1. 小さな行軍
晴れ渡った夜空に広がる満天の星を目印に、完全に日が落ちて闇の手に包まれた平野を小勢で疾駆する私達。
少し冷ややかな風が頬を打ち激しく髪を乱れさせ、遠い王都から届く幽かな光が瞬く間に後方に流れていく。
幸いにも集まった近衛兵達は皆自らの馬に乗って来ていた(そもそも騎乗でなければ宵の頃までにあの場所まで辿り着けないのだが)ので、こうして少数ながらも迅速な移動が出来ていた。
現宰相が動かせる中で最も足が速いだろう部隊は先刻壊乱しているので再編成にはそれなりの時間が必要だろうし、夜に紛れて移動しているうちはこちらの位置を捕捉することは困難だと思われるので、少なくとも二日程は追撃の心配はしなくても構わないだろう。
さすがに四日間飲まず食わずのまま行軍することなど出来ないので途中でどこかの村なり街なりで物資を補給する必要があり、そうすると敵に私達の位置が伝わるだろうから、それからは警戒しながら移動しなければならないだろうが。
王都からの追撃の手に追いつかれずとも、事態が広まっていれば現宰相に阿った現地の領主の私兵から襲撃を受ける可能性もあるのだ。
急な出来事だったために王子自身を初めとして剣こそ佩いていても鎧を着ていない者も多く、たとえ相手が弱くとも無用な犠牲者を出してしまう可能性は十分以上にある。
小さな領主の私兵程度であればこの戦力ならば撃退も容易いだろうが、ただでさえ数が少なく貴重な兵をこのような所で失いたくはないので、そのような心配があまり無い今のうちになるべく距離を稼いでおきたかった。
とりあえず、目的地であるカスタニエ子爵領に辿り着かないことにはどうしようもない。
日が地平の向こう側へと姿を消してから、時が過ぎるごとに少しずつ下がっていく気温。
耳元を通り過ぎる轟音と共に荒々しく肌を撫でる風がより体感温度を下げるが、季節的にもう真夜中でもそれ程寒くないのが幸いだろうか。
黒馬の背に揺られながらふと見上げた、闇の中で唯一私達に光を注ぐ星空の模様は当然ながら二百年前と全く変わっていない。
瞳に届く地球とは全く異なった配置の星座達の瞬きが、今私が生きているこの場所が異世界であることを如実に示していた。
転生という事象が実在するのならばそれ以上のどんなことがあってもおかしくはないので、この大地は地球と同じ宇宙にあるどこか異なった場所の星なのではないかと考えたこともある(異世界の存在を仮定するよりはそちらの方がまだ現実的だろう)のだが、昔宰相補佐の座に就任する前に設計図を描いて作らせた望遠鏡で天体観測をして天文図を作ってみたところ、私がいた時代の地球で知られていた恒星がこの国から観測されるような形に並ぶような座標は少なくとも地球人が観測可能な範囲の宇宙には存在しないことが分かったのだ。
数十億年もの時間を闇の中で孤独に輝き続ける恒星達の配置が大きく変化することなどまずあり得ないので、ここは異世界である可能性が高いと自分の中で結論付けていた。
もっとも、ここが本当に別の星であり、単に死んでから転生するまでの間に星座の配置が変わってしまう程の長い年月が過ぎているだけであるという可能性もゼロではないが、いずれにせよこの場所から地球への接触が不可能であることだけははっきりしているのだからそれ程大きな違いは無い。
ここが異世界であろうと別の惑星であろうと、銀色に煌めく星空は地球から見上げていたのと変わらず美しいのだから。
「止まれ」
静かな闇夜には、物思いに耽ることが多くなる。
そろそろ村がある位置に差し掛かるからだろう、土を蹴る馬蹄の響きと向かい風のざわめきを耳にしながら考え事をしていた私の隣で、併走していた王子が命を下す。
それに従い、まるで神経の通った一匹の生き物のようにぴたりと陣形を揃えたまま疾走を止める軍勢は、さすがによく訓練されているのだと分かった。
体重を預けている黒馬はとても賢いので、乗り手である私の意思を読み取り軍勢に合わせて止まってくれる。
全員が停止すると馬蹄の音はもちろん無くなり、激しく吹いていた向かい風も途絶えて他に何も無い周囲は無音に支配された。
左手の少し離れた先にある森の木々の葉が揺れる音が稀に聞こえ、前方のやや遠くには炎の赤い明かりが揺れている。
「どうしようか?」
「物資のみ補給し、今夜は休まず距離を稼ぐべきかと存じますわ」
この辺りはまだ王家の直轄領(つまり実質現宰相の支配下であるということだ)であるし、安心して心身を休めるにはここではいささか王都に近過ぎる。
物資の補給はこの先の村で出来るとは限らないので今のうちにしておくべきだろうが、休息は日が昇ってからでも構わないだろう。
「それもそうだな。―――ディートハルト、村に行って物資を買い受けてこい。向こうが出した分だけでいい、決して略奪はするなよ」
「御意」
王子から金貨の入った袋を受け取ると、新たな近衛隊長は兵に何か声を掛け数騎を引き連れて村の方へと向かっていく。
全員分の食料はまず手に入らないだろうが、飲み水に関しては潤沢に手に入れてきてくれるだろう。
姿を消した彼らの帰りを待ちながら、私は瞼を閉ざして今後の行動について考えを巡らせた。
そして再び出発した一行は、長い疾駆の末に次の村へと辿り着く。
途中でいつぞや王子から貰った機械時計を取り出して時間を確かめていたが、あれから半日近くは行軍したのでもう完全に夜は明け太陽が高く昇っている。
元々十分な準備すら出来ていない行軍であるし、さすがにこれ以上休まずに進み続けるのは厳しいだろう。
なるべく姿を隠すことを考えれば夜に行軍した方がいいということもあって、この村で休むこととなった。
水や食料と建物の提供を求め、再び金貨の袋を手に交渉へと向かう近衛隊長達。
彼らの背を見送りながら、私はもう一つ提案をする。
「村人にも暮らしがありますし、恐らく我ら全員の空腹を満たす程の食料は手に入らないでしょう。密偵部隊の訓練にもなるでしょうし、森で獣を狩らせてみては?」
近代以前の文明水準であるこの国において、人々の暮らしと森とは決して切り離すことが出来ない。
特に都市部から離れた村であれば尚更であり、当然村の周囲には森が鬱蒼と広がっている。
森の中を探せば猪くらいいるだろうし、せいぜい十頭もいれば全員の口を糊すには十分だ。
また、起伏が激しく障害物に満ちた森という場所を駆け回ることは密偵になるためにクララの下に付けられた者達にとってもいい訓練になるはずだ。
「俺も行こうか? 獣の一匹や二匹に遅れは取らん」
「大切なお身体です。どうか殿下はお休みになられてください」
性格から考えて事前に予想は出来ていたが、狩りに行くと言い出した王子を止める私。
戦場で剣を振るうのは仕方が無いにしろ、ただでさえ無理をしてここまで駆けてきたのだから大人しく休んでもらわなくては困る。
ありがちな言い方だが、私も含めここにいる百人の命が掛かっておりもう王子一人の身体ではないのだ。
「クララ、聞いていた通りよ。これから獣を狩ってきて頂戴。貴方達も休まなければいけないから、十分な量が取れなくても無理はせずに戻ってきて」
「畏まりました、お嬢様」
王子を押し止めた私は、そのまま振り返りすぐ後ろに控えていたクララに指示を出す。
彼は頷くと馬から降り隣にいたカルロに預け、部下の兵達を引き連れて森の中へと入っていく。
兵達の技量は未知数だが、いざとなればクララ一人でも獣を倒すことくらい簡単だろうから今夜の食事の心配は無用なはずだ。
彼らを見送ると、まるでそれと入れ違いになるようにディートハルトが戻ってくる。
「殿下、交渉を纏めて参りました。食料はあまり出せず、また建物は一軒しか供出出来ないそうです」
「収穫期前なのだから仕方がないだろうな。それは構わん」
東の国境付近に十万単位の友軍がいるとはいえ、現時点ではこちらはたった百人程度の小勢しかいないのだ。
この状態で無為に敵を増やすのはあまりにまずいということで、武力を背景とした強引なことはしないよう王子とは既に話し合ってあった。
「では、私は諸事の手配を致しておきますわ。殿下は先にお休みください」
村に着いたからといって、当然そのまま休めるはずもない。
いや、通常であれば休めるのだが、今は事務や補給の仕事を担当する文官がいないのでそれらの役目は私がするしかないのだ。
元より一つの場所にそれ程長い時間滞在出来るはずもないので、手早く諸事を済ませておかなければならない。
「任せよう。終わったらお前も俺のところに来るといい。女を外には寝かせられん」
「殿下にお心を砕かせてしまい恐縮ですが、恐れながら私ごときが殿下の休息を乱す訳には参りませんわ」
王子に自らのところで呼ばれるが、百人もの人間が全員建物に泊まれるはずもないので兵達は村の広場かどこかで野営をすることになることは分かりきっていたし、私も適当にどこかその一角で身体を休めるつもりだったので遠回しに断っておく。
別に率いている軍勢と共に屋外で野営をした経験など何度もあるし、たとえ普段豊かな生活を送る貴族であっても戦時であれば兵達と同じように野営をすることくらい普通のことだ。
ただでさえ休める時間は少ないのだから、彼にはきちんと休んでおいてもらわなければ。
「……楽しみは即位した後に取っておくのも一興か」
彼は私の答えを耳にすると一つ舌打ちをし、真意の読み取れぬ呟きを口にする。
何かまずかっただろうかと思い顔色を伺うが、特に気分を損ねたような様子はないので問題は無いだろう。
「これより村で休息を取る。皆、到着したら野営の準備をするように」
そして王子がそう命を下すと、それに従って一行は短い距離ながらも村へと向け進軍を再開した。




