int.3 再生(3)
そして六歳の誕生日を迎えた私。
もう完全に毎年の恒例となっているレアチーズケーキ(別に誕生日にしか食べない訳ではないが)を食した私は、珍しく父からの呼び出しを受けていた。
現ロートリベスタ侯爵である父と初めて顔を合わせたのは母より礼法に関して合格を受けた後であり、一体どのような人物なのだろうと思っていたが、話してみれば髭を長く蓄えた穏やかな人物だった。
どうやら私の教育方針に関しては穏やかな父ではなく気が強い母の方が主導権を持っているようで、きちんと侯爵令嬢に相応しい礼法を身につけるまでは父とはいえ侯爵である彼に会わせる訳にはいかないと母が主張したために、会おうにもこれまで会えなかったと愚痴を零していたのを覚えている。
それはさておき、そんな彼から呼び出された私は、呼びに来たメイドの背に続いて父の執務室を目指す。
侯爵家の屋敷だけはあって廊下に飾られている美術品も極めて豪奢であり、今薄いオーバーニーソックス越しに踏んでいる絨毯一つにしても仮に地球に持って行けば数千万の価格は下らないだろう。
壁に掛けられている絵画や一定の間隔で置かれている私の背よりも大きな彫刻などもその作者はベルフェリート王国の美術史に関して記した書物には必ず登場するような高名な芸術家ばかりで、それらを買い揃えることが出来る侯爵家の財力の程が窺える。
元々こうしたものを眺めるのは嫌いではなかったので、しようと思えばこのまま美術館にも出来るだろう廊下を歩き進みながらそれらを鑑賞していく。
父の執務室は上の階にあるので、採光窓から射し込む陽光を頬に浴びながら階段を上り、やがて部屋の前へと辿り着いた。
扉の一枚を見ても使われているのは選び抜かれたのだろう木目が人の手で作られたように美しい木材であり、それがメイドの手の甲によって叩かれると、小さくもしっかりと響く音が発生する。
中から父の声で入室を許可する声が聞こえると、彼女の手によって扉が開けられ、微かに軋む甲高い音を耳にしつつ私は執務室へと入った。
室内では父が執務机の椅子に腰を下ろしており、閉ざされた扉を背に彼へと礼をした私はそのまま部屋の中央の方へと歩き進む。
「よく来た、ダリア。今茶を用意させるから、そこに座りなさい」
「はい、お父様」
私の姿を見て立ち上がった彼がソファーを示してそう口にし、それに従って私はそっと座る。
このままベッドとしても使えそうなくらいに座り心地のよいソファーは居間と同じように四角い机を挟んで二つ配置されており、入り口から見て左側のそれに身を委ねた私。
父は立ち上がると紐を引き、私の対面に腰を下ろす。
それから少し待つと、先程ここまで案内してくれた人とは違うメイドが丸いトレイを持って姿を現し、父と私の前にカップを置いて紅茶を淹れていく。
そして礼をしてメイドが立ち去ると、父が湯気の立ち上るカップを持ち上げて髭が蓄えられた口元へと運ぶ。
「エルファス殿より話は聞いている。勉学に励み盛んに知識を吸収しているそうだな。驚く程に優秀であるとお前のことを褒めていた」
彼の言葉を耳にしながら、私も同じように自らの分のカップを唇へと運び、そっと傾けて中身を口に含む。
その風味は安物の茶葉では決して出せない程に芳醇であり、私の味覚を存分に楽しませてくれる。
「それで、こうして呼んだ理由だが……。今日よりお前に侍従を付ける。そのことを話しておきたくてな」
「侍従、ですか?」
急な話だったので少し戸惑いつつも尋ね返すと、父はそれに大きく頷く。
侍従とはこの国(書架には他国に関する書物がほとんど置かれていなかったのでベルフェリート王国以外の国でも同じなのかは分からない)に存在する独特な風習の一つであり、女性の貴族が一定年齢になると付けられる専属の護衛兼使用人のことだった。
封建社会であるこの国においては諸侯はいざという時には自らの私兵を率いて戦場に立つ必要性と義務を持っている。
元々男女の間に王位や爵位の継承権に差が無い(歴代国王の中には女王も何人か存在する)この国において、爵位を継いだものの剣を振るうことが出来ない女性の貴族が、護衛として自らの代わりに剣を振るう役割を置いたのが元々の由来らしい。
今では令嬢がある程度の年齢に達すると両親が侍従となる同年代の少年を選ぶのが慣例であり、選ばれた者はその日以降侍従としての職務に必要な武術の訓練を積むことになる。
侍従として選ばれるのはその家に仕える有力な臣下の子息であることが多いらしく、誰かは分からないが私の侍従となる者もまた我が侯爵家の家臣団の子息達の中で私と同年代の者の一人なのだろう。
「入れ」
「失礼致します」
父が扉の外に声を掛けると、ゆっくりと開いた扉の向こうからいつからか待機していたらしい小さな少年が姿を現す。
こちらに礼をした彼は挨拶の言葉こそ流麗であるものの表情や身のこなしがどこか強張っており、絶大な権力を持っている父を前にして緊張していることがよく分かった。
そして白いチュニックを身につけた少年は頭を上げてこちらへと近付き、テーブルの横で立ち止まると父と私の方を向き絨毯に膝を突く。
「ヴァジムの息子のエドワルドだ。これよりお前の侍従となる」
「お初にお目に掛かります、お嬢様。私はエドワルド・チェルベリアと申します」
「ええ、よろしくね。エドワルド」
家臣団とはまだ面識が無いしどのような人物がいるのか教わったこともないのでヴァジムなる人物が一体誰なのかは分からないが、父の口調からしてやはりエドワルドと名乗ったこの少年は家臣のうちの誰かの息子なのだろう。
未だ緊張を解せていない彼に対し、私はそう言葉を返す。
「元々ヴァジムの息子を侍従にすることは決めていた故、私はもっと早くお前に付けてもよいと思っていたのだが、カタリナが礼法を身につけさせてからだと強く主張してな。それで今日になった訳だ」
父が溜め息を吐きながら、私に対してそう説明をする。
カタリナとは言うまでもなく侯爵夫人である私の母のことだ。
本名を、カタリナ・フォーテスキューという(この国では結婚してもどちらも姓が変わらない)彼女はロートリベスタ家には及ばないとはいえ暦とした大貴族の一角であるフォーテスキュー侯爵家の出身であり、貴族としての礼法を完璧に身につけている。
そんな母は領地の運営に関しては口を出さないが私絡みのことなどに関しては父を押し切って主導権を握っており、体面にも厳格な人物なので、きっと私に対したのと同じようにこの子にも礼法を教え込んでいたのだろう。
母に教えられただけはあってか、緊張の色こそ濃く現れていても仕草や態度に関しては何の瑕疵も存在していなかった。
「エドワルド、何があろうともダリアの身を護り抜くように。それがお前の責務だ」
「は、はい! この身が朽ちるまで、必ずや」
真剣な表情をした父からそう命じられ、その言葉を受け止めたエドワルドは気圧されたような様子を一瞬見せながらも、しかし確かに頷いてみせる。
「うむ。では、お前にダリアの侍従として振るう剣を与えよう。お前のためだけにかのエレティド・パヴラートに打たせた業物だ。武器室までついて来い。ダリア、お前はもう部屋に戻ってもよいぞ」
エレティド・パヴラートとは、現在ベルフェリート王国で最高の腕前を持つとされる非常に名高い鍛冶師である。
現在王族が佩いている剣や、この国に存在する五つの騎士団のうちでも最精鋭であり、王族の親衛隊としての色が濃い第一騎士団で用いられる武器や防具の類は全て彼が打ったものなのだそうだ。
機械を用いて大量生産している訳ではないためにどうしても彼が打つことが出来る数は限られているし、ましてや彼の手による武器は第一騎士団に優先的に供給されているために、それ以外の人間が手に入れることは難しい。
品質のよさと希少価値の高さのために武器であるとはいえこの屋敷に飾られている素晴らしい美術品の数々にも匹敵する程の市場価値を持つだろうそれを手に入れられる辺り、さすがは父といったところだろう。
そして、そう私に告げた父が部屋を後にし、それに続いてエドワルドもまた廊下へと姿を消す。
残された私もまた、居室へと戻るために柔らかなソファーから立ち上がったのだった。




