int.1 再生(1)
私が初めて自我を取り戻したあの日からおよそ二年半が過ぎ、私は今日三歳の誕生日を迎えていた。
今までの時間の中でこの地で使われている言葉を習得することが出来、それによって私は様々な情報を手に入れている。
まず、現在私のいる国の名がベルフェリート王国であるということだ。
言うまでもなく、このような名の国は私が生きていた時代の、または過去の地球には存在していない。
そうであるからには、現在私がいるのが現代でも過去でもないことは明らかである。
とはいえ、それだけであればここが現代文明の痕跡さえ消え去った遥か未来の地球である可能性もあるし、同じ宇宙に存在する未知の惑星である可能性もゼロではない。
もちろん転生という非科学的な現象が起きているからにはここが俗に言う異世界である可能性も十分にあり、それを判断するには別のアプローチをする必要がある。
私は屋敷内で見つけたものを適当に使って密かに簡易的な望遠鏡を作り、窓枠の向こうに広がる夜空を観察した。
そして天文図を作っていったのだが、それによってここが未来の地球でも、未知の惑星でもないことを確信する。
夜空に輝く星々の配置は地球上から見るそれと全く異なっていたし、作った天文図を元に現在地の座標を計算してみたところ、地球が存在した宇宙のどこにも当てはまる場所が存在していなかったためだ。
原理やメカニズムは分からないが、どうやら私は異世界に転生してしまったらしい。
そのことにさすがに驚いたのは確かだが、しかしどれだけ信じ難くともこれが私の置かれた現実である。
そこまで確かめた私は、次にこの世界のことと自身の現状について考察を始めた。
とは言っても未だ屋敷から外に出たことが無いので考察出来ることも限られているのだが、屋敷内の日常から考えるにどうやらこの国の文化レベルはそれなりに高いようで、地球の歴史で例えるならばおよそビザンツ帝国と同程度だろう。
歴史書によれば建国以来五百年の歴史があるらしいこの国は製本を初めとした諸技術も発展しているようで、木版印刷によって生産された書物もいくつも棚に並んでいた。
また、屋敷に仕えているメイド達の言葉から察するにここはベルフェリート王国のロートリベスタ侯爵領であり、今の私はその息女であり嫡子であるダリア・ロートリベスタという名である。
膨大な数の書物が並べられた書架で様々な本を読み漁ってみたところ、ロートリベスタ家は爵位こそ侯爵であるが領地の広さで見れば公爵家のいくつかをも上回る国内最大級の大貴族の一つであるようだ。
この国では女性であっても普通に爵位を継げるそうなので、つまり長女である私はいずれ侯爵家の家督を継承するということである。
つまり私はロートリベスタ侯爵夫婦の子として生まれたのだが、未だにそのどちらとも顔を合わせたことが無かった。
もしかすると私が意識を取り戻す前の半年のうちに会ったことがあるのかもしれないが、少なくともそれ以降は一度も無く、私のことも屋敷のメイド達に任されているようだった。
別に多忙で会えないという訳ではなく、父も母も普段はこの屋敷に滞在しているそうなので、大貴族ともなれば手ずから育児はしないということなのだろう。
私はこの家のことしか知らないので、それが他の貴族家でも一般的なことなのかどうかは判断出来ないが。
と、メイド達の会話と屋敷での暮らし、そして書架にあった書物から得ることが出来た現状に関する知識はこの程度だ。
これ以上は、それこそ屋敷の外へ出られるようになったり父が行っている政務の書類を目にする機会が無い限りは分からないだろう。
そして、今日は私の三歳の誕生日である。
去年までであればメイドが上にストロベリーソースを掛けたレアチーズケーキを祝いに作ってくれる日だったのだが、しかし今年に限るならば特別な意味を持った日でもあった。
十日程前に連絡が来たのだが、今日は未だ一度も姿を目にしたことのない母と顔を合わせることになっているのだ。
メイド達からの祝いの言葉もそこそこに、私はいつもよりもかなり豪華なドレスを着せられていく。
普段ならばそのままの腰まで伸ばした金髪も今日は頭の後ろで結われ、顔には彼女らの手によって化粧も施される。
やはり大貴族だけあって親子の間でもそれなりの格式を必要とするのだろうかと思いつつ、私は鏡に映るまるで咲き誇る花のようにスカート部分が膨らんだ真紅のドレスを纏った姿を眺めていた。
そうした身支度にそれなりの時間を要しつつも、全てが終わると廊下に出た私はメイドの一人に案内されて、母が待っているという居間へと向かう。
私は部屋を出られるようになってからも自室と書架を行き来する程度であり、浴室は自室に付属しているし食事も私が希望したものを厨房から部屋に届けてくれる形だったので、それ以外の場所に行くのはこれが初めてだ。
「失礼致します、お母様」
ここまで先導してくれたメイドによって入り口の扉が開かれ、入室するように促される。
貴族階級であれば礼法には厳しいのだろうが、特に習った訳ではないのでこの世界のそれはよく分からないため、室内に声を掛けるとひとまず不完全だろうが書物に記載されていた通りの仕草で礼をした。
それから室内に進むと、光沢のある黒い革張りで随所には優美な装飾も施され、一目見ただけでも高級品であると分かるようなソファーの上に一人の女性が腰を下ろしているのが視界に映る。
髪は栗色に近いような明るい金髪であり、彫りが深く眦が少し釣り上がった顔立ちは美しく整いながらも彼女が厳格な人物であることを思わせ、四肢はとても長く引き締まっていた。
これが初対面であるが、この部屋にいるということは彼女が私の母であるカタリナ・フォーテスキューなのだろう。
「座りなさい、ダリア」
「はい」
不完全だろう私の仕草には触れず、引き締まった表情を崩すことなく緑の瞳でこちらをじっと見つめた彼女が、紅の引かれた唇を開くと私にそう告げる。
それに従い、私は対面に置かれたソファーへと腰を下ろす。
「貴女はもう三歳になりました。そこで、本日より我がロートリベスタ家の娘としての教育を始めます。差し当たっては、朝食と昼食はこれまで通りで構いませんが、侍女に呼びに行かせますから夕食は食堂で私と取りなさい」
彼女が口にしたのは、三歳の誕生日である今日を機に私の礼儀修行を始めるという宣告だった。
まずは食事の際の作法からということなのだろう、今後は母と二人で夕食を取ることになるということは、これからは彼女が家にいる日は毎日顔を合わせることになる。
当然いつかは始まるだろうと予測していたし、貴族として生きていくからにはベルフェリート王国における礼法の習得は必須であるので、私としても異論は無い。
さすがに三歳から始めるというのは予想外だったが、この世界ではそれが普通なのだろうか。
私に対して要件を告げた母は近くに置かれていた紙の袋に手を伸ばし、その中に腕を入れて何かを取り出そうとする。
そして、出てきた彼女の白く綺麗な細い指には、思わず目を奪われる程に美しく輝く緑色の宝石があしらわれたコームが握られていた。
遠目に見るだけでも分かるその煌きからして宝石は恐らくスフェーンだろう、それを持って立ち上がった母がこちらに近付く。
「これは私よりの三歳の祝いです。大切になさい」
「ありがとうございます。このような素敵な髪飾りをいただけてとても嬉しいですわ」
そう私に語り掛けると、背後に立った彼女の手が結われている私の髪に伸ばされ、コームの櫛をそっと差し込む。
作業を終えると対面の席に戻った母に対して、私は感謝の言葉を伝える。
「それは何よりです。侍女達より、貴女は書物を読み知識を得るのを好む明晰な子だという報告は受けています。栄えある侯爵家に相応しい娘になるのですよ」
そう言ってようやく厳格な表情を崩してこちらに微笑みを向けると彼女は立ち上がり、入ってきたのと同じ扉を開くとその向こうへと消えていく。
私が着ているものとは違い比較的装飾やスカートの膨らみなどが少なく、シンプルでスマートなドレスを纏った母の歩く姿は一糸の乱れも無くとても美しく、さすがは侯爵夫人であると思わず感嘆する。
残された私も立ち上がると、母を困らせないように夕食の前に少しでも作法を予習しておこうと思い、沈み込むように柔らかで座り心地のよいソファーから立ち上がるとその類の本も所蔵されているだろう書架を目指した。




