3. 青
昼夜を問わない強行軍は、どうやら私の身体に自分で思っていた以上の疲れを蓄積させていたらしい。
昼下がりにベッドに横たわったはずの私が眠りから醒めると、窓の向こうに見える空は未だに明るかった。
眠る前に目にしたのと同じ、ブラウンを基調にした上品な意匠のカーテンに木目が美しいオーク材のクローゼット、そして私が身体を預ける大きなベッド。
窓から差し込んだ日差しによって作られたそれらの影の角度から推察するに、ほとんど時間は過ぎていないようだった。
だが、あの疲れ具合から言って、僅か一時間や二時間程度の睡眠で意識が覚醒するはずもない。
まさか、とは思いつつも機械時計を取り出して確認すると、今は翌日の昼下がりであるらしい。
都合、丸一日近く眠っていた計算になる。
……まずい、檄文の草案の提出は今日の軍議だ。
文章こそ頭の中にある程度纏まっているものの、まだ清書には一切手をつけられていない。
あらかじめカルロに起こしてくれるように頼んでおくべきだっただろうか。
朝になれば上部の採光窓から光が瞼の上に差すので、それによって目が醒めるだろうと思っていたのだが。
とはいえ、幸いにも次の軍議は夜なのでまだ時間はあるし、よく眠ったおかげで頭は冴えている。
脱力した身体を起こし、私は自らの身長から見ていささか高めの椅子へと座り文机へと向かった。
それから三十分程で清書と見直しは終わり、私は手持ち無沙汰となる。
軍議が始まるまでおよそ六時間程だろうか。
学園であれば誰かしらと話したり書架から本を借りたりして退屈を紛らわせることが出来たが、ここではどちらにも不自由するのは仕方がないことだろう。
どうしようかと少しの間思索するが、ちょうどそのタイミングで外から扉が叩かれる。
「入って」
いきなり室内の扉を叩くのはカルロかクララしかいないので入るよう促すと、開いた扉の向こうからクララが姿を現す。
どうやら今しがたまで頼んでいた調査を続けていたらしく、その少女のような美貌には疲労の色が強く現れている。
「お疲れ様。無理をさせてしまってごめんなさいね。……座って」
今まで調査をしていたというのならば、かれこれ丸一日以上休んでいないということになる。
私は手にしていた万年筆を置いて円卓の方へと移ると、椅子を引いて彼に座るよう促す。
「眠らない訓練はしてるから平気だよ。お嬢様の瞳になるのが、俺の仕事だしね」
そう言って、椅子に腰を下ろすクララ。
自分も席について向かい合うと、ふっと微笑んだ、絶世の美少女のような表情がこちらを見つめる。
浮かんでいる疲れの色のせいか、その容貌にはどこかいつもとは違う妖艶さのようなものが伺えた。
「それで、調査の結果だけど、子爵は宰相達とは繋がってなかったよ。いろいろ探してみたけど、怪しいところは特に無かったし」
「ありがとう。申し訳ないことに今は何もあげられないけれど、それが可能になった暁には必ず貴方の功績には報います」
カルロもそうだが、二人は命も厭わずについてきてくれたというのに、そんな彼らに爵位も持たぬ今の自分では何も報いることが出来ないのが申し訳なく口惜しい。
彼らの働きに相応のものを与えるためにも、早く何かしらの戦功が欲しかった。
「では、ゆっくりと休みなさい。無理をさせてしまったから、明日は一日休んでいて構わないわ」
いくら密偵としての訓練を積んでいようとも、過酷な強行軍の後であれば疲労が無いはずはない。
長々と引き止めてしまうのは申し訳ないので、すぐにでも休むように伝える。
「じゃあ、ちょっと眠ろうかな……」
椅子から立ち上がりながら、そう呟いたクララ。
私がその立場であれば疲労で確かな歩調を保つことすら難しいだろうに、全く足元を乱していないのはさすがだった。
「お休みなさい」
「ああ。お休み、お嬢様」
クララが扉を開き、この部屋を後にする。
それを見送った私は扉の閉まる音を聞きながら執務机の方へと戻り、広げたままだった檄文の原稿を片付けていく。
紙を丸めて紐で縛るだけなので、その作業は数分とせずに終わる。
依然として手持ち無沙汰ですることが無いのは変わらないが、これからどうしようか。
しばし考えを巡らせていると、この数日は馬に乗ってばかりだったので、気分転換に庭を歩いてみるのもいいかもしれないと思い立つ。
そうと決まれば、いくら館の敷地内とはいえ屋外を歩くための相応の準備をしなくてはいけない。
先程まで眠っていて乱れた髪を直すため、私は紐を引きカルロを呼ぶ。
そして彼が来るのを待つ間に、椅子を室内に置かれた大きな姿見の前へと動かした。
外から扉が叩かれる軽い音が室内に響く。
「入って」
「お呼びでしょうか、お嬢様」
見事な礼を一つして、入室するカルロ。
「髪を結ってくれるかしら。気晴らしに、少し庭を歩こうと思うの」
私は椅子に腰を下ろすと、彼にそう伝える。
本来であればアネットの仕事であるが、彼女はここにいないので必然的に二人のどちらかに任せることになる。
どちらかというと手先の器用さの問題でクララの方が得意そうではあるが、疲れている彼をわざわざ呼び戻して付き合わせるなど論外だろう。
「失礼致します」
今は解いているので、伸ばしている金色の髪は腰の辺りにまで降りている状態だ。
彼は再度礼をすると姿見に向かう私の背後に立ち、そっと髪に手を触れさせる。
「手順は分かる?」
「アネット殿がしておられるのを何度か見ておりますので……大まかにならば」
結うとは言ってもそう複雑な髪型ではなく、私の場合は単に髪を後頭部の辺りで纏めている程度だ。
別にこの国では結わずに下ろしていても問題は無いし、都度髪を結う手間と時間を嫌って下ろしたままにしている貴族女性も多いのだが、私の場合は前世で戦場に出ていたために邪魔にならないよう髪を結っており、その癖が今でも残っているためだった。
「んっ……」
そうして私の髪が結い始められると、時折彼の指が肌を撫で、それに反応して反射的に背筋がぴくりと震える。
髪を纏めることに苦戦しているらしく、鏡越しに見る彼は随分と試行錯誤しているようだった。
それだけ集中しているためか、その頬は赤く染まっている。
かれこれ十年は共にいるので事前に予想は出来たが、やはりこの手のことは苦手らしい。
時折首筋を触れる彼の手がとてもくすぐったかった。
「ひゃんっ! く、くすぐったいわ、カルロ」
「も、申し訳ありません」
彼の指先が耳を掠め、思わず身体を大きく震わせてしまう私。
そう大きくはない声が他に物音の無い室内に響き、カルロしか聞いていないとはいえ羞恥に顔が熱くなる。
狼狽えていた様子の彼も、気まずいのか没頭するように作業に集中し始め、苦戦しつつも次第に髪が結い上げられていく。
そうして十五分くらいして、私の髪はいつものように纏められた。
苦戦したとは言っても、いつも結ってくれていたアネットでも五分は必要とする作業なので、それを初めてで十五分であればなかなかの手際なのではないだろうか。
椅子から立ち上がって姿見に近付き確かめるが、特にまずい点も見当たらない。
形が崩れている部分を軽く調整すれば十分だ。
「ありがとう、カルロ。初めてなのに頑張ってくれたわね」
「勿体なきお言葉です」
「では、行きましょうか。護衛は任せたわよ」
彼と共に部屋を出ると鍵を掛け、私は階段を降りて外へと向かっていく。
このところ殺伐とした日々が続いていたし、庭園を眺めるのは楽しみだった。
それなりの広さを持つ庭園をカルロと二人で歩く私。
春と夏のちょうど合間の季節である今、辺りには豊かな緑と多くの花が広がっていた。
比較的乾燥した気候であり梅雨の無いこの国には日本でよく目にしていた紫陽花は自生しないが、それでも花壇には様々な色彩の花々が咲き乱れている。
一番こちら側の花壇の中央付近にはオレンジのチューリップが大量に花を咲かせ、手前には白いゼフィランサスの群れ。
右の奥の方には、紅い芥子の花が植えられている。
そして、それを囲むように存在する、鮮やかな色の木々の生け垣。
ここからではそれに遮られて見えないが、きっと更に奥へと進めばもっと様々な品種が植えられているのだろう。
人の手によって作られた美術品もいいが、こうした植物が織り成す風景もまたとても美しいと思う。
「たまには、こうして植物に触れ合うのもいいものよね」
私は、傍らを歩くカルロに話し掛ける。
学園には一応花壇もあるにはあったものの、敷地の広さの都合のためかちょっとしたものがいくつか並んでいる程度だったので、こうして大規模な庭園に遊ぶのは随分と久しぶりだ。
「……懐かしいわ。小さい頃は、よく一緒に屋敷の庭で遊んだもの」
もうすっかり遠くなった記憶に想いを馳せる。
白を基調とした、母の手によって作られた家格に似合わぬ程に豪華な庭園。
あの頃は、カルロと共に頻繁に庭を遊び回ったりしていたものだ。
お互いに成長すれば、主と侍従という関係に縛られてどうしても単なる友人同士のようにはいかなくなってしまう。
なので、その前に共に振り返ることの出来る楽しい思い出を作れてよかったと思う。
「私の手を引いて庭園の噴水に飛び込んだり、あの頃からお嬢様は活発でいらっしゃいましたが……。気付けばこのような場所にまで来てしまいましたね」
「ごめんなさい、付き合わせてしまって。でも、これは私がしなくてはいけないことなの」
彼もまたその整った顔に微笑みを浮かべ、懐かしむように口にする。
二人で水面を覗いていたところ、バランスを崩して落ちてしまったのだったか。
全身濡れそぼって帰った後、母に怒られた覚えがある。
だがそんな日々も今や遠い昔、遂にこんなところにまで来てしまった。
アネットに命じて既に手は打ってあるので、仮に敗れたとしても実家に累が及ぶことはない。
オーロヴィア家の令嬢としてではなく一人の人間として、後の憂い無く戦うことが出来る。
「ねえ、もし敗れたら、私には構わずに逃げなさい。最後まで私に仕えることはないわ」
「……ご冗談を。お嬢様が敗れることなど考えられません。お嬢様の真意は私ごときには分かりませんが、きっと望みを叶えられると信じております」
「ありがとう。戦いが終わった後も……きゃっ!」
開けている周囲をふと強い風が吹き抜け、突然のことに思わずふらついてしまう。
前方に少し傾いだ私の身体を、向かい合って話していたカルロの腕が支えた。
奇しくも彼の腕の中に抱き留められるような形になった私。
風が止んだので離れようとするが、しかし背の方へと廻された腕が私を放さない。
「か、カルロ……?」
彼の胸板に預けるようになった頬に鼓動が伝わり、羞恥で自分の顔が熱くなっていくのが分かる。
何故離さないのかと訝しげに見上げると、彼はこちらをじっと見つめていた。
瞳と瞳が互いを映し合うと、カルロの腕に力が籠り私は抱き寄せられる。
「ちょ、ちょっと……」
「お嬢様こそ、どうかご自身のことを粗略になさらないでください。私はどこまでも付き従いますが、それでも力が及ばぬこともあるでしょう。もしも御身に何かあったらと思うと、心配でなりません」
「分かったわ。心配してくれてありがとう」
戸惑う私を抱き締め、カルロはそう口にする。
どうやら、心配してくれているらしい。
安心させようと、微笑みを浮かべて言葉を返す私。
そのまま会話は途切れ、他に人影の見えない庭園は木々のざわめきだけを響かせて静まり返る。
しばらくして身体が離れても、私達は互いに口を開くことなく共に花を眺めていた。




