ex.5 確乎不抜
学園の寮に用意された居室の執務机に向かい、積み上げられた書類を片付けていく。
その内訳は領地の運営に関するものから学園の講師としてのもの、また王宮の儀礼に関するものにまで多岐に上り、毎日膨大な数がこの部屋に届けられる。
そのため、いつしか室内は書類や研究のための書籍などで埋め尽くされているのが日常となっていた。
私の裁可を必要とするものばかりではなく、目を通すだけでよいものも多いため片付けるにはそれ程時間を要する訳ではないが、このような時であっても忙しいには違いが無い。
とはいえ、現在という時に限って言うならば部屋の中は普段と比べて閑散としていると表現していい程に片付いていた。
研究に使っていた書物や書類などを全て処分し、既にここには領地の運営に関する書類しか置かれていないためだ。
先王の崩御を機として、この国には二百年程前に起きたベルファンシア公爵とエクラール公爵家の間の争い以来となる大規模な戦乱が起きていた。
突如としてベルファンシア家の私兵にベルフェリート王国の第一王位継承者である王太子殿下が襲撃され、窮地に陥って自ら剣を振るわれた殿下はかろうじて王宮を脱出され、そのまま南方の大都市であるレールシェリエに逃れられたのだ。
第四騎士団と水軍を掌握されて宰相と対峙する姿勢を示した殿下に呼応して各地でヴェルトリージュ辺境伯を中心とする諸侯が挙兵。
それによって、殿下を中心として進められていた実権を奪還する計画の姿が明らかになっていた。
私個人としても、心情は殿下の側にあった。
趣味で様々な事柄について調べているうちにいつしか宮廷の儀礼などを任されることとなり、ベルファンシア公爵とも顔を合わせることがそれなりにあったが、元々私が当主を務めているベルクール伯爵家は公爵と近い訳ではない。
むしろ、極力偏向の無い中立的な内容を学生達に教えようとする中で何度も公爵家からの圧力を受けていたし、関係は悪いとさえ言えるだろう。
歴史という面で考えても、いろいろな前回の戦乱で勝利して以来、この国の宰相位を歴代当主の間で世襲し続けているベルファンシア公爵家に支配権の正当性があるとは思えなかった。
二百年前に突如として王都を私兵で制圧して当時宰相補佐として国政の実権を握っていたダリア・ロートリベスタ侯爵を処刑、王位にあったフォルクス陛下を幽閉し、それに憤慨して挙兵したエルティーユ・エクラール公爵をも前回の戦乱で勝利して処刑したベルファンシア公爵家はそれ以来王家すらも蔑ろにし政権を恣にしている。
政権の正当性を損なうことを恐れてその事実を学園で教えることは禁止されており、世に流通する歴史書の内容からも抹消されているために家庭教師を招いて子息を教育している一部の大貴族を除いてはそうした歴史を知らない貴族もかなり多いが、それを知っている者としては到底現状のような体制を容認することなど出来ない。
出来るならば適当な理由を使って領地に戻り、すぐにでも兵を挙げるための準備をしたいところだったが、学生達への外出許可が下りた今も私達成人した貴族への城外に出る許可は下りていなかった。
正確には公爵に近い者達には既に許可が下りているのだが、以前からの対立のためか私には依然として許可が出ていない。
そのため、少し前から密かに領地に命令を送り軍備を整えさせつつ、機会を窺っているところだった。
王都を制圧すると同時にロートリベスタ侯爵本人と共にその派閥に属す貴族の大半までもを粛清し、それにより宙に浮くことになった土地の大半を自らの領地に組み込んだベルファンシア公爵家の持つ軍事力は強大であり、それに次ぐ実力を持っているヴェルトリージュ辺境伯家と比してなお大きく突出している。
およそ平均的な兵力と領地しか持たない私が挙兵するには注意深く機を待たなければならず、逸る気持ちを抑えて領地で私兵の編成が完了する時を待っていた。
その間にも、情勢を見極めるために情報を可能な限り集めてきた中で、最も気に掛かるのは一人の少女の存在である。
つい先日まで私が担当する教室の生徒として、その並外れた才覚を存分に見せていたオーロヴィア家の息女、サフィーナ・オーロヴィア。
入学以前から既にその明晰さと美貌の噂が王都にまで届いていた少女に対し私も密かに興味を抱いていたのだが、実際に目の当たりにした彼女は噂以上の才覚の持ち主だった。
礼節的に誰よりも完璧な立ち振る舞いを見せ、講義の中で彼女に何かを問い掛ければ、それがどれ程に専門的な内容であっても自らの見識を加えて答えを返してくる。
研究に没頭するうちに対等に語り合える相手がいつしかいなくなってしまった私にとって、どんな話題であっても返答に窮することなく会話することが出来るサフィーナ嬢と言葉を交えることは、気付いた時には何よりの楽しみとなっていた。
彼女が返した答えを耳にして講義の最中にもかかわらず思わず愉しさのために笑みを浮かべるようになり、今まで必要が無い限り生徒に話し掛けたことなど一度も無かったが、図書館で彼女の姿を見かけた際にはこれといった用件が無いにもかかわらず気がつくとその小さな肩に手を置いて声を掛けていた。
その際に雪のように白い頬を紅色に染めて恥らっている仕草は普段の凛々しくも知性に満ちた彼女の様子とは大きく異なっており、普段は非の付け所の無い彼女がふと見せた歳相応の少女らしさに、引き込まれるような名状し難い気分に陥った私。
それ以来、講義の最中には着席しているサフィーナ嬢の姿に目線が向くことが増え、研究や執務の間でもふとした拍子に彼女のことを思い出すようになった。
そんな彼女は第三騎士団ですら持て余されて仕方なく学園の厩舎に入れられていた悍馬を奪って見張りの兵達の間を強行突破するという派手な演出で王都を出奔すると、現在は殿下の下で兵を率いて活躍している。
情勢を報告させている者から聞く内容の大半は彼女の活躍であり、寡兵で大軍を撃破し続けるサフィーナ嬢の勇名は既に国中に響き渡っているようだ。
初めから博識だったサフィーナ嬢に対して私が新たに教えられたものなどせいぜい史学の一部程度だった(何故か直近二百年程の国史にはあまり詳しくなかったのだ)とはいえ、彼女は歴とした私の生徒である。
彼女の活躍を耳にする度、生徒が正しい秩序のために戦っているというのに、学園の中で逼塞している我が身を省みて自嘲的な気分に陥っていた。
だが、数日前に遂に軍備が整ったという報告が密かに届けられた。
後は領地に戻ることが出来れば事を起こせるが、未だ私へ下された待機指示は解かれていないし、城門を出ようとすれば公爵家の私兵に拘束されることは間違いないだろう。
そうであるからには、サフィーナ嬢がやってみせたように、私も何らかの手段で強行突破する他ないし、するならば宰相に動揺を与えられるようななるべく派手な手段を取るのが最もよい。
遠方にまで事態が伝わる程に派手であり、かつ公爵側を混乱させられる方法と考えた場合、私が思い浮かんだのは城壁の破壊であり、私はそのための準備を密かに始める。
一連の経緯と共に史書からは抹消されているために、この事実は恐らく現在では私しか把握していないと思われるが、王都の東門は二百年前の乱の際に一度取り外されている。
両公爵家による争いの中で、ベルファンシア公爵家側の要衝の一つが落城寸前に陥ったことがあり、その際に緊急的な修理のために取り外された王都の門が流用されたそうなのだ。
元々王都はこの地を城塞として籠城戦を行うことを前提に作られていないので、門を外したとしても公爵としては特に問題は無かったのだろう。
王家の直轄地である王都の門を勝手に取り外して自領のために用いるという行いそのものが王家を蔑ろにする行いであり、裏を返せばこの国の実権が既に公爵家に移っていたことを示しているが、外された門の代わりには木組みで急造の門が作られ、それ以来改めて作り直された形跡は無い。
つまり、現在でも王都の東門の扉は木組みの脆弱なものであり、鉄製なのは表面のみで内部は空洞になっている可能性が極めて高いのだ。
昼夜を問わず、都市の城門は極めて危急の事態が起きない限り閉ざされることはなく出入りが自由である。
両公爵の戦いが幕を下ろして以来戦乱が無く平和が続いてきたこの国では、二百年間に渡って城壁が閉ざされたことがなく、それ故に誰にも気付かれることが無かったのだと思われる。
私がこの事実に気付いたのは数年前のことであり、確かめるために密かに四つの門の扉を指で叩いてみたことがあるが、明らかに返ってくる感触や音が異なっていたのでほぼ間違いない。
さすがに鉄で出来た門を狙うにはいささか無理があるので、狙うならばこの東門しかないだろう。
城外に出ることを禁じられ、事実上の軟禁状態に置かれてからも、私はそれまでと変わらず研究のみに心を注ぐ姿を意図的に見せつけてきた。
私が様々な事柄の研究を趣味としていることはいつしか広く知れ渡っていたので、そのためだと言えば巨大な鉄塊を購入しても特に咎められることはなく、準備を続けることが出来た。
決行は今夜を予定しているので、私は資料を取りに向かうと説明して学園の寮から王都の中心区にあるベルクール伯爵家代々の屋敷へと移る。
前回学園の外に出たのはもうかなり前のことになるが、久々に目にした街並みはこのような情勢にもかかわらずとても賑わっており、特に以前と違う点などは見受けられない。
学園の門を出た私は、時折第三騎士団の騎士達とすれ違いつつ、学園の講師として招かれて以来片手で数えられる程度しか帰っていない屋敷を目指す。
彼らの姿を目にし、サフィーナ嬢が実家の陰謀に巻き込まれて暗殺されかけていた同じ教室の女子生徒を救っていたことをふと思い出した。
賑わいに変わりは無いが、とはいえ大通りを歩いているのは従者がほとんどであり、普段であれば貴族の姿も多く見られるのだがこのような時であるためか同じ貴族とすれ違うことはあまり無い。
私は学園に残っていた従者全員と共に石畳の上を歩き、屋敷のある方向へと歩いていく。
商店のある区域を抜けて居住区の辺りに差し掛かると、立ち並ぶ諸侯の屋敷が多く視界に入るが、殿下の側につき公爵に敵対している貴族の屋敷は公爵家の私兵によって制圧されているようで、そういった屋敷の門の前には公爵家の意匠の鎧を纏った兵が立哨していた。
そうした光景を眺めながらも進んでいくと、程なく目的地であるベルクール伯爵家の屋敷へと辿り着く。
言うまでもなく門の両側にはベルクール家の鎧を纏った兵が立っており、彼らは私の姿を認めるとその場で礼をした。
彼らの手によって開かれた門を潜り抜け、屋敷を囲う塀の内側へと入る私。
花などが植えられた庭を目にするのも随分と久々のことになるが、私は園芸などに興味がある訳ではないので特に関知したことがある訳ではないものの、庭師によって維持されていた花壇には以前見た際と全く同じように色とりどりの花が咲き誇っていた。
それらを横目にしつつ建物の方向へと足を進めていくと、数段の階段を昇って玄関へと入る。
ずっと訪れていなかった内部はやはり屋敷で働く侍女達の手によって維持され、前回帰宅した時と変わりのない様子を保っていた。
ともあれ、久々の帰宅であるとはいえゆっくりと休んでいる時間は無い。
私が王都を脱出して領地で兵を起こせば、先程目にしてきたのと同じようにこの屋敷も公爵家の私兵に占拠されることになるのだ。
その前に、今日の夜までの半日で大量にある書類を全て処分し、公爵の利となる情報を何一つとして渡さないようにしておかなければならない。
既に寮の研究室と私室にあった書類は全て処分し、処分する訳にはいかないような貴重な書物に関しては密かに図書館の棚の中に紛れ込ませたため、後はここにある書類の類を処分するだけである。
真っ直ぐに奥へと進んだ私は右手にある螺旋階段を昇り、そのまま三階にある執務室を目指す。
情報の隠蔽という目的を果たすならば全てを纏めて暖炉で焼いてしまうのが最も効率的であるが、しかしそれをしてしまうと領地の運営が一時的にであれ受け継がれず、領民の生活に悪影響を与えることになる。
領地の運営に関する情報は公爵に渡っても特に問題は無いので、執務室に着いた私はここに残っていた書類を一枚一枚目を通して確かめ、残してよいものと処分するものとを判別していく。
今日はまだ朝から何も口にしていないが、まだ当分は食事を取ることが出来そうになかった。
やがて書類の分類を終え、部屋の暖炉に火を入れた私は薪の上で燃え盛る炎の中に処分すべき書類を全て入れる。
火はすぐに書類へと燃え移り、そう待たないうちに形と色を失って灰となっていく。
全てが灰となって燃え尽きたことを確認した私は、火を消すために器に入れられていた灰を振り掛けて炎を消す。
一連の処分によっていくつか駄目になってしまった研究があることに関しては惜しくないと言えば嘘になるが、おおよその部分に関しては可能な限り記憶しておいたので、乱が終結した後にまた取り掛かることが可能だろう。
ふと窓の外を眺めると、既に日が落ちかけており、彩やかに青かった空は既に濃紺へと色を変えつつあった。
同時に空腹を覚えた私は、近くにあった紐を引いて侍女を呼び、夕食の準備をするように伝える。
それと共に、使用人達にも同時に夕食を取ることを命じた。
通常であれば一日の職務を終えてから食事を取ることになるために使用人が食事をする時間は貴族よりもかなり遅くなるのだが、王都から脱出することを考えれば彼らにも今のうちに食事をさせておかなければ到底間に合わない。
礼をした侍女が立ち去ると、私は他の者を呼び出して計画の実行のための準備を始めさせる。
蕎麦粥の中に肉や野菜などの食材を入れて蕃茄と香辛料でやや辛めに味つけをしたシーデンという料理を食した私は、食堂を後にして屋敷の外に出る。
我がベルクール家は中級程度の規模の家であるので、馬小屋にはある程度の数の馬があらかじめ揃っている。
何台か馬車を編成して、使用人全員を領地に連れていくつもりだった。
道中の食料や、屋敷にあった少数ながら捨てる訳にはいかない希少な書物を馬車の荷台に載せ、侍女達を乗り込ませる。
賊の類と遭遇する可能性もあり、当然第三騎士団の護衛を受けられないため、兵だけでなく男の使用人にも鎧と剣を手渡して武装させ、馬に乗せた。
そして先日手に入れた鉄塊を上に乗せた台車に結んだ縄を空いている何頭かの馬に繋げば準備が終わる。
自分も数年ぶりに騎乗すると、私兵と使用人を合わせて百騎程と、そして七台の馬車と共に開け放った門から外に出た。
少しでも私の仕業であることの発覚を遅らせるために門を閉め直すと、先に向かわせた台車を引いた馬の後を追って王都の大通りを東へと進む。
いくらこちらも武装しているとはいえ、万が一精鋭であり王都の治安維持を担当する第三騎士団と戦闘になれば勝ち目は無い。
あらかじめ巡回の間隔を探っておき、彼らと遭遇しない時間を狙っていた。
巡回の騎士達の姿もなく、無人の通りを進んでいくと、前方で王都中に響き渡るだろう轟音が聞こえる。
空に星と月が輝き、あちこちに篝火の炎が灯されているとはいえ、時刻は夜なので辺りは薄暗く先を見渡せる距離も限られている。
普段であれば今の位置からでも視認できる城門の様子を確認することは出来ないが、恐らく無事破壊に成功したのだろう。
侍女達に揺れに備えるように伝えると、私は一行に加速するように命じると自らも馬を駆らせる。
しばらく走ると門が近付いて様子が分かるようになるが、鉄塊が衝突した扉は見事に粉々になっていた。
鉄塊が扉を突き抜け、その勢いのまま外へと転がっていったのだ。
本来の扉は極めて厚いのでこの程度で壊れたりすることは無いが、やはりきちんと作り直されずに長らく放置されたままであったためだと思われる。
通行が可能となった城門へと高速で侵入する馬車の荷台に馬を御していた私兵の男が飛び込むようにして入り、未だ混乱している公爵家の私兵達の間を通り抜けて城外へと出る私達。
高い城壁の外へと出ると遮る物の無くなった風が馬上の私の頬を打ちつけ、それと共に初めて味わう高揚感とも例えるべき奇妙な感情が心の内から湧き上がる。
奇しくもサフィーナ嬢が出奔した際と同じ東門を、同じように馬で突破したことに、彼女もこのような気分だったのだろうかと考えながら私はなおも進み、自らの領地を目指して駆け続けた。




