int.5 継承
街道の両側に広がる麦畑は未だ青く、穂は風を受けて靡いている。
馬車の中から眺めるこの国は、依然として平穏そのものだった。
初めて王都を訪れた日から十数年が過ぎ、私は先日爵位を継いで新しいロートリベスタ侯爵となっている。
現在は、その継承式を行うために私のものとなったロートリベスタ家領から一路王都へと向かっているのだ。
車も鉄道も、もちろん飛行機も存在しないこの世界においては、目的地への移動に一月以上の時間を要することも別に珍しくはない。
民衆の間で流行しているという小説を読んで暇を紛らわせつつ、かれこれ二十日以上も街道を進んでいる私の視線の先に、ようやく王都の城壁が見えてきていた。
王都の四方を取り囲むそれはあくまでも一辺が十キロにも達する程の長さが並外れているに過ぎず、高さに関しては普通の城壁と変わらないのでそれなりに近付かないと見えないのだが、見えるようになるくらいの距離にまで近付くと今度は端が見えずどこまで城壁が続いているのかが分からなくなる。
そのことが見た者に王都の巨大さを感じさせ、王家の威信を誇示することに繋がっていた。
百メートルを優に超える幅を持つ街道(これくらいの広さがなくては有事の際に軍勢の移動に利用出来ない)を進んでいると、時折旅人と思わしき市民や馬車の中に大量に荷を積んだ商人などとすれ違っていく。
一方で後ろから馬車を追い越していく旅人の姿なども多く見られ、彼らと同じように数年ぶりに訪れる王都へ進んできた私。
やがて常に開け放たれている城門へと近付くとそこを潜り抜け、そのまま続く大通りを通って中央区にある屋敷を目指す。
そもそも、王都は城壁に囲まれている城市であるが、ここに立て籠もって防衛戦を行うことは想定されていない。
城壁が長過ぎて死角の無いように兵を配置しようとすればかなりの数の兵が必要となってしまう(そのような大軍が無事ならばそもそも王都にまで進撃されないし、仮にされたとしても野戦で迎撃するだろう)ことや、街の発展と活気を優先して設計された計画都市であるために城門を突破された後に市街戦に持ち込めないことなどいくつか理由があるのだが、つまり王都の城門が閉ざされるということはそれそのものがベルフェリート王国が存亡の危機に立たされているということを意味する。
即ち城門を閉じることは王家の威信が揺らぎかけていることを広く示すようなものであるため、外敵に国土の奥深くへの侵入を許しでもしない限りは昼夜を問わず決して王都の城門が閉ざされることは無いのだ。
常時開け放たれており、また出入りの際に止められることも無いとはいえ、平時においては王家の直轄領の治安維持や貴族の護衛などを主任務とする第三騎士団が中央区と大通りを、それ以外の地区に関しては王軍の兵士が巡回をしたりして警備を行っているため治安は極めて良好だった。
ちょうど巡回中であるらしい第三騎士団の鎧を着た数人の騎士とすれ違いつつ、やがて私を乗せた馬車は大通りから中央区へと入る。
中央区に入ると周囲の風情は大きく変化し、民衆で賑わっていた通りからは人の姿がかなり少なくなり、左右に立つ店舗も貴族向けの高級な仕立屋や食器屋などになっていた。
それらの他に諸侯の屋敷もずらりと立ち並んでいるが、中でも我がロートリベスタ家の屋敷は王宮にかなり近い場所に位置しており、ここからではそれなりの距離がある。
それから数十分に渡り更に馬車に揺られ、少し日が傾きかけた頃私は遂に屋敷へと辿り着いた。
馬車を止めて外に降りると、屋内に入った私は四階にある執務室へと向かう。
そして少し前まで父が使っていたものである執務机の前に腰を下ろし、私は王宮から届けられていた継承式の手順について記された書類の束に目を通していく。
継承式は「爵位の継承を認める」という形式を取る(これは単なる建前であり、実際に爵位継承に介入出来る程の力は王家には無いが)ことで王家の威光を示しつつ、そうして大々的に継承をアピールをすることで新しく当主となった貴族にとっても人脈を作るきっかけとなり貴族社会への船出の助けになるというどちらにもメリットがある儀礼なのであるが、さすがにベルフェリート王国に二千や三千は優に超えているだろう程に存在する全ての家の当主が交代する度に行っていてはきりがないので、継承式を行うのは伯爵以上の爵位が与えられている家の当主交代の時のみとするのが慣例となっていた。
新しく侯爵位を受け継ぐことになる私にとってはこれがロートリベスタ家当主としての初めての舞台であり、極めて重要なものであるために間違っても式の最中にミスがあってはならない。
遺漏の無いように最後まで念入りに目を通した私は、読み終えた書類を机上に置くと、湯気の立ち上るカップに口をつけてそっと傾ける。
中に入っているのは言うまでもなく紅茶であり、喉を潤した私は茶菓子として用意したスコーンを食べていく。
ある店のスコーンが城下で流行しているという噂に惹かれて購入してみたのだが、口に含んだそれはほのかに広がる麦の風味が香ばしくとても美味しかった。
こうしてゆっくりとしていられるのも今のうちだけであり、継承式が終われば領地に戻り、早速その運営に取り掛からなければならない。
何から手をつけるべきだろうかと考えつつ、私は頭の中にある地球の知識の中から適当なものを探していった。
二日後の昼過ぎ、式を終え、それに付属して行われた晩餐会も終わった私は屋敷に戻って一夜を明かすと、久々に王宮にある書架を訪れていた。
継承式が終わった後にはそのまま晩餐会が開かれるのが慣例であり、新しく当主となった者はそこで諸侯に対して挨拶をしたりして、新たに人脈を構築していくのだ。
言うまでもなく何かとしがらみの強い貴族社会においては人脈とは極めて重要な力なので、そういった意味において継承式というのは王家にとってだけでなく貴族の側にとってもメリットが大きい式典である。
なお、継承式が行われる度に毎回出席をしなければならないと出費と時間の両面において貴族にかなりの負担が掛かってしまうため、主賓が貴族の側であるということもあって出欠は任意(なので通常であればその家と何かしらの利害関係のある家や新たに関係を持ちたい家しか晩餐会に姿を見せない)という慣習があるのだが、国内有数の大貴族であるロートリベスタ家の継承式ということもあって先程まで行われていたそれにはかなり多くの人数が集まっていた。
大貴族というのは他の貴族との関わりで何かを得る側ではなく、もちろん無償でという訳にはいかないが主に自らを頼ってきた家に対して何かを与える側である。
そうして関係の深い家を増やして派閥を大きくし、国内における影響力を強めるのが貴族社会における大貴族としてのおおまかな方向性なのだが、裏を返せば付き合いで来ている他の大貴族を除けば出席する貴族の多くはこちらに何かしらを求めているということだ。
当主の交代を機に侯爵家と新しく関係を築きたい者もいるはずであるし、これまでの友好を改めて確認するために顔を見せる者もいるだろう。
もちろん中には悪意というか、当主としては初心者であるこちらを上手く言いくるめて旨みを得ようとする貴族もいるだろうから、私は彼らが一体侯爵家に何を求めているのかを形式的な挨拶と世間話の中から掴まなくてはならない。
それらは彼我の利害を見極めた上で両者が妥協出来るラインを見出すという意味においてかつて日本人だった頃にしていた商談と共通している部分も多いので、あらかじめこの国の諸侯の領地の境界線が描かれた地図を頭に叩き込み、彼らの領地の位置を脳裏に思い浮かべつつ相手の思惑を見極めていった。
ひとまず夜半近くを迎えると晩餐会は無難に終わりを告げ、屋敷のベッドに身を委ねて眠りについた私は、夜が明けると朝食を取ってから再び馬車に乗って王宮に向かい、こうして書架へと来ている。
本当は晩餐会が終わった後すぐにでも来たかったのだが、電気という概念が未だ存在しないために照明器具の無いこの世界においては室内が明るいのは昼間のみである。
無論、蝋や松明などは存在するのでそれらによって夜でも十分な明かりを取ることは出来るのだが、しかしここは書物が多く置かれている書架であるという都合上、火災を防ぐために室内で火を扱うことが禁じられている(この部屋のみ絨毯や壁紙が無く石が剥き出しになっているのも同じ理由だ)ため夜に来ても満足に本を読むことが難しい。
もっとも昼間であっても特に窓の側から見て本棚の裏側になっている部分などは薄暗いことに変わりがないのだが、王宮の書架に所蔵されている本ともなれば背表紙が金糸で結われていることが多いので、題名を眺めるのに困ることはなかった。
これといって読む本の目当てがあって来た訳ではなく、もう優に十年以上も前にはなる前回ここを訪れた際には時間が足りずに読めなかった本も多くあるので、適当に棚を眺めながら興味を惹かれるものを探していく。
天井近くまでもある巨大な本棚が百以上も並んでいる書架の空間は非常に広く、棚を全て見て回るだけでもかなりの時間を要することになる。
しばらく私が棚を見て回っていると、やがて入り口の扉が開く音が石の床と壁に響き、それに続いて靴の音が聞こえてきた。
そちらを振り向くと、廊下から姿を現したのはベルフェリート王国の王太子であり次期王位継承者であるフォルクス・レストリージュ。
私はこちらへと近付いてきた彼へと膝を折って礼をし、そして跪く。
「久しぶりだな、ダリア。元気にしていたか?」
「ええ、殿下。お会いしとうございましたわ」
ロートリベスタ家の令嬢として育った私は王都を訪れるのは何かの式典がある時程度だったし、昨日の継承式に出席していたのは現国王であるメルヴェス王であり殿下は来ていなかったので、こうして会うのはかれこれ何年振りになるだろうか。
かつてこの部屋で初めて顔を合わせた彼であるが、それ以来我が国の政をどうするべきかで意気投合した私達は領地に戻ってからも手紙を書き合うことによって交流を続けていた。
そのため元気にしているらしいことは知っていたものの、やはりこうして実際に顔を合わせると最後に姿を見たのは数年前であるためにその時を思い出して懐かしさに襲われる。
初めに会った時はいきなりのことであったので驚いたが、今日こうしてここに会うことは事前に手紙で伝えてあったのでお互いに承知していた。
「いよいよだな。お前が私の頼りだ」
「過分なお言葉、恐れ入ります。必ずや殿下のご期待に応えてみせますわ」
私が爵位を継いだということは、晴れて殿下が戴冠した時に備えた準備を始められるということである。
この方は私に期待してくださっているが、それはつまり彼が王位に就いた際には私がこの国の政治を取り仕切ることを期待されているのだ。
だが、封建制であるこの国においてはたとえ名目上の絶対君主である国王といえどもその力は決して強くなく、大貴族が本気で反対すれば王家が実施しようとしていた政策が中止に追い込まれることもこれまでの歴史の中では珍しくはなかった。
ましてや私は未だ貴族としては若年であり、爵位を継いでからそう間もないために、このままではたとえ王となった殿下がそれを望んだとしても私がベルフェリート王国の宰相になることはまず不可能だろう。
故に私が宰相となるためには何か莫大な功績をどこかで挙げでもしない限り望み薄なのだが、そのような大きな功績はそれこそ戦争でも起きない限り挙げることは難しい。
そのため、これから私がすべきなのは他の大貴族達との政争の中で勢力を強めて少しでも宰相就任のための障害を減らし、それと並行していざ宰相位に就いた際に速やかに結果を出せるように領地で準備をしておくことだった。
「今日はどうする? 共に何か本でも読もうか」
「ええ、殿下のお心のままに」
本を読むのが好きな彼とこうして顔を合わせた時は、共に本を読むことが恒例である。
その内容は別に政治絡みのものだけではなく、芸術関連の書物から貴族の令嬢達の間で流行した小説に至るまで多種多様に上るが、たとえ以前既に読んだことがあり内容を全て覚えている本であっても、殿下と共にそれらに目を通す穏やかな時間はとても心地がよかった。
そうして立ち上がった私は彼と共に本棚の方へと向かい、共に読む本を二人で選んでいった。




