19. 傾覇
左右に広がっている大麦畑を眺めながら、ヴァトラの背に揺られて街道を南へと進む。
最近は各地をまた転戦していた私達は、久々にレールシェリエへと戻ろうとしていた。
「疲れてるでしょ、大丈夫? 後は僕がやっておくから、サフィーナちゃんは休んでてもいいよ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私は大丈夫ですわ。ユーフェル様こそ、ご無理はなさらずにお休みください」
「僕は平気だよ。サフィーナちゃんが起きてるのに、僕だけ眠っちゃう訳にはいかないしね」
副官として私の隣に馬を並べているユーフェルと言葉を交わす私。
馬に乗って移動を続ければそれ相応に身体には疲労が溜まっていく。
私は前世から軍勢を率いていたのでもう慣れているが、こうして従軍すること自体が初めてである彼にはいささか大変だろう。
気遣ってくれるのはありがたいが、あまり無理をされても困るので逆に休息を勧めておく。
ほとんどの貴族は身体を鍛えたりなどしていないので、行軍の最中であっても疲労が溜まり休まなければならなくなることはよくある。
そのために、何頭かの馬の背の上に固定する形の寝袋のようなものが作られ、昔から使われているのだ。
指揮を執るものが一人はいなくてはまずいので私とユーフェルが同時に休息を取ることは出来ないが、私が起きているのでその間に彼が休めばいい。
街道の両側では大麦が育てられており、穂が風に流れる度に私が纏うクララから貰ったドレスが揺れる。
この国では小麦と並んで大麦も主要な穀物の一つであり、主食として盛んに食されていた。
小麦が挽いてパンにして食べられるのに対し大麦は脱穀したものを米のように炊いて食べられており、粥のようにして食される蕎麦と合わせてこの三つがベルフェリート王国の主食となっていて、その日のメニューに合わせて何を主食とするかが決められることになる。
戦場で兵糧として食されるのは、調理法故に少量の穀物からでもより嵩を多く用意出来ることと、味つけが容易であることから、蕎麦が用いられることが多い。
ちなみに、米は少なくともこの国や交流のある周辺諸国には存在していないようで、転生して以来一度も口にしたことがなかった。
私自身この世界はどれくらいの広さなのかを把握出来ていないので、もしかするとどこかには米が食されている地域もあるかもしれないが。
七百年に渡り大規模な戦乱が起きることなく発展を続けてきたこの国では貴族の領地と領地の間、また都市と都市の間には石畳で平らに舗装された街道が張り巡らされており、行軍の際にはその上を通れば道に迷う心配はなかった。
行軍を続けていくとやがてルヴジェントの街並みが見え、そちらの方向へと進んでいく。
一度市街を通り抜けて執政府の城壁の中に入った私達は、そこに作られている埠頭からジャンク型の輸送船へと乗り込む。
そして、もうすっかり乗り慣れた輸送船を用いてルヴジェントからレールシェリエにまで水上を下った私達は、木製の埠頭の上に降り立つと、そのまま門を潜り街並みの中央を走る大通りを進んで執政府へと向かう。
そんな私達を通りの左右に集まった市民が迎えてくれ、喝采を浴びせてくれる。
行軍と交戦によって疲れを溜めて戻ってきた兵達には、この賞賛が何よりの労いだろう。
やがて有事の際以外は常に開け放たれている執政府の城門を通り抜けて、その内側にある広場へと辿り着く。
元来の軍勢と、連れてきた捕虜を合わせて三万人以上が一箇所に集まってもなお、未だ全体から見れば一部しか用いられていない。
「全軍解散。私の麾下の兵は、二日の休日を与えます」
全軍が停止すると、私は共に戦った諸侯に対して解散を伝え、同時に私の指揮下にある五千の兵に対し休暇を告げる。
それを受けて各軍勢は自らの確保した捕虜を連れて四方に散らばっていく。
この国においては、貴族が私兵を用いて得た捕虜はその貴族にどうするかの選択権がある。
土地を与えて領民として自らの領地に定住させてもよいし、自らの私兵として軍勢に組み入れてもよいし、或いは何かしらのものを対価として王家に献上することも出来る。
当然ながら領民が減ればそれだけ貴族の領地運営に及ぶ支障も大きくなるので、金銭なり利権なりと引き換えに相手の貴族に身柄を返すという選択肢もあった。
私個人としては、領地を持たない身では五千という兵力は維持出来るぎりぎりの数字であるし、これ以上麾下の兵を増やす気は無い。
捕虜の数が増えればその分だけ必要な食料や経費も増大することになるのだが、幸いにも南方地域の中心都市であるここレールシェリエには内戦の最中であっても依然続けられている南方諸国との貿易による莫大な利益が流れ込んでいるために、財政的な問題は全く出ていなかった。
貴族への税が存在しないこの国において、南方貿易は古来より王家の財政を支えてきており、現在も戦費はそこから捻出されている。
軍勢が解散して周囲から兵の姿が無くなると、私もカルロとユーフェルと共に馬小屋に行きヴァトラを預け、それから執政府の建物の方へと歩いていく。
「お疲れ様でした、ユーフェル様。貴方のお力にはとても助けられましたわ」
「サフィーナちゃんこそ、学問だけじゃなくて戦いも凄かったんだね。馬を駆けさせてる君の横顔には思わず見蕩れちゃったよ」
ここに勤めるメイドさん達が隅で掃除をしているのを眺めながら広大なホールを通り抜け、そのような会話を交わしつつ居室のある三階を目指す私達。
剣術の腕前はそれ程でもないようだが、しかし指揮能力に関してはずば抜けたものを持っており、彼に歩兵を任せられたおかげで私は存分に騎兵の指揮に集中することが出来たのだ。
「そういえば、王都の城門が何者かに破壊されたという噂はお聞きになられていますか?」
噂とは言っても、クララの配下の密偵がわざわざ知らせに来た情報なのでその内容は間違いなく事実である。
誰が何のために行ったのかについてはまだ王都を支配している現宰相の側でも把握出来ていないようだが、しかしベルフェリート王国の七百年の歴史の中で一度たりとも破られたことのなかった王都の東門が壊されたということで、王宮にいる者達はもちろん市民までも含めた大騒ぎになっているそうだ。
有事であるために今は夜間は王都の城門は閉ざされているそうなのだが、深夜に突如として轟音が響き、急いで王都の治安維持の役割を果たす第三騎士団が事態の把握に努めたところ、分厚い鉄の扉がいくつもの破片に砕け散っているのが見つかったらしい。
現宰相側が把握していないものをこちらが分かる訳もないが、少なくとも私達の側の工作ではないことは確かである。
「うん。僕達学生への待機命令はもう解かれてるけど、まだ爵位持ちの人達には王都を出る許可が出てないみたいなんだ」
「挙兵して殿下の御許に参じられることを防ぐためでしょうか」
「多分ね。さすがに全員閉じ込めちゃうと問題が出ちゃうから現宰相に近い人達は官僚として普通に出入りしてるけど、そうじゃない人で偶然王都にいた人はまだ領地に帰れてない。だから強引に帰ったんじゃないかな」
ユーフェルはかなり王宮の内実に通じているようだが、彼が教えてくれる情報の内容はクララが調べてくるそれとは重なっていない。
密偵であるクララは現宰相から下された公式の命令の内容や、軍勢の陣容などを調べるのは得意だが、貴族同士の対立関係などといったもっと個人的なものを手に入れるのには向いていない。
まだ密偵部隊自体が発足したばかりで余裕が全く無く、長期の潜入任務を与えることなど到底不可能であるためだ。
対して、そういった方面の情報を豊富に持っているのがユーフェルなので、彼の助言にはこれから何かと助けられることになりそうだった。
「だとすれば、近いうちにどなたがなされたのかは判明しそうですね。その方には共に殿下をお支えする意思がおありであると考えてよいでしょう」
「一体あんな分厚い門をどうやって壊したのかはさっぱり分からないけどね……。まるで精霊がやったみたいだ」
移動を制限されていた中で誰がいなくなっているのかを確かめればいいだけなので、数日中には誰の手によるものなのかは判明するだろう。
しかし、ユーフェルの言う通り重要なのは誰がやったかではなくどうやってやったかだろう。
いくら厚さ数十センチに及ぶ鉄の塊であろうとも、それこそ戦車砲でも作れば壊すことは出来るが、そういった現代的な知識も無しにどのようにして破壊したのかは現場を見ていないので分からない。
だが、それがどのような方法なのかにもよるが、もしかすると攻城の際に役に立つかもしれないので、ぜひ実行した人物とは接触しておきたかった。
私達は階段を上りきって三階へと到着し、廊下へと突き当たったところで立ち止まり、その場で向かい合う。
王立学園の寮の時とは異なりここでは隣室同士ではないので、私がここを右に、彼が左へ行って別れる形になる。
廊下はずっと奥にまで続いているが、遠くに巡回のメイドの後ろ姿が見える以外に人影は無かった。
「力をお貸しいただき、感謝申し上げます。ユーフェル様も、ゆるりとお休みくださいませ」
「少しでもサフィーナちゃんの力になれたなら、凄く嬉しいよ。今度、また一緒に買い物に行きたいな」
「ええ、またの機会にぜひ。……それから、ヴィラルド伯爵との交渉は順調ですわ。近いうちに挙兵していただけそうです。これも、ユーフェル様のおかげです」
「僕はただ知ってることを伝えただけだよ。凄いのはそれを形に出来るサフィーナちゃんじゃないかな」
交渉というよりも、説得と表現するべきだろうか。
先日ユーフェルに話を聞いてから早速使者を送り、交渉を続けていたのだ。
一体何が原因で関係が悪化したのかは分からないが、現宰相に対する不満というよりもむしろ身の危険を感じているようで、あちらとの間に既に話はほとんど纏まっている。
これに関しては私ではなく、ユーフェルの功績だろう。
そしてその場で彼と別れた私は、右側へと歩いて自室へと向かった。




