3. 晩餐
私とカルロが噴水での水遊びから戻り、冷水に濡れそぼった服を着替えた後。
その時点で時刻はまだ昼の二時過ぎくらいだったので、夕食までの間に書房を探そうと思っていたのだが、そうもいかなくなってしまった。
一月ほど前からまた王都に出張に行っていた父からの書簡を携えた使者が到着したのだ。
何でも、この国の第二王子であるアルフェリオ・レストリージュとその一行が数日後にこの屋敷に到着し、そのまま一晩宿泊することになったらしい。
もちろんこんな東の辺境近くの小さな子爵領にわざわざ用がある訳ではなく、ここから更に東、国境付近を治める大貴族であるヴェルトリージュ辺境伯家へと行幸に向かうのが目的なのだそうだ。
何故よりによってこんな貧乏貴族の家に、と思わなくもないが、その辺りは日程の都合というものなのだろう。
元々王都から見てかなり東の果てにあるこの地域は辺境であり、大軍を統率し国境を防衛する任を与えられているヴェルトリージュ辺境伯家を除けば小規模領主が乱立している状態にある。
この近辺からヴェルトリージュ辺境伯の屋敷までは約一日の距離にあるため、確かに行幸に向かうとすればどこかしらで一晩を明かしていく必要がある。
まさか軍属でもない王族に野営などさせる訳にはいかないのだから当然だろう。
似たり寄ったりの規模の家しかこの辺りにはないのでどこでもいいのだろうが、我が家が選ばれたのはそれだけ父の働きが評価されているということだろうか。
父自身は、道案内役として王子一行と共に帰宅するらしい。
つまり、それまでに母と私の方で迎える準備を済ませておかなければならない。
買い付けてくるべき食材から屋内の飾りつけ、王子が眠る部屋の整備など。
書簡には王族を迎えるための準備についてが事細かに書かれており、母はそれを元に使用人達に指示を出していく。
母は初めて目にした時の印象と違わずとても柔和で優しい人だったが、しかし父の不在時に領地を切り盛り出来るほど有能な人物である。
そんな彼女の指示を受けて、慌しげに動き出した使用人達。
王族を迎えるのだ。
いつも以上に彼らの仕事ぶりに力が入って見えるのは気のせいではないだろう。
私は王族を迎えるという用件を母から伝えられると、そのまま自室へと帰されていた。
準備に忙しく、私に構っている暇などとても無いのだろう。
彼らの邪魔をする訳にはいかないので書房を探すのはひとまず諦め、再び平穏な日々が戻るまでは大人しくしておくことにする。
そしてその夜。
いつもと同じように私は、食事用の長テーブルを母とカルロとの三人で囲んでいた。
卓上には白いクロスの上にメイド達によって配膳された大きな皿が並べられ、専職の料理人によって作られた上質な料理が盛り付けられている。
カルロは我が子爵家の傍流の家の生まれなので、席次は下であるが同席する権利があるのだ。
テーブルの一番奥に父、右側の最奥に母、母の正面に私、私の隣にカルロというのが決められた席次だった。
もっともこの子と椅子を並べて食事を取れるのも私が嫁ぐまでであり、嫁ぎ先の家に入ってしまえば彼は貴族でも嫁ぎ先の家の一門でもないためそれも叶わなくなるのだが。
まあ、まだまだ先の話だ。
母はとても母性に溢れた穏やかで優しい人物であり、それは父や私に対してだけでなく隣の椅子に座る少年に対しても変わらない。
父が夕食の場に同席していないのはもう幼い頃からの慣例になってしまいつつあるが、それでも彼女のおかげで食卓にはいつも団欒が存在していた。
「よく出来ました、サフィーナ。これなら、アルフェリオ殿下とお会いしても大丈夫だわ」
食事を取る私の仕草をじっと見つめていた母が、微笑みを浮かべて言う。
王子を迎えれば、当然両親と私も食事を同席することになる。
普段以上に厳密なテーブルマナーが要求されるので、それを見られていたのだ。
とはいえ前世で侯爵家の当主だった私は、何度も王族を招いたり迎えたりした経験がある。
二百年間で作法が大きく変わったりしていない限りは大丈夫だろうと思っていたが、やはりこれでよかったらしい。
天井から吊るされた豪奢なシャンデリアが放つ電球色のような穏やかな光に照らされた彼女の表情は、とても優しげだった。
一方で、いつものことながら隣に座るカルロはナイフとフォークを上手く作法通りに扱えずに苦戦している。
これは仕方の無いことだ。
私とて全く苦労しなかったのは前世で既に身につけていたからであり、前世で初めて覚えさせられた時にはそれはそれは苦労した。
仕事上の理由でそれなりのマナーを覚えていた私でもあれほど苦労したのだから、傍流の生まれできちんとした貴族としてではなく育ったカルロが今から覚えるのは大変だろう。
これは余談だが、幼いながらも美形の彼が食事道具を両手に悪戦苦闘する姿は、なかなか微笑ましくて可愛かった。
とはいえ、こんな姿を王子の前で晒す訳にはいかない。
「カルロは……残念だけれど間に合わないでしょうね」
そんな少年を見つめ、母は台詞通りのとても残念そうな声と表情で言った。
澄んだその声色の中には、彼を責めるような様子は微塵も感じられない。
「申し訳ありません、ソフィア様」
「いいのよ、礼法を覚えるのは大変だもの。責めている訳じゃないわ。」
「でも、僕がちゃんと覚えられていたら……」
「あまり自分を責めちゃ駄目。その歳でサフィーナのために頑張ってくれている。それだけで十分立派なんだから」
落ち込んでいるカルロをそう言って慰める母。
その姿は慈愛に満ちており、とてもまだ二十代半ばの女性であるとは思えなかった。
精神年齢で言えば三度目の人生を生きている私の方が遥かに上のはずだが、この人を見ていると自分が子供であるように思えてくるから困る。
「とはいえ、間に合ったら殿下に紹介しようと思っていたのだけれど……。仕方が無いわ。カルロ、貴方は殿下がここをお発ちになるまでサフィーナの部屋にいなさい。もし殿下と遭遇したら大変だから、何があっても絶対に外に出ちゃ駄目よ」
「分かりました」
彼にそう言いつける母。
こうなることは予想していたが、まあ王子と鉢合わせさせる訳にはいかないのだから止むを得ない措置だろう。
まだ六歳なので見られて困るような私物の類いも特に無いし、私としても特に問題は無い。
そして貴族としての会話は終わり、私達はいつものような団欒とした会話と食事風景を取り戻す。
母は領主である父の代理として忙しいので、夕食の際しか顔を合わせない日も珍しくはない。
私達三人は今日一日あったことを話しつつ、やがて全員の分の皿が空になるまで団欒は続いたのだった。




