ex.4 盈々一水
窓越しに注ぐ朝日を浴びながら学園の侍女達を指揮して必要なものを纏め、学園によって用意された馬車へと積み込んでいく。
相当な容量があるにもかかわらず、ほとんど隙間無く荷物で埋め尽くされた荷台。
全体として見た場合この部屋に置いていく物の方が多いくらいであるが、しかし貴族の移動だけあってそれでもなお荷物はかなりの量に上っていた。
先王陛下の崩御、そしてそれをきっかけとしたような動乱が始まってから一月程が過ぎて学園の休業が正式に決まり、それに伴い学園の生徒に布告されていた待機令が解除されたことによって実家に戻ることが出来るようになったのだ。
無論、このような不安定な状況であるのだから我が子を手元に置いておきたいと考える貴族の方々は多いようで、先程護送の準備をしている騎士の一人が愚痴を零していたが、人手不足のために本来担当している第三騎士団だけでなく第五騎士団までもが駆り出されているらしい。
私がお仕えしているユーフェル・アヴェイン様もそれは例外ではなく、現在は実家であるアヴェイン男爵家領へと戻るための支度の途中だった。
持っていくものを一通り部屋から運び出し終えたので、積み込みの状況を確認するために他の生徒の方々の馬車が多数集まり賑わう広場へと下りた私は、不意に振り返って寮の建物を見上げる。
ユーフェル様と共にこの学園に入り滞在したのはそう長い期間ではなかったが、しかし脳裏には様々な記憶が呼び起こされる。
そして、中でも特に印象に残っているのは、寮の隣室に入居するや我が主の心を奪い、最後に大騒動と共に去っていった一人の令嬢だった。
私の主であるユーフェル様は好色なお方である。
まだ若年でいらっしゃりながらも数多の令嬢や婦人との恋愛を楽しまれているが、それらは全て互いに一種の遊戯であると割り切った上での関係であり、相手に想いを寄せてのものではない。
そんな交わりを続けてこられた主の心を、初めて本当の意味で射抜いたのがオーロヴィア家の息女であるサフィーナ・オーロヴィア様だった。
学園への入学前から既に頭脳明晰、容姿端麗と評判高く、遠く王都にまで聞こえていた彼女が寮の隣室に入ることをご存知になり、興味を持たれたのがきっかけだっただろうか。
先方が入居するやすぐさま訪ねていったユーフェル様は、その場に居合わせた訳ではないので詳しくは分からないがどうやら簡単にあしらわれてしまったらしく、部屋に戻ってこられた後も熱に浮かされたように呆然としておられた。
だが、それも無理はないだろう、優れた容姿と甘美な物腰を持っておられる主は、狙いをつけた異性を口説き落とすことに失敗した経験などこれまでに数える程しかなかったのだ。
お相手が歳上の方だったならばまだしも、まさか同年代の女性にご自身があしらわれるとは夢にも思っておられなかったらしい。
学園の授業が始まるまでの期間、何かと理由をつけて先方の部屋を訪ねるようになったのはその翌日からだった。
初めは負けず嫌いで絶対に口説き落としてみせようとでもお考えなのかと思ったが、それにしては熱意が尋常ではない。
それとなく尋ねてみたところ、どうも先方のことを本気で想われているようなのだ。
お二人共に非常に多忙であられる旦那様と奥方に代わり、養育係を任される形でユーフェル様には幼少の頃よりかれこれ十年程お仕えしてきたが、彼が本気で誰かに恋をするのは私の知る限りこれが初めてである。
色事に関しては百戦錬磨であるユーフェル様の心を奪うとは一体どのような方なのかという興味と、失礼だが本当に主に相応しい方なのだろうかという疑問が沸いたが、いざ授業が始まる日の朝にオーロヴィア様の姿を見た瞬間その疑問は氷解した。
腰近くまで伸ばされた髪はまるで本物の金で作られたように細く輝き、翠玉のように深みのある緑の中に思わず圧倒されそうになる程強い理性の光を宿した瞳に、降り積もったばかりの処女雪でさえも遠く及ばないくらいに純白の肌。
ただ美しいだけではなくそこに立っているだけで他人の耳目を惹きつけ、場の空気を支配してしまう存在感を纏い、老年の貴族の方もかくやという程に完璧な礼節を身につけている少女を実際に目にし、主が魅了された理由がよく理解出来た。
それだけでなく、授業が始まった初日の朝には会話を交わすために隣室の扉の前でオーロヴィア様が姿を見せるのを待っていた主だが、教室へと向かう道すがらで交わされた会話の中においても、彼女はその高い見識を垣間見せている。
男女を問わず、貴族同士が顔を合わせた際に交わされる会話といえば政治の話を除けば芸術や茶の話題が定番であり、ユーフェル様は会話を弾ませるためにそちらの方面の知識をかなり詳しく学ばれているのだが、にもかかわらず彼女は名前の出た作品や銘柄の全てに関してそれ以上に深く通じておられたのだ。
他にも王太子殿下とヴェルトリージュ家のご子息とが睨み合った際に平然と間に入り仲立ちをする度量や、高名な学者として名高いベルクール伯爵の授業を難なく理解する頭脳など、容姿だけでなく内面においても人並み外れたものをお持ちであることを知る。
物腰や口調も丁寧で淑やかであるためもしユーフェル様の奥方となっていただけるならばこの上ない方なのだが、先王陛下が崩御されると同時に飼育されていた馬を奪って学園を出奔し、この国の政権を担うベルファンシア公爵に敵対されてしまったのでそれは難しくなってしまった。
その上、そういった苦境を乗り越えたとしても学園にいた頃から主の口説きの言葉は全て受け流されてしまっていたし、どうやら殿下やヴェルトリージュ様も彼女に想いを抱いている好敵手であるようなので想いを成就させるのは厳しそうだった。
とはいえ幼少の頃よりお仕えし見守ってきた身としては主の恋の成就を願いたいところであるし、それが初恋であるというならばなおさらだ。
振り返るとちょうど最後の袋が積み込まれるところであり、荷台を縄で固定すると荷造りが終わり出発の準備が整う。
そのため、作業の終了を確認すると手伝ってもらった学園の侍女達に礼を述べ、ユーフェル様をお呼びするために再び寮へと戻る私。
時折すれ違う貴族のご子息方に礼をしつつ先程と同じ道順を逆に進み、渡されている鍵で扉を開けて室内に入った。
「準備が整いました、ユーフェル様」
「お疲れ様。それじゃ、帰ろうか。いろいろしなくちゃいけないこともあるしね」
玄関に足を踏み入れ、今しがた入ってきた扉を閉めた私がそう報告すると、自室から姿を見せた主からそう労われる。
以前は毎日のようにどなたかとの恋愛を楽しんでおられた彼だが、呆然と隣室から戻ってこられたあの日以降はきっぱりとそういったことがなくなっていた。
そのため、自室で寝起きされたユーフェル様は既に出立のために準備を整えており、すぐにでも学園を後に出来る状態である。
私は主が靴を履き終えたのを見計らって廊下への扉を開け、彼が通られると自らも外に出て再び鍵を閉めた。
王都を出立してから六日が過ぎ、第三騎士団の部隊に護衛されつつアヴェイン男爵家領へと辿り着いた私達は、そのまま数ヶ月ぶりの館へと入る。
庭に馬車を止めた私はここまでの護衛をしていただいた騎士の方々に休んでいただく手配を済ませると、そのまま男爵家に仕える侍女達を指揮して学園より持ち帰ってきた荷物を運び込む。
作業にはかなりの時間を要し、到着時にはまだ青々と広がっていた空が紅く染まりかけた頃にようやく終了した。
それを見計らったように休息を終え、馬車と共に帰路に発つ騎士団。
護衛をしていただいた恩義があるため、一晩休まれていくように勧めたのだが、何でも第三騎士団長様より可能な限りすぐ戻るようにと命じられているそうで、もうすぐ日が落ちるにもかかわらず行かれてしまった。
ともあれ、第三騎士団長様の命令であるならば引き止めることも出来ないため、彼らを見送って鉄の門に鍵を掛け、屋敷へと入る私。
荷下ろしの終了と騎士団の出立を報告するため、先に屋敷に入られていたユーフェル様の部屋へと向かい、扉を叩く。
中から許可する声が聞こえたので、私は入室の挨拶をしながらそっと扉を開いて中に入ると元通りに扉を閉め、礼をした。
「荷の積み下ろしと搬入が完了しました。同時に、第三騎士団の皆様も出立されました」
「まあ、こんな時だから戦力が分散しちゃうのは怖いだろうしね。だから兵が王都に集まるまで僕達の外出許可が出なかったんだろうし」
そして傍に立った私の報告を受け、寝台に身体を預けながら特に驚くような様子も見せずに頷くユーフェル様。
彼は一介の学生であられるが、今まで多くの女性と言葉を交わしているためにその中で得た様々な情報をご存知である。
きっと、私の知らないことを多く知っている彼にとってはそれを元にした予測の範囲内だったのだろう。
「ひとまず夕食の準備をお願い。そろそろお腹が空いたし、食堂でゆっくり話そうよ」
「すぐに厨房に手配させます。献立のご要望はおありでしょうか?」
「とりあえず料理人に任せるよ。軽めのもので、って言っておいて」
「畏まりました。必ず伝えます」
私はユーフェル様のご要望を確認するとそのまま礼をして二階にある彼の私室を退出し、階段を下りて一階にある厨房を目指す。
ずっと作業の指揮をしていて長時間何も食べていないので、私自身も空腹を感じつつ、厨房の扉に手を掛けた。
それから少しの時間が経ち、私が今日のうちに片付けておくべき屋敷内での仕事をあらかた終えると、ちょうど料理が完成する。
そして私は、食堂でユーフェル様と料理の皿が並べられた長机を共にしていた。
政略結婚にはよくあることと言ってしまえばそれまでだが、彼のご両親の仲は侍女である私が言うのもおこがましいがあまり良好ではない。
男爵様は官吏として多忙を極められているためにこの館には年に一度帰られるかどうかであり、奥方様は大都市に滞在して貴族の男性との恋愛を楽しまれているのでやはり特別な出来事が無い限りは帰ってこられないのだ。
男爵家との血縁の無い私がユーフェル様と食卓を共にすることなど本来は許されないのだが、まだ彼が幼かった頃に一人で食事をするのは嫌だと仰られて以来、屋敷にご両親がおられない日(つまりほぼ一年中だ)には夕食を共にするのが習慣のようになっていた。
「こうやって一緒に食べるのも久しぶりだよね、エルミィ」
厨房で焼かれたばかりの麺麭を口にしながら、表情に笑みを浮かべてそう口にされた彼。
主の希望であるので仕方がないとはいえ我ながら褒められた行いではないので、どう答えようかと束の間逡巡する。
だが、そんな私を待つことなくユーフェル様は再び口を開く。
「馬車の中でずっと考えてたけど、決めたよ。僕はサフィーナちゃんのために戦うことにする」
「オーロヴィア様のために?」
「うん。私情を優先させるのは貴族としては失格なのかもしれないけど、好きな人のために戦いたいと思ってさ。父さんや母さんには悪いけど、この家にはあまり思い入れも無いしね」
言い淀む気配さえなく告げられた言葉の内容はあまりにも重大で。
しかし、いつも通りのやや軽薄な口調とは裏腹に、それを口にされる彼の瞳と表情はとても真剣だった。
家族としての関係を築くことはおろか、物心がつかれて以来ご両親と顔を合わせたことすらもそれぞれ片手の指の数程しかないのだ。
男爵家に思い入れが無いと仰られる気持ちはよく分かるし、本来であれば諌めるべきなのだろうが、これがユーフェル様の初恋であることを知っている私はそれをする気にはならなかった。
「ということで、兵達を纏めて早速明日レールシェリエに行こうと思うんだ。あの街に殿下やサフィーナちゃんがいるって話だから」
「私もお供致しますわ」
「それは駄目。きっと父さんも母さんも当分帰ってこないから、エルミィはここに残ってアヴェイン家を纏めてくれないと」
「……畏まりました。必ずや、貴方様がお戻りになられる時まで全てを保ってみせます」
男爵家の私兵を連れて南部地域へと向かおうとする主に同行を願い出るが、それは敢えなく却下されてしまう。
まだ赤子であられた頃から学園に入学するまで十年以上に渡り嫡男であるユーフェル様の養育係を務め、現在も依然として専属の侍女の座にある私は、男爵家の家臣の中でかなりの高位にあり、侍女に限定するならば最も階級が高い。
男爵様と奥方様がほぼ戻られないため、侍女達全員に指示を出せるのはユーフェル様と私の二人だけの状態であり、彼が成長なさるまでは実質的に私が屋敷の中を動かしていたのだ。
残るように命じられたのはおそらくそのためであり、本音を言えば供をしたいところではあるが、帰るべき場所を任されたのだから私はその期待に応えなければならない。
私は決意を籠めて、そう宣言する。
「ありがとう。次に戻る時は、きっと伯爵か侯爵にでもなっていてみせるよ。もうサフィーナちゃんは大活躍してるみたいだから、僕もそれくらい活躍しないと力が見合わなくなっちゃうだろうしね」
「きっとユーフェル様ならば多大な功績を挙げられるかと存じます」
そんな会話を交わしつつ私達は夕食を口にしていき、やがて食欲が満たされるとユーフェル様が席を立たれる。
「それじゃ、明日は早いからもう寝ることにするよ」
「お休みなさいませ、ユーフェル様」
「ああ、お休み」
少し微笑んでそう仰った彼に礼をしながらそう挨拶をすると、言葉を返されて食堂を後にされる。
後ろ姿を見送った後、私は食器を片付け始めたのだった。




