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9. 遠乗り

 カルロとクララと三人で茶会を楽しんでからしばらくが過ぎた。

 あまり与えられた自室から外に出ることなく全土の情報収集とそれを元にした戦略の立案に勤しんでいた私は、しかし今は久々に屋外へと出ていた。

 部屋からすらあまり出ることがなかったのだ、ましてや城の外に出たのなど何日ぶりだろうか。

 別に夜型の生活をしていた訳ではないので日光が眩しい……とまではいかないが、皮膚の上を吹き過ぎていく風の心地よさが随分と懐かしく感じる。

 室外に出ようと思えば正装のドレスに着替えなくてはならないため、手伝ってくれるアネットがいない今は時間を掛けて着替えるのが面倒であまり外に出る気にならなかったのだ。

 部屋の外に出たのは、数日に一度定期的に行われる軍議の際くらいだっただろうか。

 そんな私の部屋に昨日王子からの使いが訪れ、遠乗りへと誘われた。

 王族の誘いとあらば理由も無く断ることなど出来ないし、何より馬に乗るのであれば略装のドレスでも問題は無い(正装のドレスで馬に乗るのは難しいためだ)ので気晴らしにはちょうどいいと思い快諾していた。

 普段着である略装の青いドレスを身に纏って城から出た私は、石畳の上を歩き向かって右手の方にある馬小屋へと近付いていく。

 多くの兵が常駐する国内有数の大都市だけあって、軍用馬が繋がれている馬小屋の面積もかなり大きい。

 数万頭の馬を繋げるように作られた、日本であればそれこそ豪邸と言われるような屋敷よりも広いだろう厩の中に入ると、開けた扉の先には藁の独特の匂いが嗅覚へと届く。

 入城後に近隣の商人から買い集めた分も合わせ一万頭はいるだろう馬達が薄暗い柵の内側には並んでいるが、その中に遠目にも明らかな程に体躯のいい馬が二頭いる。

 一方の毛色はまるで降り積もった処女雪のように白く、もう一方の毛並みはあたかも燃え盛る炎のように黒い。

 白馬の方は王子が乗っている馬であり、黒馬は言うまでもなく私の愛馬だった。

 万に達する数の馬の中にいても決して紛れたりすることなく、その体躯と存在感のために居場所が歴然としている愛馬の元に私は真っ直ぐに近付いていく。


「久しぶりね、ヴァトラ。なかなか来ることが出来なくてごめんなさい。今日はこれから遠乗りだから、私と一緒に外を存分に駆けましょう」


 私の接近に気がつくと、真っ直ぐにこちらを見つけてくるヴァトラにそう声を掛け、近付いて鼻先を撫でてやる。

 撫でられたことが嬉しかったのか、或いは久々に外を駆けられることを喜んだのか、飼育員曰く雌らしい彼女は天を仰ぎ大きく嘶く。

 その姿には並み居る同属の中でも際立った女帝とも例えるべき威風が満ちており、本当にいい馬なのだと感じる。

 ただ体躯がよく足が速いだけではなく、どれだけの距離を駆けても疲れ一つ見せず、更にはこちらの言葉や僅かな仕草から的確に乗り手の意思を読み取ってみせる。

 これ程の名馬は数百年に一度生まれればいいところだろう。

 侯爵家の当主として、そして実質的な宰相として前世では名馬と呼ばれる馬を数々見てきたが、それでも彼女程の馬を目にすることは遂に無かった。

 私は柵を開けて内側に入ると、ヴァトラを繋いだ紐を外し、近くにあった足場を使って高い背中へと飛び乗る。

 その高さたるや成人男性の身長よりも高く優に二メートルはあるのではないかというくらいだが、しかし優れた体躯に比例して背中の広さもかなりのものであるため安定感があり、鞍や鐙が無くとも落ちそうになるような危険を感じることはなかった。


「さあ、行きましょうか」


 背筋を右手で撫でてやると、ヴァトラは藁を踏み締めながらゆっくりと歩を進めて柵の外へと出る。

 そのまま厩舎からも出ると、降り注ぐ陽光を久々に浴びた彼女は心地よさそうに目を細め、嘶きを一つ上げた。

 私としても馬上で浴びる風は格別なので、その気持ちはよく分かる。

 現代日本にあるような娯楽のほとんどが当然ながら存在しないこの世界においては、馬と共に駆けることは貴重な気分転換の一つだ。

 身体に吹きつける風を感じながら平原を駆けることが出来ると思うと、自然に心が躍る。

 とはいえまだ市中の真っ只中なのでヴァトラを走らせることはせず、ゆっくりと門の方向へと歩かせていく。

 執政府を囲う城壁の中には現在およそ五万の兵が駐留しているが、その内容は王子の直接的な指揮下にある国軍と貴族達の率いてきた私兵である諸侯軍に分かれている(それぞれの兵数も同じくらいだ)ため、誰に率いられているかによって兵達の生活スケジュールもそれぞれ違ってくる。

 誰の私兵かによって訓練の頻度が多いところもあれば少ないところもあり、また最も訓練に精を出している国軍でも交代で休みを与えられているために、周囲には兵の姿が多々見受けられた。

 市街地でも広く姿を見られるだろう彼らの多くは、その場に足を止めたりしつつこちらに注目の目線を向けている。

 恐らくは、ヴァトラのそこにいるだけで分かる圧倒的な存在感と、そんな彼女にただの令嬢である私が鞍も着けず横乗りしていることに驚いているのだろう。

 注目を浴びつつも執政府を背後にし石畳の上を進んでいくと、遠目だった城壁が間近に見えるようになり、歩哨をしている兵の様子も肉眼で確認出来るようになる。

 まさか王子を待たせる訳にはいかないので早めに来たが、こちら側の首魁として何かと多忙である彼は予定の時間になるまで来られないだろう。

 かと言って先に城市の方の城門まで向かう訳にもいかないし、特に待ち合わせ場所などは聞いていないのでこの辺りで待っていることにする。


「ヴァトラ、殿下が到着なさるまでもう少し待っていてね」


 私は遠乗りを前に気を昂らせていることがよく分かる彼女をそう言って宥めると、その場で白馬に乗った王子(と表現すると童話的でロマンティックだ)が到着するのを待ち始めたのだった。









 疾駆によって相対速度を増した向かい風が私の頬に叩きつけ、腰の辺りまで伸ばしている金髪を旗のように背後へと靡かせる。

 レールシェリエを囲う高い城壁と遠くに広がる森林と平原を割るように流れる河以外にこれといったものが存在しない周囲に見えるのは河の上を進む船程度だが、それらの風景も瞬く間に後方へと流れ去っていく。

 そんな凄まじい速度で進む私の隣には、愛馬であるらしい白馬に跨った王子の姿があった。

 普段はやや跳ねるようになった短い赤髪は風圧に煽られて後方に流れ、しかしその顔立ちの端正さは全く乱れていない。

 あれからしばらくして後ろからやってきた王子と合流した私は、そのまま大通りを進み市街地を通り抜け、そのまま遠乗りへと出ていた。

 話を聞いてみたところ、近頃は屋内に籠ってひたすら書類仕事などの諸事に追われており、やっと取れた休みにそのストレスを発散したかったのだそうだ。

 王族としての高度な教育を受けており頭の回転も十分以上に速いとはいえ、まだ若い上にカルロ並みの実力を誇る剣の使い手であったり、自ら兵を訓練することを好む性格の彼には確かに書類仕事はあまり面白くないだろう。

 ずっと屋内にいた分、思う存分遠乗りをして風を感じたいという気持ちもよく分かる。

 本来であれば宰相や官職持ちの貴族達がそれぞれ分担して書類を処理し、国王の負担はかなり軽くなっているのだが、今の陣営には宰相がいないのでトップである王子に全面的な負担が掛かってしまっていた。

 誰かを任命しようにも、宰相という最高位には当然それに相応しいだけの功績が必要なので、少なくとも内戦が終わり論功行賞が済むまでは任命は不可能だ。

 私が宰相になれば王子の負担を現在の十分の一以下には減らせるだろうが、それは内戦の終結後まで我慢してもらうしかない。

 もっとも、いくら人間離れした強さを持つ猛者であるとはいえ総大将であり旗印でもある彼にあまり前線に出てもらっては困るので、王子には悪いが私としては後方で執務に専念してもらった方がありがたいのだが。

 ともあれ私も最近は全くと言っていい程外に出ていなかったので、この誘いはまさしく渡りに船だった。

 乗り手である私達はもちろん、ずっと厩舎に入っていた馬達の鬱憤も晴らすために、外に出るや否や全速で駆け始めた二人。

 王子と私の馬の速度には誰もついてくることが出来ないらしく、軽く振り向けばずっと後方に護衛の騎兵達が疾駆しているのが見える。

 彼らの乗っている馬もかなりの良馬ではあるのだが、やはりヴァトラには遠く及ばないらしい。

 暗殺の手を警戒してさすがに森の近くや川辺は避けているが、仮に狙われたとしてもこの速度の標的に飛び道具を命中させられる者などまず存在しないだろう。

 疾駆する爽快感に身を任せながら、広い平原を縦横に駆け回る二人と二頭。

 身体を預けるようになってから一度も全力で走らせたことが無かったため、ヴァトラの全速がどれくらいかを一度見ておきたいと思い本気で走らせているのだが、にもかかわらず平然と並走してくる辺り、王子の馬も恵まれた体躯に違わぬ名馬らしい。

 さすがにあちらもこれ以上の余裕は無さそうだが、それでも乗り手である私が油断すれば引き離されそうになる。

 それは王子も同じのようで、こちらに遅れを取らぬよう真剣に馬を駆る表情はしかしどこか楽しげだ。


「殿下、そろそろ一度休息致しましょう。このままでは、護衛の者達の馬が潰れてしまいますわ」

「……それもそうだな。お前がこれ程の乗り手だとは思わなかったので熱くなり過ぎた」


 私が隣の王子に話し掛けると、彼はやや不満そうな表情を浮かべながらも白馬の速度を落としていく。

 そっとヴァトラの首筋を撫でると、こちらもそれに合わせて徐々に減速する。

 護衛達はこちらに追いつけずとも、その職務上王子が疾駆している間はずっと馬を全力で駆けさせていなければならない。

 彼我の間にあまりに馬の質の差があり過ぎるので、このまま休むことなく続けていては護衛達の馬が疲労で潰れてしまうだろう。

 遠目に見たところそろそろ彼らの馬に疲労が溜まってきているようだったので、止めなければまずいと判断したのだ。

 馬達に関しては疲労が回復するまでしばらく休ませておけばいいとして、このままではまた同じことになることが目に見えているので、再開後は護衛の体制を変更するべきだろう。

 一分程遅れてようやく追いついてきた約百人の近衛隊を横目に見つつ、OL時代に身につけた現代的なセキュリティ理論を生かして馬に負担を掛けず、かつ効果的な護衛体制を考えていく。

 こちらを円状に大きく囲むようにして立ち止まった彼らを指揮する近衛兵に、王子が半刻の休息を命じる。

 本来近衛隊長は私が任命したディートハルトなのだが、三万にも上る国軍が増えたことにより当初は僅か百人程度だった近衛隊の人員も大幅に増員され、彼はその訓練と編成に追われていて同行どころではなかったのだ。

 そのため、普段は副官を務めているらしい兵が元からいた百人を指揮する形で王子に同行してきていた。

 休息を命じられた彼らだが、当然王子を放っておいて全員で休憩を取ったりするはずもなく、半数程が馬を連れて河や草原の方に向かうと、残りの半分は馬から下りつつも手綱を握った状態で私達を囲み続ける。


「貴女もしばらく自由にしてくるといいわ。何か有事が起こるか、何事も無ければ今しがた休息に向かった兵馬が戻ってくる頃合いになったらこちらに来て頂戴」


 最近はこのレールシェリエで勢力としての基盤を整える作業に追われており軍事方面は後回しとなっていたためにヴァトラは外に出ることもなく馬小屋に入っており、その鬱憤が溜まっているだろうし、せっかくの機会なのだから彼女にも気を晴らさせてやりたい。

 そう考えた私は背中の上から飛び降りて(遠乗りということでヒールのある靴ではなく底が平らな乗馬靴を履いてきたため着地には特に問題は無い)声を掛けると、陽光を反射して艶やかに輝く毛並みを持った彼女は、燃え盛るような漆黒の体躯から威風を放ちながら悠然と水辺の方向へと歩き進んでいく。

 ヴァトラが持つ明らかに他の馬とは別格の威風の前に、その進路にいた馬は思わずといった感じで横へと退き、道を譲る。

 その馬の乗り手である兵は自らの馬の突然の行動に戸惑っていたが、ヴァトラはそちらを一顧だにすることなく歩を進めていった。

 手綱はもちろんのこと、鐙や鞍を初めとした馬具の類を一切身につけていない裸の状態の馬を囲いも無い中で離すことなど通常はしない(言うまでもなくどこかに行ってしまう可能性もあるためだ)が、しかし私と彼女の間には互いへの信頼がある。

 王都を出てから今までの期間ずっと共に進んで来たということももちろんあるが、信頼が生まれたのはもっと以前のことだ。

 そもそも、馬に乗るということは自らを乗せた馬にある程度自分の身体を預けるということである。

 もちろん普通の馬であれば調教をして乗り手の側が主導権を持つようにするのだが、しかし他者からの調教など決して受けつけないだろうヴァトラのような馬に乗るとなれば話は全く別だ。

 騎乗している間相手に身を預ける割合は通常よりもずっと大きくなり、果てには戦場において自らの命さえもある程度預けることになる。

 一つ間違えば命を落とす戦場という世界において、自らの意思の通りに動かせない馬に乗りたいと思う者は極めて少ないだろう。

 そのようなことは余程の信頼が無ければ出来ないし、つまりヴァトラに乗るということは彼女を信頼し命を預けるということに他ならないのだ。

 逆に、本来臆病な生き物であるはずの馬という種でありながら非常に誇り高いヴァトラは、自らが認めぬ者が背に乗ることを決して許さない。

 幸いなことに、彼女は背中に乗った私を振り落としたりすることはなく、乗り手として認めてくれた。

 つまり、学園の厩舎で私がヴァトラを見つけて背中に乗り、街中へと駆け始めた瞬間には、既に互いへの信頼は生まれているのだ。

 そういった共通認識が互いの中にあるので、こちらも安心して彼女に羽を伸ばしてもらうことが出来る。

 私が離れていくヴァトラの後ろ姿を眺めていると、隣では王子も白馬の背から降りて休息へと向かわせていた。

 目測だが、メートル法に換算すれば百八十センチを優に超えているだろう背丈を持つ王子は私の愛馬とほとんど同じくらいの体躯を誇る白馬の隣に立っても全く見劣りしておらず、互いが互いにとても似合っている。

 背が低いためにヴァトラと並べば姿が完全に隠れてしまう私とは大違いだ。

 そして白馬が離れていくと、周囲を近衛が囲んでいるとはいえ張り上げない限りこちらの声が聞こえない程度の距離を取っているので、実質的に王子と二人である。

 暗殺や誘拐の危険が常にある貴族は屋敷の外では護衛に囲まれるのが普通(例外もいなくはないが)なので、護衛の存在を「そういうもの」であると認識して必要がある時以外は意識から外しておけるようにならなければ、貴族としての生活を送るのはいささか辛いだろう。

 もっとも、生まれた時からそういった状況に置かれている貴族達は無意識にその感覚を身につけているものなのだが、日本人としての価値観と記憶を持って転生した前世の私は慣れるまでその辺りに戸惑ったのを思い出す。


「間もなく雑事には片がつきますわ。私の全力を以て、必ずや殿下をこの国の正統なる王座に」


 馬上の身ではなくなったため、私は隣に立つ王子に跪いてそう近況を報告する。

 レールシェリエを拠点として活用するための組織体制を整えることはもちろん、兵の訓練、更には周辺の諸侯の懐柔を進めたりと貴族達には多岐に上る仕事があり、私もその中のいくつかを担当していたのだが、もうすぐそれらの準備は完了する。

 その時から、いよいよ王子による覇業と私の戦いが始まるのだ。


「そうだな。ここまで力添えしてくれたお前にはとても感謝している。論功行賞を楽しみにしておくといい」

「身に余る評価をいただき光栄ですわ」

「せっかくなら妃にしてやろうか? 存分に可愛がってやるぞ」

「お、お戯れを!」


 跪いて地面を見ていた私の顎を身を屈めた王子の指が持ち上げ、かなりの至近距離で互いの顔が向かい合う。

 直後の彼の言葉も相まって、思わず顔を真っ赤にしてしまう私。

 強い光を孕んだ薄茶色の瞳と見つめ合っていられず、楽しそうな笑みを浮かべた彼の方から咄嗟に目を逸らす。


「誰よりも有能で美しい。お前なら王妃の座に相応しいと思うがな」

「い、いけませんわ。子爵令嬢の私では殿下には釣り合いません」


 喉から首筋を撫でるように側頭部へと通り過ぎ、私の髪を梳くように通っていく王子の太い指。

 素肌を撫でられ、その何とも言えない擽ったさに思わずおかしな声を出してしまいそうになる私。

 どうにか耐えるものの、指の動きになお感じている羞恥心を深めつつ、彼にそう言い返す。


「既にお前には相当な功績があるが、まだこの程度では満足していないだろう? お前の才覚なら間違いなく公爵叙任程度の功績は重ねるはずだ。そうなれば救国の英雄にして王妃、今の身分差など問題にはならんな」

「きっと私より王妃に相応しい方がおられるかと存じます……。殿下はこの国の頂点に立つお方、よくお考えください」


 彼の表情からして恐らくからかわれているのだろうということは分かるが、だからといって羞恥を感じない訳ではない。

 自分でもひどく顔が熱いのが分かるので、恐らく他者から見れば私の顔は真っ赤だろう。

 貴族をしていたのでここまで迫られる前に上手くあしらって話を変えたりする方法くらいは知っているが、相手が王子ではそれも難しい。

 もしも王族である王子に本気で求められれば、実家が大貴族ならまだしも小貴族の娘である私に逃れる術はほとんど無いと言ってもいいのだ。

 近付かれて振り払うような不敬な行動など出来ないので、どうにか動揺を押し殺しつつ(もっとも顔を赤くしてしまっている時点で押し殺せているとは言い難いのだが)言葉を返すことしか出来なかった。


「安心しろ。お前程の女を地位を使って抱くことは俺の誇りが許さん。そんなものを使わずとも、いずれお前は俺のものにしてやるさ」


 最後にそう言うと、屈めていた身体を起こし私から離れていく彼。

 いささか混乱してしまっていたために気付かなかったが、王子にからかわれている間に半刻近くが過ぎていたらしい。

 私が速まった心臓の鼓動を落ち着けていると、少しして馬を休ませに離れていた近衛兵達が戻って来始める。

 そして、指示しておいた通りに水辺の方から戻ってくるヴァトラの姿。

 隣まで来ると立ち止まった彼女の鼻先をそのままでは届かないので背伸びをしながら撫でてやると、心地よさそうにその目が細められる。


「ヴァトラ、申し訳ないけれど少し屈んでもらえないかしら」


 本来踏み台になる鐙を着けていないこともあり、私の身長よりも高い体高を持った彼女の背に乗ることはそのままの状態では困難である。

 馬小屋の中であれば踏み台があるのでその上から背に乗ればよかったが、現在いるような屋外にそのようなものがあるはずもない。

 彼女に騎乗するためには、少し足を折って身を屈めてもらう必要があった。


「その必要は無いぞ」

「きゃっ!?」


 だが、背後からそんな王子の声が聞こえると共に私の身体を強い浮遊感が襲う。

 咄嗟のことに小さく悲鳴を上げてしまいつつも状況を窺うと、どうやら彼が後ろから私の身体を横抱きの形で抱き上げたらしい。

 背中に感じる王子の力強い腕の感触につい先程のことを思い出し、再び顔が熱くなっていく。


「で、殿下……?」


 どうにかそう口にしたものの、彼はそれに答えることなく私の身体を持ち上げ、まだ屈んでいなかったヴァトラの背中の上へと座らせる。

 どうやら、騎乗するのを手伝ってくれたらしい。

 そのことを理解して振り返った時には王子自身も既に戻ってきていた自らの白馬に乗っており、私は彼と再び隣へと並ぶ形になった。

 ―――まだ熱を帯びている顔は、風で冷やせばよいだろう。

 そう思いつつ、私は駆け出した王子に合わせてヴァトラの首筋を撫でたのだった。

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