0. プロローグ
追撃部隊を退けた私達は、クララが周囲を偵察して発見した、山脈を少し登ったところにある山小屋に入ってしばらく身体を休めていた。
昔猟師か何かの生活に使われていたことがあるのか、或いは追われていた罪人が隠れ住んでいたのか、屋内には以前に人が暮らしていた痕跡があり、食糧を除けばある程度生活用品も揃っている。
とはいえ、窓の桟や棚の上を見れば既に埃が溜まっているので、つい最近まで誰かが住んでいた訳ではなさそうだ。
数年前、或いは十年二十年前のことなのかもしれない。
いきなり襲われたためにその武勇を以てしてもどうにか逃れるのがやっとであり、王宮の中に滞在していた際に従えていた従者や近衛達は全滅してしまったらしく単騎でいた王子だが、先程からは学園に控えていたりそれ以外の場所にいたりした残りの者達が彼の後を追って少しずつ集まってきつつあった。
そのためにそれなりの広さを持った室内にはしかし適正以上の人数の人間が犇いており、心なしかかなり狭く感じてしまう。
本来ならば王子の近衛は真っ先に動きを抑えられていて然るべきところなのだが、きっとルウが脱出したことで生まれた隙に乗じて王都から脱出することが可能だったのだろう。
彼らの一人から話を聞いたのだが、どうやらルウが王都を脱出したのは間違いないらしい。
まだちらほらとこちらの方へと集まってきているが、この小屋は周囲を木々に囲まれていてまず麓からは視認出来ないので、誘導するためにクララと数人の従者が外へと降りていた。
万が一敵兵に見つかったとしても、彼ならばこの小屋が見つからないように上手く振り切ることが出来るはずだ。
ちなみに、いくらクララが優秀な密偵だといえども一人だけではこの先の内戦を乗り切ることは不可能なので、今回共に付けた者達はそのまま彼の元で密偵としての訓練を受けることになっている。
今は僅か数人だが、戦いに勝利して王子を正式に即位させねばならないことを考えればなるべく早いうちにもっと数を増やしておきたいので、人を集めるための方策も考えておかなければならないだろう。
それだけでなく、そのままクララが密偵達を束ねる立場になることはまず間違いないだろうが、その上に立って彼らを統括する権限もどうにか手に入れておきたい。
もちろん何もせずとも向こうから権限が転がってくるはずもないので、そのためには王子やこれからこちらの陣営に参じるだろう他の貴族達を相手に交渉や工作をしてどうにか勝ち取る必要があるのだが、今の私には兵力や政治力や金銭などの先立つものが何も無いので、不可能ではないにしろかなり難しい交渉になることは容易に予想出来てしまう。
その辺りの対策についても、追々考えておかなければ。
王子の近衛部隊は一万人程度の規模であったようだが、国の実権を完全に現宰相に奪われている現状で王子に忠誠を誓う者は元々それ程多くはなく、多大なリスクを犯してまでこちらにつくのはおよそ百人程度だろうというのが彼の予想だった。
それに関しては、このような情勢にもかかわらずこちら側に味方してくれる者が百人もいるということを喜ばなければならないだろう。
誰の目にも勝敗が明らかであるのに敢えて劣勢の側に立つ者は、それだけ義理に厚い者か、自分の能力に自信があるにもかかわらず機会に恵まれず燻っている者かのどちらかだ。
忠誠も才能もどちらも得難いものであるし、普段はなかなか見つけ辛いような人材を探す機会であると考えればそう悪くない。
だが、人材というものはそれを生かすための兵や領地が無ければ単なる等身大の人間でしかないので、そのどちらも絶対的に不足しているこの状況がまずいことには変わりがなかった。
無いものはどこかから手に入れなければならないのだが、現状ではその当てすらも無い。
とはいえ、それ程悲観はしていなかったりする。
一見絶望的な戦況であるように思えるが、これから辺境伯家が挙兵することは分かっているのだ。
王子の名前で挙兵を呼びかけたとしても、今の時点では現宰相の兵力を恐れて誰も挙兵しないだろうが、国内で唯一対等に近い力を持つ辺境伯が旗色を鮮明にすればそれだけで趨勢は大きく変化することになる。
王家に忠誠心を持つ者や長年の現宰相一派による政権の下で不遇を囲ってきた者達はこちらに味方するだろうし、そうではない貴族の中にも勝ち馬を見極めるために兵を出さず中立を保つ者が出てくるだろう。
それでもなお全体の兵力で見ればこちらがかなりの劣勢であることに変わりはないが、あまりに大きな差が少しでも縮まるというだけでもずっと気分は楽になる。
「何方にいらせられるおつもりですか?」
私は、室内にあった机を挟んで正面に座る王子に尋ねる。
ちょうど今は、これからの方針を決めるための軍議の最中だった。
とは言ってもこの場に貴族身分の人間は私しかいないので、実質二人での相談なのだが。
平常時であれば爵位持ちですらないただの令嬢である私が学園の外で王族である彼と同じ席を囲むことなどあり得ないが、この場が軍議という形を取っていることと、最初に参じたという功績によって同席することを許されているのだ。
この先も戦いの中で功績を挙げていかなければならないことを考えれば、まず軍議に参加出来なければ話にならない。
クララのおかげで一番乗り出来たのだから、事態が収束したら何か恩賞も必要だろう。
それはさておき、現在は一時的にこの小屋に滞在しているものの、まさかいつまでもここに留まっている訳にはいかない。
王子が上手くルウを逃がすために敢えてこちらの方向へと逃れたことは分かったが、だとすればその後どこの領地に逃げ込むかはあらかじめ決めていなければおかしい。
今後の王子の陣営全体の、そして私個人の方針を考えるためにも、目的地がどこなのかはぜひ聞いておきたかった。
「カスタニエ子爵の屋敷だ」
慣れていなければ思わずたじろいでしまうだろう鋭い眼光でこちらを射抜きながら、そう答えを返した王子。
確か、カスタニエ子爵家の領地はここから南に馬で四日程行ったところにあったはずだ。
問題は食糧や水など誰も持っていないのでその間の分を道中の街なり村なりで補給しなければならないということだが、まあ仕方があるまい。
事ここに至れば、もう前にしか道は無いのだ。
「畏まりました。では、出立の準備を整えておきますわ」
「ああ、任せる」
他の貴族がいればこうはいかないとはいえ今は二人だけなので随分といい加減な調子だが、ともあれ軍議は終わり席を立つ私。
夜までこの場で近衛の集結を待ち、それから夜陰に紛れて山を出るというのが基本的な方針だった。
その時になって手間取らないよう、新たな親衛隊長を任命したりして今のうちに軍としての組織を整えておかなければならない。
「貴方達、今から外に出て整列しなさい。並び順は適当でいいわ。カルロ、手伝って」
「御意」
屋内を見回しつつそう告げると、広い小屋の中を埋め尽くしそうになっていた近衛の兵達が扉の前に並びながら順々に屋外へと出て行く。
後に続いて私も外へと出ると、時間も時間なのでそろそろ空が紅く染まりかけてきていた。
王子の近衛を務めていただけあって訓練は行き届いているのか、既に彼らは整列を終えかけている。
既に約百人程は集まっているだろうその隊列を端から眺めていく私。
「そうね……。そこの貴方」
「はっ」
そして、私は中でも一番強そうな兵を指して声を掛ける。
剣を振るう姿を見たことがある訳でもなく、ただ立っている姿を眺めて判断しただけなのでその実力の程は未知数ではあるが、過去に剣を振るったことがあればある程度勘で分かるものだ。
カルロも特に異論を唱えていないし、判断は間違っていないだろう。
低い声で返事をして跪いたのは、一見四十歳くらいに見える無精髭を薄く生やした男だ。
決して整っている訳ではないが精悍な顔つきに、跪いていてなお立っている私と目線の高さがそう変わらないくらいの体格のよさが印象的だった。
恐らく、かなりの長身である王子と比べてもそう身長は変わらないのではないだろうか。
「名前は?」
「ディートハルト・クレヴィングと申します」
「分かったわ。では、貴方に家族はいるの?」
「はい。妻子を故郷のブライプトロイ家領に残してきております」
王族の親衛隊や近衛隊の隊員は一般兵ではなく騎士身分に当たるので、一応は公式の場である今でも貴族である私と会話を交わしても特に問題は無い。
というか、爵位持ちである訳でもなくただの貴族身分であるに過ぎない今の私は平の騎士とほぼ同格なので、別に話すのに跪いたり敬語を使ったりする必要は無いのだが、この反応はもしかすると私が王子の愛妾か何かだと勘違いしているのかもしれない。
わざわざ誤解を解いている暇がある訳ではないのでそのことは今は置いておくとして、私の問いに彼は妻子がいるとの答えを返す。
ブライプトロイ侯爵家といえばそう広い領地を持っている家ではなかったと思うが、確か現宰相に近しい家柄であったはずだ。
「今の私は殿下から一時的に親衛隊の編成権を委任されているわ。その権限で貴方をこの部隊、新しい親衛隊の隊長に任命しようと思うの。親衛隊長ともなれば、敵からも味方からも多くの目を浴びることになるでしょう。もしかすれば、故郷の妻子を人質に取られる可能性もあるわ。その時、妻子を見殺しにしてでも殿下を護り抜く覚悟があって?」
「無論です。お言葉ですが、その覚悟が無ければこの場に参じてはおりません」
王都にいるという訳でもないのだからわざわざブライプトロイ家の領地を探してまで人質を取ってくる可能性はそう高い訳ではないが、それでも最悪の事態が起きた時のことを考えておく必要はある。
そして、男は即答で言葉を返してみせた。
確かに彼の言う通りだろう。
身を惜しむ者がわざわざこんな所まで来るはずはない。
「分かりました。では、ディートハルト・クレヴィング。貴方を、ベルフェリート王国が王太子、レオーネ・レストリージュ殿下直属の近衛隊長に任じます。身命を賭して励むように」
「はっ。身に余る大任ですが、全力で務めさせていただきます」
「簡易的になってしまったけれど、叙任の儀はこれで終わりね。早速だけれど、親衛隊を二部隊に分けて中隊長を二人つけて、その上に貴方が立つ形にしようと思うの。何か異論はあるかしら?」
「いいえ、私もそれが最善かと存じます」
「それでは、貴方の方で中隊長を二人選んでおいて。隊の配分も任せます。……ああ、カルロ、今のうちにクララ達を呼び戻してきて頂戴」
「畏まりました」
中隊長は彼の元で働くことになるのだから、使う本人が選んだ方がいいだろう。
麓へと小走りで降りていくカルロの姿を横目で見つつ、私は小屋の方を振り返る。
話しているうちに西空の紅はいつしか闇色に沈みつつあり、辺りはすっかり薄暗くなっている。
「では、私は一度殿下に報告しに戻ります。しばらく後に殿下がお目見えになるので、それまでに済ませておくように」
「すぐにでも済ませておきます」
「殿下に正当な王位へとお戻りいただけるよう、共にこれから励みましょう。それと、別に畏まらなくてもいいわ。私は殿下の愛妾ではないから」
兵達には既に訓練が行き届いているようなので、然程編成に時間は掛からないはずだ。
最後にそう伝え、私は木造の小屋の扉を開き中に入った。
室内では、椅子に腰を下ろした王子が机上に頬杖を突いて物思いに耽るように目を閉じていた。
しかし、床が微かに軋む音と共に私が近付いていくと、彼はゆっくりと瞼を開く。
「殿下、編成は終わりましたわ」
「……そうか」
跪いた私は、そう報告する。
それを聞いた王子はしばらく沈黙した後に一言だけ呟くようにそう口にすると、椅子から立ち上がった。
元より大きな身長差があるので、私からだと彼を大きく見上げる形になる。
「さあ、参りましょう。我等、身命を賭して殿下の覇道を斬り開いてみせます」
「そうだな。お前を得られたことが俺の最大の幸運だろう。これから、しっかりと働いてもらうぞ」
「無論ですわ」
彼が扉を開いて外に出ると、私も立ち上がりその後を追う。
自らの主の姿を目にし、一斉にその場に跪く近衛隊の兵士達。
そんな彼らの眼前で、王子は扉の脇に繋いであった自らの馬に飛び乗る。
「征くぞ。進路は南、カスタニエ子爵領だ」
然程大きくはなく、しかしここにいる全員の耳に届くような声で指示を出して、彼はゆっくりと馬を麓への道へと歩かせる。
遅れてはならじと次々と自らの馬に乗っていく兵達。
私も王都から乗ってきたこの場においても特に目立つ巨体の馬に乗ると、王子の後へと続く。
すぐ後ろにはやはり騎乗したカルロとクララ。
王子と私を囲むように近衛隊が布陣し、それが終わると疾駆を始める一団。
今はまだ少数だが、確かにこの場に変革の息吹は宿っている。
これから王子の覇業が、そして私の戦いが始まるのだ。
そう考えると、確かに自分の中で感情が昂るのを感じていた。




