ex.2 開花
部屋の窓から、曇った空を見上げる。
外を眺めやすいよう、内側に少し飛び出すように作られた木の窓枠の上で両腕を枕のように重ね、その上に傾げた頭を乗せる。
硝子窓の向こうに見える十字に区切られた灰色の空は、まるで私の内心をうつしているようだった。
国王陛下の崩御が伝えられてから数日。
まるでお伽話の勇者のように私を助け護り、臆病で内気だった私の手を引き導いてくださった少女の姿は、今はこの手が届く場所には無かった。
崩御が伝えられた日、突如として学園の馬小屋から馬を奪うと外出禁止の命令を無視して従者二人と共に出奔してしまったのだ。
夜陰に紛れずに白昼堂々と出奔したことによって騒ぎはかなり大きくなり、当事者が非凡な才を明らかにしていたことによって学園外にまで名声を高めていたオーロヴィア様だったことも相まって、あらましはすぐに全校に知れ渡っていた。
その直後に学園で唯一の大貴族であるヴェルトリージュ様も学園を出奔。
彼女への注目はすぐに薄れたが、私にとっては彼女が気がかりなことは変わらない。
翌日には王太子殿下が陛下を暗殺し弟のアルフェリオ殿下の殺害をも企てた罪で王族としての地位を剥奪されることが発表され、王宮から脱出したという殿下が宰相様の名の下に追撃されていることが明らかになる。
政にはあまり詳しくない私だけれど、彼女の出奔とこのことに何か関係があることくらいは分かる。
思えば、殿下は彼女をとても目を掛けていた様子で、私達が一緒にいるところに訪れてきたことも何度かあった。
彼女の内心を正確に推し量ることなどとても出来ないけれど、今頃はきっと殿下とご一緒されているのだろう。
私が無防備に路地裏に身を晒してしまい、襲われそうになっているのを助けてくれたオーロヴィア様は、私にとって憧れの存在だ。
絹のように細く彩やかに輝く金色の髪に、肌理が細かく白い素肌。
整った顔立ちには凛々しさと僅かな翳りのようなものを宿していて、翠玉のような色合いの瞳が放つ眼光はとても強い。
それらが織り成すオーロヴィア様の美貌は女の私でも思わず見蕩れてしまう程で、彼女の美しさを作品の中に全て表現しきることはかの『画聖』リベレーテ・アドルナートにすら不可能だろう。
単に容姿だけに留まらず、言葉遣いや仕草などの礼節においてもこの国の貴族として完璧であり、更には知らないことなど無いのではないかと思ってしまう程に有職故実にも通じている。
学園で講師をされている、若くして大学者として名高いベルクール伯爵様からの、私には答えどころか問題の意図さえも分からないくらいに難しい出題にも的確に答えてみせるのだ。
彼女が答えると、頬を緩ませて称賛する伯爵様。
見た目通り生真面目な方である彼が講義中に笑うことなど今までに無かったらしく、オーロヴィア様の答えを耳にして笑みを浮かべたことを知ると、上級生の方々はとても驚いていたようだ。
陛下の崩御、そして王太子殿下の謀反。
立て続けに起きた非常事態に、オーロヴィア様が近くにいらっしゃらないことへの不安が無いと言えば嘘になる。
生まれてこの方ずっと実家の屋敷の中でだけ生きてきた私にとって、父様も母様も側におらず一人で何かを判断しなければならないかもしれないというのはあまりにも心細い。
どんな事態が起きようとも彼女が力になってくださればきっと全て的確に乗り越えられるだろうと信じているので、つい頼りたくなってしまうのだ。
でも、それ以上に追われているオーロヴィア様のお体が心配だった。
彼女の侍従はテオ曰く「十度戦って二度引き分けに持ち込めるかどうか」という程に強いそうだけれど、彼女には戦いの心得は無いと自身で言っておられた。
つまり、彼女はどれ程凛々しくて賢くともただの少女でしかないのだ。
果たしてお怪我はされていないだろうか、追補の手から無事に逃れられているだろうか。
この国の貴族としては命令に反して勝手に出奔した彼女が捕らえられることを望むべきなのだとは分かっているが、何の理由も無くこのようなことをする方ではないことは知っているし、もしも拘束されてしまえば罪人として何らかの罰を与えられてしまうことになる。
そのことを考えると、どうか捕まらないようにと願わずにはいられなかった。
きっと私などの心配は無用だろうと思ってはいるものの、それでも曇る表情は隠せない。
曇天から視線を外し、窓から下を見上げるとそこには舗装された石畳の上に立つベルファンシア家の意匠の鎧を纏った兵士達の姿が幾人も見受けられる。
オーロヴィア様にヴェルトリージュ様と二名も続けて出奔していることから、今学園には宰相様の私兵が送り込まれて警戒が強まっているのだ。
さすがに寮の中にまでは足を踏み入れてきていないものの、それでも建物の外を囲うように見張られているとまるで幽閉されているかのような錯覚を感じてしまう。
未だ授業は中止されたままで、もちろん寮から外に出ることなど許されていない。
自室での待機指示も依然として解けておらず、部屋から外出することが許されるのは夕食のために食堂へと向かう時だけだった。
食堂で同席したアヴェイン様が仰ったには、夕食の集いも禁止されそうになったものを伯爵様が反対されて、大学者として爵位や領地の広さ以上の影響力を王宮に持っている彼の交渉の結果これだけは続けられるようになったらしい。
いつものように食事を取っていても、彼女がいないだけで他には以前と変わらないはずの空間は大きく違ったものに見えてしまう。
けれど、不安と心配に心が押し潰されそうになっていた私にとって、彼やインサーナ様と歓談出来ることは大きな心の支えになっていた。
もしも夕食も自室で取ることになり、誰かと顔を合わせることもなくずっと部屋にいなければならないとなれば、きっと私の心は不安に押し潰されていただろう。
正直なところ、軽薄な雰囲気を纏っているアヴェイン様のことは苦手に思っていたのだが、沈んでいる私のことを元気付けようと積極的に話し掛けてくださったことにはとても感謝している。
おかげで、今は少しだけ前向きになることが出来ていた。
―――何かオーロヴィア様のお力になることが出来るかしら。
あわやのところを助けていただいたことももちろん、事件が解決するまでの間ずっと護っていただいたり、欠席していた時の講義の内容を教えていただいたりと私は数え切れない程の恩を受けている。
彼女の好意に甘えてばかりいる訳にはいかない、彼女が危険な状況に陥っている今だからこそ、少しでも役に立ちたかった。
でも、今の私に出来ることがあるだろうかと考えてみても、いい案は何も思い浮かばない。
爵位を継ぐことが出来ない私はただの令嬢に過ぎないし、仮に実家を継いでいたとしても小さな子爵家なので出来ることなどほとんど無い。
どうにもならない自分の無力さの前に気持ちばかりが空回りして、頭の中が焦燥に支配されていく。
まさか他の方に相談する訳にはいかないが、かといってこのまま一人で悩んでいてもいい答えなど絶対に出ないだろう。
思考が行き詰ってしまった私は、自らの身体の左手にあった紐を引いてテオを呼び出した。
それから十秒と待つことなく、外側から叩かれた扉。
「入って」
「失礼致します」
私が振り返って入室を促すと扉が開かれ、その向こうから一人の少年が姿を現す。
癖がついてふわふわと跳ねた明るいオリーブ色の髪と王太子殿下や第三騎士団長様よりは低いけれどそれでも伯爵様と同じくらいには高い身長、どことなく眠そうな印象を受ける表情とは裏腹に、見つめていると吸い込まれそうになるようなどこか不思議な佇まいを宿した、少し垂れ気味な眦の奥にある茶色の瞳。
彼はテオドール・ダルトゥ、幼少期から仕えてくれている私の侍従、そして先日までずっと心に秘めていた私の想い人。
入室すると、彼はそっと床に膝をついてこちらを見上げた。
整った顔立ちのテオに見つめられて、思わず自分の胸が高鳴っていくのを感じる。
「ねえテオ、私も何かオーロヴィア様のお役に立ちたいのだけれど……。何かよい考えは無いかしら」
私がそう相談すると彼は一つ溜め息をつき、どこか苦ったように表情を曇らせる。
しかし、それは名案が浮かばずに悩んでいるといった様子ではない。
やはりオーロヴィア様を手助けするのは危険なので侍従である彼には気乗りがしないのだろうか、そう思いつつ私は答えが帰ってくるのを待つ。
「……実は、それについてオーロヴィア様からのお言葉を預かっております」
「本当なの!?」
「お嬢様がご自身からご協力の意志を仰られたらお伝えするように、と託っています。危険ですので、私としてはあまり気乗りは致しませんが……」
帰ってきた予想もしていなかった答えに、はしたなくも思わず大きな声を上げてしまう私。
オーロヴィア様からの言伝とは一体どのようなものだろうか。
「まずは、一月程すれば待機指示が解けるはずなので、可能ならば実家に戻った方がいい、とのことです。恐らく実家から呼び戻されるだろう、とも仰っておられました」
「分かりました。では、すぐに戻れるように準備をしておかなくてはね」
家具などは全て備えつけのものなので荷物となるのは主に衣服の類だけれど、それなりの量があるので馬車に積むまでに準備を始めてから丸一日以上の時間が必要になる。
事前に用意をしておかなければ、すぐに実家に戻ることなど不可能だろう。
「それから、道中の護衛はクラスティリオン様に頼みにいくように、だそうです」
「第三騎士団長様に?」
その理由が分からず、思わず首を傾げる私。
確かに学園の生徒の往路と復路の護衛に当たるのは第三騎士団だけれど、わざわざ騎士団長様のところにお願いに行く必要はないのではないだろうか。
以前、伯爵様が護衛を要請する手続きなどは学園側が行っていると仰っておられた。
「通常の手続きで要請しても、戦時による人員不足を理由に護衛を断られるでしょう、と。ですが道理を重んじるクラスティリオン様であれば騎士を回してくれるはず、とのことです」
「戦時?」
返ってきた答えに、私は意表を突かれて訝しむ。
確かに陛下が崩御し、王位を受け継ぐべき王太子殿下が罪人として追われている現在の情勢は緊急事態ではあるものの、私が生まれる前からこの国で戦争は起きていない。
まさか混乱に乗じてまたラーゼリア王国が攻めてくるのだろうか、私は内心で不安に襲われる。
「それに関してはまだ詳しくは話せないと仰っておられました。当面の言伝はこれくらいです。最後に、私は大丈夫だから心配しないで、と」
「……オーロヴィア様」
その言葉を耳にして、何だか彼女が手が届かない場所に行ってしまうような気がして胸中に寂寥感が広がっていく。
きっと、私には想像も出来ないような大きなことを為そうとされているのだろう。
「ありがとう、テオ。オーロヴィア様からのお言葉をよく伝えてくれました。私も、いつまでも思い悩んでなどいられませんね」
でも、だからこそ立ち止まってなどいられない。
何か少しでも彼女の役に立てるように、いただいた恩を返せるように頑張らなければ。
そんな決意を胸に、私はテオに微笑み掛けた。




