ、私は後ろ手に扉を閉めた。




