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21. 泡影

 部屋の上部に作られた採光窓から朝日が射し込み、眠っていた私の瞼越しに降り注ぐ。

 それによって私は意識を覚醒させ、ほとんど重さを感じない柔らかな布団とシーツに挟まれていた身体を起こす。

 そして身体に力を入れて伸びをすると、ベッドの側にある台の上に置かれた白いレースの靴下を履き、布地越しに絨毯の感触を覚えながら立ち上がる。

 窓際に近付くとカーテンを開けて本格的に陽射しを浴び、鍵を解いて窓を内側に開けると頬を外から吹き込んだ朝の冷たくも爽やかな風が撫でていく。

 ふと下を覗くようにして庭のある外を眺めると、既に仕事を始めているメイド達が花壇の間を移動している姿がちらほらと視界に映る。

 中には庭師と思わしき者達の姿もあった。

 基本的には王家の意匠のメイド服を身につけている者がほとんどなのだが、稀に違うデザインのものを着ている女性も見受けられる。

 恐らくは、私と同じようにこの地に身を寄せている貴族に仕えているメイドだろう。

 ともあれ陽射しと風によって僅かに残っていた眠気は完全に飛び、私は扉のこちらから見て左側にあるクローゼットに近付き、中から簡易なドレスを取り出すと今まで纏っていた寝間着を脱いでそれに着替えていく。

 着替えを終えた私は洗濯籠の中に脱いだ衣服を入れると、一度玄関の扉を開けて廊下を見渡し、巡回をしているメイドを呼び止めてそれを手渡す。

 洗濯物を任せた私は、室内に戻ると執務机の前の椅子に腰を下ろし、左下にある二段目の引き出しから地図を取り出して思案に耽る。

 この国は七百年に渡る歴史があり、各地に街道が張り巡らされ交通網が整備されていることもあって、王家が製作した地図に記されている国内の地理や領地の境界線などの情報はかなり正確である。

 全く開拓されていない山や森林もこの国には未だ大量に存在し、それらに関する記述に関しては曖昧だったり不完全だったりするが、しかし街道や都市、諸侯の領地の位置や形などの人の手が入っている場所にまつわる情報の信頼性は高い。

 普通であれば自らの領地の地形を記録しようとすればその地の領主による妨害がありそうなものであるし、実際に領主にはそれを拒否する権利もあるのだが、この計画は四百年前に費用を全て王家が負担した街道の敷設が行われるのと同時に実施され、街道が整備されることは諸侯にとっても大きな利益となるので順調に進んだという経緯がある。

 言うまでもなくこれがそのまま市井に出回っている訳ではなく、広く売られている地図だと製作者が個人であるために精度が落ち、街道と都市や宿場町などの位置に加え大きな川や山くらいしか記されていないのだが、今目にしているのは王家によって作られたものなのでかなりの精密さを持っていた。

 それでも、そもそもの測量技術の問題があるので現代日本にあったような衛星を利用して作られた地図とはさすがに比較にならないが。

 ともあれそれ故に私が加筆をした地図上にはベルフェリート王国の現在の情勢が正確に描かれており、彼我の陣営を適当に塗り分けたものを眺めるだけでも現在置かれている苦境が分かってしまう。

 当初からあった圧倒的な差を覆すにはそれこそあらゆる戦線で圧倒的な大勝利を収め続けでもしないかぎり不可能であることは分かっていたが、やはり依然として劣勢は続いていた。

 まだ公爵家の軍勢が出てきていないにもかかわらずこれなのだ、いつかの奇襲で編成を遅らせたとはいえ、彼らの大軍が出てくれば容易に押し潰されてしまうだろう。

 この情勢をどう覆すべきか―――腹案は一つだけあるが、これを提案するのはベルフェリート王国の貴族として躊躇われた。


「お嬢様、入るよ!」


 突然そんな声が聞こえると、私の返答を待つことなく部屋の入り口の扉が力強く開かれ、その向こうからクララが姿を現す。

 そのまま室内へと足を踏み入れた彼は、後ろ手に扉を閉めると、こちらへと近付いてくる。

 何かしらの報告があることが分かったので椅子から立ち上がった私は窓際に近寄って開け放っていた窓を閉め、振り返ると彼と向き合う。


「おはよう、クララ。どうしたの?」

「ベルファンシア公爵がラーゼリアの貴族と接触してる。どうやら向こうの王を動かして辺境伯家の領地に攻撃を仕掛けさせるつもりみたいだ」


 彼がクララという呼び方に抗議してこないということはそれだけ焦っているということであり、それだけ喫緊の用件であるということだ。

 明瞭な発音で、しかし室外には決して聞こえないような声量で伝えられた報告は、やはり極めて重大な内容だった。

 まさか領土を引き渡す代わりに政敵を牽制するように敵国と取引したなどとは書けるはずもなく、その辺りの内容に関しては断片的にしか記されていないのでクララは知らないだろうが、要するにエルティ卿の時と意図は同じだろう。

 言うまでもなく、ただでさえ窮地にある私達はこれによって更に勝機が薄れることになる。

 これに対してどう対応すべきか、答えは考えるまでもなく見えていた。


「私はこれより殿下に拝謁するわ。貴方達は交渉の進展を少しでも妨害しておいて。交渉が成立するまでには早くとも数ヶ月は要するはずよ。戻ったらまた別の指示を出すから、クララはレールシェリエに残っていてね」

「分かった。じゃあ俺は今から指示を出してくる。騒がしくてごめんね」


 そう言って退出していった彼を横目に私は王子へと謁見するための準備を始めた。

 重大な報せを受けて気は急いているが、しかし慌てる必要が無い程度の余裕は存在している。

 私がかつて生きていた日本とは異なり、この世界には電話も鉄道も存在しないので、何らかの交渉を行うためにはどちらかの当事者が相手の元を訪れるか、もしくは互いの間を何度も使者が行き来しなくてはならない。

 内乱の最中である現宰相は国内から離れられないし、ラーゼリア王国の宰相がわざわざこちらに訪れるはずもないので、つまり両者の交渉は使者を交わすことになる。

 どちらかが相手の元を訪れた上で当事者同士が直接話し合えば比較的短い時間で成立させることも難しくないが、使者を挟むと一度意志を相手へと伝える度に互いの間を往復するための時間が必要となるので、その分だけ妥協に要する期間が増えていく。

 ましてや、恐らく代償としてまた国土を割譲するだろう都合上、かなり念入りに条件を打ち合わせるだろう。

 今回の場合、順調に話が進んだとしても数ヶ月は必要となるであろうし、こちらも急いで動き出さなければならないとはいえ、決して時間が無い訳ではないのだ。

 今の格好のまま謁見するのは緊急時でなければ非礼であるし、慌てずにゆっくりと着替えればいい。

 先程着たばかりのドレスを脱ぎ下着姿になった私は、それを畳み円卓の上に置くと、クローゼットを開いて以前クララからプレゼントされた、彼が自作したという紅のドレスを取り出した。


 クララが作ってくれたドレスは装飾や意匠がふんだんに施されたかなり豪奢なものであり、普段着として非公式な場で着るのではなく戦場に出る際やパーティーの際などに身につける正装用のものである。

 それは見た目の華やかさに比例した構造の複雑さと重量があるためにプライベートな場で着用するには適さないということなのだが。

 適当に眺めてみるだけでも、これだけ精巧な作りのドレスを一人で縫い上げて見せたクララの裁縫の腕前には思わず感嘆してしまうが、つまりは一人で着用するのは難しいということである。

 本来であれば侍女であるアネットに手伝ってもらうのだが、彼女には私に代わって各地で様々なことをしてもらっているため、王都を出て以来別行動を続けていた。

 そのため彼女に手伝ってもらうことは出来ないので、ひとまずドレスに手足と頭を通した私は紐を引いて鐘を鳴らし、使用人用の部屋からカルロを呼び出す。

 数秒程待つと外から扉が叩かれ、入室するように伝えるとその向こうから彼が姿を現す。


「お呼びでしょうか、お嬢様」

「おはよう、カルロ。これから急遽殿下に拝謁しなければならなくなったから、その準備を手伝ってもらいたいの」


 扉を丁寧に閉めると、その場で絨毯に膝を突きこちらへと礼をするカルロ。

 そのままの姿勢を続ける彼に、私はそう伝える。

 他の部分は布地に覆われているものの、後ろ側で紐を結んで腰周りのサイズを調節する構造になっているこのドレスはそのままでは編み上げの部分が大きく開いており、故に背中が大気に触れて肌寒い。

 無論このまま外に出られるはずもないので、いくつもあるために到底自分では結べそうにないそれらを結んでもらう必要があった。


「畏まりました。それでは、失礼致します」


 頷くと立ち上がったカルロが鏡の前にいる私へと近付き、すぐ後ろで立ち止まる。

 鏡越しに見える彼の身体は大きく、幼い頃は同じくらいだった身長も今や私よりもずっと大きくなっていた。

 五歳の頃に初めて出逢って以来長い時間を共に過ごしてきた彼は、膝を突いて私の腰の高さに目線を下げると、普段は剣を握り私を護ってくれている指で紐へと触れ、いささか覚束ない動きでそれを引いて腰の部分を絞りリボン結びに結んでいく。

 彼の作業の邪魔にならないように私は腰の辺りまで伸ばした髪を一度手で纏め、身体の前側へと流す。

 さすがにアネットのように流麗にとはいかない彼の手が時折背筋に触れつつも、無事に作業が終わると彼は立ち上がる。

 戦場にて身を包むことを考慮していたのか、上からコルセットを着けないように作られているのだ。


「ありがとう。髪もお願い」


 肩辺りの長さまでならばそのままでもよいが、それ以上に髪を伸ばしている場合は結い上げておく必要がある。

 そして私は、背中側に戻した髪を彼の手に委ねた。









 メイクは先に済ませていたので、髪が結い上がると共に準備が終わった私は部屋を出、上の階にある王子の居室を目指す。

 階段を昇った私はいつかと同じように廊下を巡回する侍女に声を掛け、王子へとこれから謁見したい旨を伝えてもらう。

 扉の向こうに姿を消したのを見届けてしばらく待つと、戻ってきた彼女に許可が下りたことを告げられる。

 そして先導に従って部屋の前に着くと、彼女によって開かれた扉を潜って室内へと入った。

 私は扉が閉まる音を背中越しに聞きながら、その場に跪いて円卓に座り肘を突いている王子へと礼をする。


「本日は急な要望にもかかわらず拝謁をお許しいただき、誠に恐悦至極に存じますわ」

「別に構わん。それより、緊急だと聞いたが何事だ?」

「現宰相がラーゼリアの者と接触している模様です。辺境伯様の領地に攻め込ませることを目論んでいると思われます」


 余程情勢を激変させる何かがない限り、このままでは私達は絶対に勝てない。

 しかしながら、こちらは大河とその支流が物流と生活の基幹を支えている南部を根拠地とし、水軍を傘下にしたことによって制水権を確保しているため、ルヴジェントが陥落しない限り南部だけでどうにか独立状態を保つことは出来る。

 もちろんそれによって滅亡を免れたとしても勝利とは程遠いので、実際にするとなれば最悪の状態に追い込まれた場合になるのだが、現宰相はそうした事態を避けたいのだろう。

 いくら圧倒的な実力を持っていたとしても、王子が南部で旗を掲げ続けている限り彼に大義名分は存在せず、その状態でこれまでのように権力を確保し続けるのは難しい。

 それでも長期戦になればやはりこちらも苦しいのであるが、なるべく早く決着をつけるために、辺境伯家の軍勢を領地に戻らせ釘付けにしたいのだと思われた。

 当然ながらラーゼリア王国側からの攻撃を受けるような事態になれば辺境伯家の私兵の大半は領地へと戻らせなければならないが、こちらとしても彼らの大軍を頼りにしなければ現宰相に対抗するのは難しいので、どうにか戦えていたこれまでとは比べ物にならない程の窮地へと陥ってしまう。


「……拙いな。ファルトルウの軍勢が抜ければルヴジェントは守りきれん」


 私からの報告を耳にした王子が、表情を厳しくしてそう呟く。

 彼の言葉通り、そうなれば一年以内にレールシェリエは陥落し、私も王子も処刑されるだろう。


「―――殿下。僭越ながら、臣より一つ提案したき儀がございます」


 意を決して、私は口を開く。

 提案すべきかをずっと逡巡していた策ではあるが、この期に及んではもう躊躇ってはいられない。


「お前の知略ならば面白い打開策が見つかるかもしれんな。聞かせてくれ」

「レージェス侯爵領の情報をラーゼリア王国に流しましょう」


 レージェス侯爵とは東の国境沿いに領地を持つ大貴族である。

 本来我が国の古くからの宿敵であるラーゼリア王国との国境は全て辺境伯家に任されていたのだが、二百年前の戦乱の際に結ばれた密約によって辺境伯家の領地の一部がラーゼリア側へと割譲されたことによって、レージェス家の領地はラーゼリア王国と接することとなっていた。

 また、元々はそれ程大きな貴族ではなかったレージェス家はクーデターの際に当時のベルファンシア公爵に協力したことによって領地が加増されており、現在彼らは南側から辺境伯家を牽制している。

 そんな侯爵家の総兵力や軍勢の配置などの情報をラーゼリア王国に流すということは、つまりそれらの情報を手に入れた彼らにこの国へと攻め込ませるということだ。

 彼らにとっても、現宰相と密約を結んで事後に土地を割譲させるのと、内乱状態のベルフェリート王国に攻め込んで勝利を収めるのとであれば後者の方が得る利が大きい。

 過去にも密約を結んだことがあったために関係は然程険悪ではないとはいえ、元々両国は長年に渡り対立を繰り返してきた敵国同士であるため、侯爵家の領地が手薄であるという情報を得れば間違いなく兵を動かすだろう。

 そうなれば現宰相とラーゼリア王国との交渉は破綻し、現宰相側と私達、そしてラーゼリア軍との三つ巴の形勢となる。


「ラーゼリアはどれくらい兵を動員する?」

「恐らくは三十万、最大でも四十万といったところでしょう」


 やや迂遠な表現をしたが、その内容を正確に理解したらしい王子に尋ねられ、私は事前に計算していた数字を回答する。

 あちらの動員可能な総兵力も我が国とそう変わらないし、周囲に対する備えなどもせねばならないことを考えればベルフェリート国内にまで送り込めるのはその程度が限度だろう。

 そして、三十万程度であれば私達や現宰相の陣営と比べて突出して多過ぎるということもなく、三つ巴で均衡が取れた状態になるので傾き掛けていた天秤は元へと戻ることになる。

 そもそもそれくらいの兵力ではベルフェリート王国全土を占領することは不可能であるし、もし本気でこの国を滅ぼして併合しようとするならば数年がかりの準備をしなければならず、その頃には内乱が集結しこちら側の態勢も整っている可能性が高いにもかかわらず悠長に数年も準備を続けはしないであろうし、本当にしたならばそれはそれで当面のラーゼリア軍からの脅威が薄れるのでやはり損はしない。

 一つ問題があるとすればそれだけの軍勢に纏まって行動されると厄介であることだが、すぐに三十万を集められるはずもないので先にある程度の軍勢で攻め込んでから断続的に後続を送り込む形になるだろうし、そうであればあちらも兵力が分散することになるので大丈夫であるはずだ。

 万が一先に三十万を国内で集めてから攻め込もうとしたのならば、こちらから工作を仕掛けて集結を妨害すればいい。


「軍議には掛けられんが、さすがに俺だけで即決はしかねるな。ファルトルウを呼ぶ。サフィーナ、ここに座れ」


 そう言った彼が鐘を鳴らすと然程間を置かずに侍女が室内へと入り、王子からの命を受け、また廊下へと去っていく。

 私は王子が椅子を引いた彼の右隣に座って少し待つと、外から扉が開かれルウの小さな身体が姿を現した。


「おはよう、サフィーナ、レオン」

「おはようございます。急にお呼び立てすることとなってしまい申し訳ありません」

「……どうしたの?」

「俺達でしか決められない事案がある。ひとまず座れ」


 不思議そうに私の方を見て首を傾げるルウに、王子が逆側の椅子を引いて席を勧める。

 しかし、それを無視した彼は私の右隣の椅子を自分で引くとそこにちょこんと腰を下ろす。


「サフィーナ、説明は任せた」

「畏まりました。現ベルファンシア公爵がラーゼリア王国の貴族と接触を持った模様です。恐らく、辺境伯様の領地を攻撃させてルウの率いてきた軍勢を退却させることが狙いかと思われますわ」


 そう耳にしても無表情を崩さないまま、こちらをじっと見上げるルウ。

 そんな彼に対し、私はなおも言葉を続ける。


「もちろん辺境伯様を見捨てる訳には参りませんが、かといって辺境伯家の軍勢が退けば戦線を支えることは不可能です。そこで、いささか道義には反しますが……ラーゼリア王国へとレージェス侯爵領に関する情報を流すことを提案させていただきました」


 敵国の軍勢をわざと招き入れるというのは、言うまでもなくこの国の貴族としての正義にもとる策である。

 こちらが勝つことが出来れば特に問題は無いが、万が一ラーゼリアが勝利を収めることとなれば私は国を売り渡した人間として後世まで永遠に罵られ続けるだろう。

 故にこれまでは献策することを躊躇っていたのだが、こうなればそれでも構わなかった。

 いずれにせよ、このまま傍観していては現宰相とラーゼリア王国とが手を結んでしまい私達は敗れ去るのだ。

 その時には王子もルウも捕らえられて処刑されることになるし、密偵であるクララは上手く逃げ切れるかもしれないが、私の侍従であるカルロもまた命を落としているはずだ。

 そうであるならば、いっそ他の軍勢を引きずり込んで盤面を振り出しに戻してしまえばいい。

 転生してから出逢い、親交を結んだ彼らが命を落とすのを黙って見ていることなど私には出来ない。

 たとえ正義にもとろうとも、貴族の誇りに反しようとも、それで救うことが出来るならばどんなことをしても絶対に私は大軍に押し潰されるだろう未来を変え、言葉を交わし合った友人達を護り抜いてみせる。

 何の因果かもう一度得ることが出来たこの命がある限り、私はもう誰一人として大切な人を死なせはしない。


「名案だとは思うが、さすがに俺だけで独断はしかねてな。お前の意見を聞きたい」

「……それだと、私兵のほとんど全軍を戻さなきゃいけなくなる」

「辺境伯家は東側の国境沿いだけでなく、西側にも大量に有事の際のための拠点を作っておられると伺っております。ラーゼリア軍は一度は我が国側からの侵攻を試みるでしょうが、それを撃退すれば諦めて逆徒達と衝突し始めるかと愚考致しますわ」


 現宰相の腹心の一人であるレージェス侯爵の領地を突破した時点で彼らは敵対関係に陥り、そうなれば当然こちらに対する圧力も減ることになる。

 あちらが争って戦力を減らしてくれれば、それだけ私達にとって有利になるだろう。

 いずれにせよ辺境伯家の兵力を戻らせなければならないならば、よりこちらへの圧力が少なくなる手段を選んだ方がよい。


「分かった。皆に戻る準備はさせておく」

「ありがとうございます。では、ルウが領地に戻り次第実行に移せるよう、早速手配を致しておきますわ」

「決まりだな。頼んだぞ、ファルトルウ、サフィーナ」


 こうして密談は終わり、現宰相とラーゼリア王国を離間させることが決まった。



 そしてしばらくの後部屋を退出した私は、三階にある自らの居室へと戻る。

 カルロが開けてくれた扉を潜り中に入ると、踵の部分が高く作られた赤い靴を脱ぐ。

 このところは戦場に出ることが多かったので底の厚い乗馬靴ばかり履いており、こうしてハイヒールを履くのは随分と久々だった。

 貴族の女性が履くという関係上、履き手に負担が掛からないよう踵だけでなく爪先の側も高くなるように靴底が厚く作られているので、履き心地はそれ程換わらない。

 脱ぎ終えた私はそれを揃えると柔らかな絨毯へと上り、クララの部屋の扉を叩いて彼を呼ぶ。

 すると、内側から扉が開かれまるで少女のような美しい容姿をした彼が姿を現した。

 何かしらの任務を言い渡すことは既に伝えてあったためその間に出立する準備を整えていたのか、その細身の身体には私がデザインした服ではなく、この国の平民の間で一般的に着られている衣服であるチュニックが纏われている。

 男女を問わず広く着られているそれに身を包んだ彼は普段とは違う仕草や雰囲気なども含めて美しい町娘のように見え、彼の密偵としての変装能力の片鱗が見受けられた。


「お帰り、お嬢様。どうだった?」

「ええ、殿下よりお許しはいただいたわ。クララ、レージェス侯爵家領に関する情報をなるべく詳細に調査して頂戴。重要な調査だから出来れば貴方一人で、それが無理でも可能な限りの少数で調査した事実が洩れないようにお願い」


 言うまでもないことであるが、情報を流すのはルウが率いる辺境伯家の私兵達の準備が終わり、領地へと戻ってからでなければならない。

 現宰相とラーゼリア王国側との交渉自体はまだ始まったばかりなのだから、今から調査を始め、その結果を持ったクララが戻ってきてからでも十分に間に合うはずだ。


「まあ、それくらいなら俺一人で出来るよ。そう時間を掛けずに戻れると思う」

「ありがとう。頼りにしているわ。きっと無事に戻ってきてね」

「俺はお嬢様のために働けたら幸せだよ。それより、お嬢様こそあまり無理はしないでね。最近は働き過ぎてる気がして見てて不安だよ」

「これくらいなら大丈夫よ。心配させてごめんなさい」

「ならいいけど……。それじゃ、行ってくるね」


 元々日本ではOLとして働いていたので書類仕事は嫌いではないし、何よりもクララも含めて周囲の人々の命が懸かっているとなれば投げ出す訳にはいかない。

 クララを少しでも安心させようと笑顔で言葉を返すと、私は彼を送り出した。

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