15. 星辰
ベルフェリート王国の中央部は、長大にして峻厳な山脈が東西に伸びて存在しているのを除けばそのほとんどが平地であり、麦畑が作られて大穀倉地帯となっていた。
季節はまだ初夏なので穂はまだ頭を垂れぬまま青々と風に靡いていて、ヴァトラの騎上からはその度にまるで絨毯のように色の濃紺を変えて揺れるのが分かる。
その只中には石と木で作られた民家が立ち並ぶ村も時折存在しており、そんな長閑な景色を眺めながら進んでいくと、遠くに白地の旗を掲げた大軍勢の姿が見えた。
言うまでもなくそれは辺境伯家の軍勢であり、さすがにこの距離では視認は出来ないが、家紋が金糸で大きく描かれているあの旗の近くにルウがいるのだろう。
密偵の一人に命じて既にこちらの存在と合流する旨は伝えてあるので、接近しても特に混乱が起きたりすることはない。
距離が縮まるにつれてその陣容がはっきりと分かるようになった大軍は辺境伯家の私兵を中核としつつも他の東部諸侯の私兵も多く加わっており、やはりと言うべきか辺境伯家の軍勢は練度がとても高いらしく、遥かに大規模であるにもかかわらず他諸侯の軍勢と比べてずっと動きが整然としていた。
進む速度を疾駆から小走り程度にまで落としながらも大軍勢の隣にまで近付き、並走するように部隊を南の方角に向けると、あちらの軍勢の中から辺境伯家の兵が数十人程近付いてくる。
言葉を交わすとどうやら私を招くようにとルウに命じられてきたらしく、こちらとしても元々挨拶に赴くつもりだったため断る理由は無く、私は一時的に指揮を将校の一人に任せると、カルロを後ろに伴って兵の後へと続いていく。
彼らに案内されながら多くの小部隊の間を進んでいくと次第に大きく靡いた金糸の旗に近付いていき、そして護衛部隊のところへと辿り着く。
部隊を構成する兵達は皆あたかも騎士のように全身を鎧で包んでいて、隊列も整っておりそこに乱れは見られない。
まさしく辺境伯家の私兵の中でも最精鋭の部隊であることが軽く眺めるだけでもよく分かる。
大貴族であるだけあって護衛の数も千人程に達しており、それだけの人数に囲まれたルウの小柄な姿はここからでは当然ではあるが見て取ることは出来なかった。
だが、海が割れるように兵達が左右に分かれると、その奥に大きな馬の背にちょこんと座る少年の姿が現れ、馬首をこちらに向けてゆっくりと近付いてくる。
軽く目を覆い隠す程度に伸びた灰色の髪と、その奥に覗く神秘的な輝きを宿らせた紫水晶の瞳の持ち主が誰かは言うまでもない。
この軍勢の名目上の指揮官(普通に考えるならば、実質的な指揮は恐らく誰か他の将校が辺境伯より任されているのではないだろうか)であり、東部地域の国防を一手に担う大貴族、ヴェルトリージュ辺境伯家の嫡男であるファルトルウ・ヴェルトリージュだ。
学園では何故かいろいろと縁があった彼であるが、彼は自分が囮になるようにして護衛を引き連れつつ実家の方へと向かったので、こうして顔を合わせるのは随分と久しぶりだった。
ルウの乗った馬がすぐ目の前で立ち止まると、以前と全く変わらず無表情なままの彼と視線が交わる。
「お久しぶりです、ヴェルトリージュ様。これ程の軍勢、とても心強いですわ」
同じ貴族であるとはいえ爵位でも実力でもこちらの方が比べ物にならない程に下であるので、まずこちらから挨拶をして馬上で礼をした。
年齢としてはまだ若年同士であるとはいえ、ここは子供のままで許される学園の中ではなく立派な公の場である戦場であり、互いに軍勢を率いる立場でもあるため愛称ではなくきちんと家名で呼び掛ける。
「ドラーシェ、離れて」
「はっ。……お前達、通常の護衛体制に移行しろ」
ルウはこちらに向けて頷くと、近くにいた兵の一人へとそう命じ、それに従った男の指示により護衛部隊は素早くこちらから一定の距離にまで離れて円状に広がり、陣を組む。
もちろん千人程にも達する人数が一重の円を作っては大変なことになってしまうので、四、五重程度にこちらを囲む形だった。
いつぞや王子と遠乗りをした際もそうだったが、貴族や王族が屋外で誰かと会話をする際は平民である兵が聞いてはならないような内容が交わされる場合も多いので、護衛はこうして内側に背を向けた上で会話が聞こえない距離にまで離れるのが慣例になっているのだ。
軽く眺めた程度では分からなかったがドラーシェと呼ばれていた今の男が護衛部隊を指揮しているらしく、そうであるなら恐らくは全軍の指揮も実質的には彼が執っているのだろう。
「久しぶり、サフィーナ。会いたかった」
兵達が完全に離れると彼は右手で手綱を掴み身体を支えたまま、小柄な上半身をこちらに乗り出させるようにして左腕を伸ばし、私の着ているドレスの袖をいつぞやのようにきゅっと掴む。
そして、私の顔を表情を変えないまま見上げるとそっと小さな唇を開き、抑揚の薄い口調でそう口にするルウ。
彼の声を耳にしたことでそう長い間ではなかった学園生活を思い出し、まだそれ程時間が過ぎていないにもかかわらず、いろいろと大きな出来事が重なったためにまるで遠い昔のことのようにも思えるそれを懐かしく感じる。
「私こそ、ルウがご無事で安心致しましたわ。こうしてまた会うことが出来て何よりです」
これは同じように危ない橋を渡った私や王子にも言えることであるが、王子から敵の目を逸らすための囮として大人数でかなり派手に動きながら王都脱出というかなり危ない橋を渡った彼は、一歩間違えれば捕らわれていてもおかしくなかっただろう。
もちろんそうした事態に陥らないように綿密に計画は練ってあったのだろうが、何事にも万が一ということはあるし、敵とて決してこちらの予測通りに動いてくれるとは限らないのだ。
たとえ名目上は同じ学生であっても実際にはかなりの身分差があるにもかかわらず、向こうから積極的に近付いてきたことには初めはかなり困惑したが、それでも何度も会話を交わした知己の一人であるのは確かなのでこうして無事に会うことが出来て本当によかったと思う。
生まれ変わった後、実家の書斎で歴史書に目を通した際にも痛感したが、親しく言葉を交わした人間が私の手の届かない場所で命を落とすのはもうたくさんだった。
その夜。
しばらくルウと会話を交わしていた私は、全軍が休息に入ってからゆっくりと話し合うことを約してから自軍の元に戻っていた。
そして、八万を超える程の大軍ともなれば輜重だけでも相当な量となってしまうので仕方がないとはいえ、進軍の速度は相応に遅く、しばらく進んだところで軍勢の中核を成している辺境伯家の軍勢が停止して全軍に夜営の指示が出される。
それに従って、日が落ちかけて暗くなった空を眺めながら私達も夜営の準備をしていく。
周囲を見渡すと軍勢は各貴族の私兵ごとに分かれて集まっており、それぞれに輜重から陣幕を取り出したり夕食の準備をしたりしていた。
やがて日が沈み、辺りをいくつも灯された篝火の明かりだけが照らすようになると、その赤い揺らめきの傍らに身体を休めて兵糧を口に運んでいく。
まだ春先なので陽光の温もりが無くなれば大気は冷えるが、燃え盛る炎の熱を受けているので肌寒さを感じることはない。
更にしばらくの時間が過ぎ、哨戒の兵を除いた大半の兵達が寝静まり、闇の静けさの中に炎と風の音だけが響くようになった頃、私の元にルウからの使者が訪れる。
その男の後ろに続いて各陣営の合間を縫いながら進むと辺境伯家の本陣に辿り着き、中央にあるひときわ大きく豪奢な幕舎へと向けて歩いていく。
中にいるのが辺境伯家の嫡男という要人だけはあって警備はかなり厳重であり、夜中にもかかわらず百人以上の護衛兵が幕舎の周囲を警戒している。
彼らは人海戦術といった感じで遠巻きに二重に幕舎を取り囲んでいるので、これでは闇に紛れたところで近付くことさえ難しい(もちろんそうでなければ警備の意味が無いのだが)だろうが、しかし案内があるので特に留め立てされることはなく通り抜けた私は幕舎の近くで立ち止まる。
立ち止まったのは、ふと少し先にルウがいることに気付いたからだ。
夜に紛れそうな暗い灰色の髪の奥にある濃紫の瞳は神秘的な光を宿しながら夜空を見上げ、真雪のように白い肌は遥か天から注ぐ星と月の明かりを反射して、輝くように闇に浮かび上がっていた。
元々彼の持っている不思議な雰囲気が暗がりの中でより強調され、ふとこちらに顔を向けた彼と目が合うと、まるで紫水晶のように輝く瞳にふと吸い込まれるような錯覚に襲われる。
「どうなされたのですか、ルウ」
いくら警備体制が万全とはいえ大貴族の嫡子であるルウが外に出ていることに少し驚きつつ、傍まで歩み寄ってそう尋ねる私。
地面に布を敷いて座り空を見上げていた彼はそれに反応し、無表情を崩さぬまま上目遣いでこちらを見上げる。
そのままこちらに伸ばされたルウの右手が私のドレスの裾を掴み、引っ張られたのに従って私も隣に腰を下ろした。
「星、初めて見た」
数秒の静寂の後、不意に唇を開いた彼がそう口にする。
この国に冠たる大貴族に生まれた彼は、安全上の問題もあってこれまで夜間に外に出たことがなく、そのため星を見る機会も無かったのだろう。
「あちらに輝く明るい星が白鳥星、その周囲にある十三の星と合わせて白百合座と呼ばれております。コンドゥレス陛下の御世に水軍を率いて南下した当時のシロテク侯爵は、途上で襲われた深い霧の中を白百合座を目印に進み、見事大勝されたそうですわ」
天球に輝く星の並びは地球から見ることが出来たそれとは全く異なっているが、しかしこの世界にも星座という概念はあり、夜空には様々な絵が描かれている。
白百合座もそのうちの一つであり、今から三百五十年程前のシロテク侯爵のエピソードもあって、どの星図にもまず必ず掲載されている有名な星座だった。
近代的な文明の発達していないこの世界の夜空はとても美しく、ルウにも好きになってもらえたらいいと思いながら、満天の星空の中でも白鳥に比せられる程にひときわ明るい星を指し示す私。
「……もっと教えて」
「あちらの赤い星が王冠星、周囲の四十二の星と共にシュトルードフの威光座と呼ばれておりますわ。シュトルードフ陛下の偉業を記念して作られたそうです」
彼の言葉に応え、私は白百合座の右上にある赤い星を示す。
この国の三代目国王であるシュトルードフ王は初代国王であるアレクシス・レストリージュの孫に当たる人物であり、その頃から紛争が絶えなかったラーゼリア王国に親征して大勝利を収めたことで、歴代の王の中でも特に偉大な人物として知られている。
この星座はそんな彼の偉業を讃えて息子であり四代目国王として即位したイルヴェン王の命で作られ、中核に輝く星が王冠星と呼ばれているのもまた彼にちなんでのことであった。
「……星も、サフィーナも綺麗」
「ル、ルウ」
シュトルードフの威光座の説明を終えると、隣で話を聞いていたルウが身体を大きくこちらに傾けさせ、そのまま頭を私の太股の上に乗せる。
俗に言う膝枕の姿勢になったことに戸惑う私を見上げて、彼がそう口にした。
膝枕と、彼の言葉のために羞恥を覚え、冷たい大気に触れているにもかかわらず頬が熱くなる。
私は戸惑いと恥ずかしさで言葉を発することが出来ず、元から無口なルウも口を開くことがなく、互いに無言のまま見つめ合う時間が続く。
「もっと星の話を聞かせて」
その状態がどれくらい続いただろうか、静寂を破るように口を開いたのはルウだった。
要望通りに再びこの世界の星と星座の話を始めた私は、やがて彼が膝の上で眠ってしまうまで共に星空を見上げていた。




