5. 面影(2)
当たり前だが、王族が領内に来ているからといって領主はずっとその側に控えていなければならない訳ではない。
そんなことになれば執務に支障が出るし、何より歓待する側の心労が無駄に大きくなってしまう。
なので、領主が必ず姿を見せていなければならないのは出迎えと夕食の席、そして見送りだけと礼法は決まっていた。
この三つ以外の際は、別に側にいる必要は無い。
これは余談だが、この国では一日三食の食事の中でも夕食は他とは違った意味を持つ。
我がオーロヴィア子爵家でもそうであるように朝食と昼食はそれぞれの居室へと運ばれて一人で口にする場合がほとんどであるのに対し、夕食は家族や所属する集団の面々が揃って取るのが貴族の間での慣習だった。
それぞれに役職を持った大貴族だと、同じ屋敷にいても夕食の時以外互いと顔を合わせないことも珍しくないので、多忙な家族や親族同士での連帯を図る意味があるのだろうと個人的には思っている。
つまり私も今夜の夕食の場では第二王子とも席を共にすることになるのだが、逆に言えばそれまでは空き時間ということだ。
彼はもう用意された部屋に入っているし、まだ正午過ぎなので時間はそれなりにある。
私は、先程の驚愕からの気分転換も兼ねて庭園へと向かうことにした。
心の中では懐かしさのような気持ちがとめどなく溢れていて、誰も来ないところで一人になりたい気分なのだ。
使用人達も一行への対応などで忙しいので、生け垣の迷路に入ってしまえば誰かと鉢合わせしたりすることはないだろう。
母も既に自室へと戻ったので他に誰もいない玄関先に一人になった(普段ならば私から離れないお付きのメイドも今はそれどころではないらしい)私は、玄関のそれなりに重い扉を開けて外に出た。
そのまま屋敷の外周を左側へと回っていき、庭園の方へと向かう。
いくら忙しくとも誰かに見つかってしまうと一人にはさせてもらえそうにないので、見つからないうちに先を急ぐ。
まだ六歳ということもありこの身体は運動能力がかなり低いので、柔らかな土の上を転ばないように気をつけながら軽く走る。
そして私は、庭園の外周付近にあった生け垣の合間へと駆け込んだ。
迷路には入り口が複数あるのだが、今回入ったのは先日カルロと共に入ったのとは別の入り口だ。
一度立ち止まって息をつく。
この先はずっと迷路のようになっており、全貌を知っているのは母くらいだろう。
何でも庭園の美しさに徹底的にこだわって生け垣をデザインしたらいつの間にか極めて複雑な迷路のようになっていたのだそうだが、そのおかげで誰にも顔を合わせる必要が無いのはありがたかった。
そのまま、迷路を奥へと歩き進んでいく。
当然私から見える場所には時計など無いので体感だが、かれこれ五分ほど歩いただろうか。
何気にこれで入るのは二度目になるこの場所は、前回とは違い一人だということもあってか、当時とはまた違った印象を覚える。
もうそれなりに距離が離れているので、屋敷の喧騒も私の耳には届かない。
カルロと二人で慌しく駆け抜けた前回とは異なり、ひたすらに無響の深閑さが広がる今は、どこか寂然とした雰囲気を感じられた。
しかしそれが、今の私にはとても心地よい。
懐かしさ、寂しさ、切なさ、そして喜び。
それらがない交ぜになったような感傷に襲われている今の私にとっては、どこまでも変わり映えのしない緑と他人から離れた静謐がとても優しかった。
特に物思いに耽ることもなく、静けさに思考を預けながらひたすらに歩き続けていく。
しかし、私を包むようにずっと視界を覆っていた鮮やかな若葉色の壁もやがては終わりを迎える。
私は、以前カルロと遊んだ噴水の近くへと辿り着いていた。
生け垣で作られているといえども、途中で複雑に道は分岐していて決してここまで一本道な訳ではない。
お付きのメイドがいつか言っていたが、噴水の掃除のために迷路に入ったところ出口が分からなくなり、次の日の朝に同僚が探しに来るまで屋敷に戻ってこられなかった使用人もいたそうだ。
そのような複雑な構造にもかかわらず、ぼんやりしながら適当に歩いていただけの私がまたもここまで辿り着けたのは、果たして偶然かそれとも運命なのだろうか。
ふとそんなことが思い浮かんだ。
目の前にある噴水は、そんな私をよそにいつもと変わらずに水を上空へと舞い上がらせ続ける。
落下した雫が水面を叩く音が私の耳に響くが、無機なその音には不思議と煩わしさは感じなかった。
頬に触れる冷ややかで清涼な空気がとても気持ちいい。
ばしゃばしゃという衝撃音を聞きながら、私はきっと誰も来ないだろうこの場所で止めていた思考を再開した。
前世の私の想い人だった、かつてのこの国の王であるフォルクス・レストリージュ陛下。
私がクーデターに遭い死んだ際にはまだ子はいなかったはずだが、どうやらその後に嫡子が生まれていたらしい。
いつか見せてもらった陛下の幼少時の姿絵に先程の王子は酷似していた。
最初は他の王族が王位を継いだのかもしれないと思っていたが、生き写しと言っても過言ではないほどにそっくりな彼はまず間違いなく陛下の子孫で間違いないだろう。
となれば、あの方はその後も幸せな生を送れたのだろうか。
結局志半ばで死を迎えた私は隣に立つことは出来なかったが、あの方が幸せだったのならばそれで構わない。
もっとも、私と私の家族を殺したベルファンシア公爵家のことを許すつもりはないが、まあそれは別の話だ。
想い人が幸せになってくれていただろうことは嬉しいが、彼ともう会えないという事実を改めてはっきりと突きつけられたのは悲しい。
複雑な心境を抱きながら、私は噴水をじっと見つめていた。
「そんなところで何してるんだ? 」
「っ!?」
突然背後から声が掛けられ、肩に大きな手を置かれる。
誰も来ないと油断していたので焦りつつも、慌てて振り返る私。
十二、三歳くらいだろうか。
そこには、ローズブラウンの髪と薄茶色の瞳が特徴的な、それなりに長身な少年の姿があった。
まだ幼さを残しつつも精悍に整った顔にはどこか野心的な表情が浮かび、その眼光はとても鋭い。
百八十センチ近いだろう長身の体に軽装の鎧を纏い、腰に真剣を佩いているその少年は、気がつくと私の後ろに立っていた。
見覚えの無い顔だ。
「驚かせてしまったようだな」
王子一行の随員の一人だろうか。
彼は、驚いて振り返った私にそう声を掛けた。
もう声変わりを終えているらしく、その声はやたらと美声だった。
目を瞑って聞けばさぞ心地良さそうだ。
「失礼致しました。私はオーロヴィア子爵家が一人娘、サフィーナ・オーロヴィアですわ」
まるで兵士のような格好をしているが、話し方やさりげない仕草を見る限りこの少年は間違いなく貴族だ。
それも、どこかの公爵家や侯爵家に属するようなかなり爵位の高い。
今の私は単なる子爵家の令嬢に過ぎないので、非礼を詫びスカートの裾を掴む。
「ほう……外見に惑わされずに相手の身分を見破るか。どうやら、オーロヴィア子爵の娘が聡明だという噂は本当のようだな」
何が愉快だったのか、そんな私を見てにやりと笑う少年。
まるで肉食獣のようなその表情に、思わず後ずさりしそうになるのを堪えつつ私も笑みを浮かべる。
笑顔が少し引き攣っていないかが心配だ。
「俺はベルフェリート王国第一王子、レオン・レストリージュだ」
そして口を開いた彼は、自らをそう名乗った。
私が咄嗟に少年の腰に佩かれた剣の鞘に視線を送ると、そこには前世で毎日のように目にしていたのと変わらぬ王家の紋章が彫られていた。
王家の紋章が彫られた武具を持てるのは王家の血に連なる者だけであり、堂々とそれを帯剣している彼が本物の王子であることに疑いの余地は無い。
大慌てで私は跪き、頭を下げる。
まさか、この少年が王族だったとまでは想像出来なかった。
「ご無礼を申し訳ありません。どうかお赦しください」
私が気付いていたかどうかなどは関係ない。
王族、それも王太子である彼に爵位が上の貴族に対するような礼節をしたことは紛れもない無礼だ。
その罰は私自身はおろか、父や母にまで塁が及ぶ可能性がある。
それだけはどうにか避けなければならない。
「構わん。お前の噂を確かめに来ただけだからな」
あっさりと赦しの言葉をくれた王子に、私は内心で安堵の息を洩らす。
これで激怒でもされていたら、我が家のような小さな子爵家など領地を没収されても文句は言えない。
前世のような、多少の粗相くらいでは王家でも手出しが出来ないような大貴族ではないのだ。
気をつけなければ。
「それに、我等など所詮……これは言っても詮のないことか。お前、歳はいくつだ?」
何かを呟きかけてやめた彼が、私に尋ねる。
だが、私は跪いて頭を下げたまま答えない。
当人の許可が無くとも直答する権利があるのは公爵と侯爵と辺境伯、もしくは宮廷内や軍で一定以上の役職を持っている者だけだ。
前世の私は許されていたが、今の私には許されない。
「……ああ、直答を許す。頭も上げてよい。答えよ」
「後数週間ほどで七歳になります」
「歳の割には随分と聡明だな。それに、随分と見目もいい。将来は期待できそうだ」
黙っている私に対し訝しげな様子を見せつつも、思い出したように直答の許可を出した王子。
なので下げていた頭を上げて答えた私を見つめながら、彼はそう言葉を口にした。
「殿下にそうまでお褒めいただけるとは、身に余る光栄ですわ」
どう答えようか迷ったが、下手に謙遜しては見る目が無いと言っているように取られる可能性もある。
初対面なのでまだこの王子の性格や思考が掴めていないことも鑑み、素直に謝意を伝えることにした。
この世界に来て痛感したが、気心の知れない王族ほど面倒な相手はいないと思う。
何しろ、どんな言葉が無礼と取られるか分からないので常に話す内容に注意していなくてはならない。
フォルクス陛下との会話には、そんな心配はいらなかったのだが。
「それにしても、お前はこのようなところで何をしに来たのだ? 一人で庭園に向かう姿が見えたので後を追って来たのだが」
「私のようにまだ幼い者が屋敷にいて殿下の歓迎に忙しい使用人達の邪魔になるといけないので、夕食の時間になるまで一人になろうと思っておりましたの」
気をつけてはいたつもりだったが、姿を見られていたのか。
幼児が一人でどこかに行ってしまったのを見て、きっと心配してついてきてくれたのだろう。
「その思いはいいが、貴族の子供が一人になるのは避けろ。聡明なお前に何かあっては困る」
「ご心配、ありがとうございま……っ!?」
「五年したら迎えに来る。健やかに育てよ」
王子の言葉に返事をしかけていた私の顎に彼が手を添え、持ち上げる。
驚いて台詞を詰まらせた私に、鋭い目線を合わせた彼が告げた。
間近で見るその眼光の強さに、思わず少し気圧されたように言葉が出なくなる私。
「きゃっ!」
そして次の瞬間、思わず口から小さく悲鳴が漏れた。
王子が、いきなり私の身体をお姫様抱っこのような形で持ち上げたのだ。
別に怖い訳ではないが、何せよいきなりだったので驚いてしまった。
「一人で屋敷まで戻らせる訳にはいかん。送って行ってやる」
「あ、ありがとうございます……」
彼の身体は大きく、私を持ち上げていてもふらついたりはしなかった。
背中を支える細くもがっしりとした腕の感触に、どこか安心感のようなものを覚える。
まあ、単に私の身体が小さいだけかもしれないが。
戸惑いが無い訳ではないが、王子を相手にこの体勢で暴れる訳にもいかない。
送ってくれるというのだから任せようかと思い、私は身体を彼の胸に委ねて瞳を閉じた。




