21. 逃亡
それから数日が過ぎた。
教室にていつものように伯爵の授業を受けていた私。
柔らかなソファーに身を沈めつつ国史に関する講義を聞いていると、入り口の扉が音を立てて乱暴に開かれる。
そして広い室内全体に響く叫び声。
「ベルクール閣下!」
「今は講義中だ。静かにしていてくれ」
少し表情を顰め、そちらを向いて口にする彼。
その視線の先には、全力で走ってきたのか息を切らせた学園の使用人らしい男が立っている。
伯爵の言葉にもかかわらず、その男はなおも口を開く。
「緊急です、陛下が崩御なさりました! 本日の授業は即座に中止、総員居室で待機せよとの学園長よりのお言葉です」
彼が発したのは、確かにその慌てようにも納得出来るような言葉だった。
同時に、ざわめく室内。
現ベルフェリート国王、フレシュエン・レストリージュが崩御したらしい。
いくら宰相達に実権を握られているといえども、少なくとも形式上この国の頂点に立つ人間であることには変わりない。
今頃は、王都中が喧騒に包まれ始めているだろう。
「ふむ……。分かった、下がりたまえ」
「はっ、失礼致します!」
他の教室にも伝えに向かうためか、またも乱暴に扉を閉めるとそのまま姿を消した男。
普段であれば、学園内で使用人がこのような態度を取れば処罰されてもおかしくはないが、しかし国王の崩御を伝えるという目的のためならば許される。
そして、伯爵はざわめき浮き足立った様子の生徒達の方へと向き直る。
「静まれ」
全く慌てた様子を見せず、普段と変わらぬ深みのある声と口調で発せられた言葉。
僅か一言であったにもかかわらず、それは室内に渦巻いていた動揺を見事に鎮めてみせた。
「陛下が崩御された。授業はこれにて中止とする。皆、すぐに自室に戻るように」
事務的な伝達を済ませると、身を翻して部屋の外へと歩いていく伯爵。
その姿が見えなくなると、重石を取ったように再び生徒達の間から喧騒が湧き出してくる。
飾り物状態だったとはいえ、王が死んだとなれば情勢がこの機に揺らいでもおかしくはない。
ひとまず指示された通り部屋へと戻り、いつでも動けるように準備を整えておくべきだろう。
席を立つ私。
それに合わせたように、共に座っていたセリーヌ嬢とユーフェルも立ち上がる。
「これからどうなるのでしょうか……」
不安げに口にする少女。
扉を開き廊下に出ると、他の教室からも寮に戻る生徒の姿がちらほらと現れ始めていた。
あまりこの場に留まっていては、混雑に巻き込まれてしまうだろう。
足を速める私達。
「少し前からご体調が優れなかったみたいだからね。きっと、万一の時の備えはされてるんじゃないかな」
「そうなのですか?」
ユーフェルが、まるでこの突然のニュースを予期していたかのような言葉を発する。
興味を抱き、私はそれについて尋ね返してみた。
「まあ、王宮内で流れてた噂だから本当かは分からないよ」
「随分とお詳しいのですね」
そういった噂が流れるということ自体、それだけ王の容態が悪かったという証拠だ。
どのような病だったのかは分からないが、噂は恐らく本当だろう。
それよりも、何故彼がそのようなことを知っているのかに興味を惹かれた。
まだ学園を卒業していない者は貴族階級であろうとも基本的に王宮には入ることを許されない。
余程の大貴族の子女ならば別だが、私達のような小貴族の子女が王宮に流れている噂などを何故知っているのかが不思議だった。
「たかが噂話とは言っても、ご婦人方の情報網は侮れないからね」
「……なるほど」
ああ、そのためか。
貴族家の当主夫人であれば、家の爵位によって許される場所の差こそあるものの王宮に入る権利は皆持っている。
彼女らは茶会などをして互いに交流していることが多いので、必然的に噂話の類も流れやすいのだ。
噂話とはいえ、当然その中には多分に事実が含まれている。
上手く取捨選択が出来ればそれらを基に王宮内における正確な情勢を見極めることも可能であり、事実として貴族間の政争においてもそういった噂の数々は重要な判断材料の一つとなっていた。
この子の場合、恐らく口説いた相手との談笑の中で噂を耳にすることが多いのだろう。
「で、でも今はサフィーナちゃん一筋だから!」
入り口を通り抜けて、教室があった建物から外へと出る。
折りしもその時、しまったというような表情を浮かべたユーフェルが少し焦燥の色を浮かべつつ口を開いた。
「ご自由になされればよろしいと思いますわ」
そう返す私。
もちろん貴族の全員がそうではないにしろ、前世でもこの子のように盛んに夫人や令嬢達と浮き名を流す者はそれなりにいたのだ。
互いに合意の上のことであるならば別に構わないだろうし、彼のプライベートに口を出そうとも思わない。
好きにすればいいのではないだろうか。
「も、もしかして怒ってる?」
「……どうして私が怒るのですか?」
質問の意図が掴めず、考え込みつつも逆に尋ね返す私。
これまでの会話に特に私が怒らなくてはならないようなことなどなかったはずだが、一体何だろう。
その後も何やら、顔色を青くして焦った様子を見せていたユーフェル。
彼とその調子で会話を交わしつつ、私達は寮へと向けて歩き進んだのだった。
セリーヌ嬢、そしてカルロと別れ、自室へと戻った私。
この状況では特に出来ることもないので大人しく部屋で待機していることになるが、とはいえその前に一つだけやっておくべきことがある。
私は紐を引いて鐘を鳴らし、クララを呼び出す。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
すぐに扉が開かれ、その向こうから姿を現したクララ。
彼の華奢なシルエットの身体には、母がデザインしたというとてもセンスのいい我がオーロヴィア家の使用人用の服が纏われている。
いくら身分が低い使用人であるとはいっても、各家によって纏う服が違う以上はその質やデザインも他の家との比較対象になり得るし、ということはそれもまた家格の評価に繋がる要素の一つなのだ。
貴族は見栄を何より重視する生き物であるし、家格を高めることには皆心血を注いでいる。
故にこの国の使用人達の暮らしぶりはかなりよく、使用人としてどこかの家に雇われることが平民の間では憧れとなっていた。
もっとも、大貴族ならば全く問題は無いが小貴族にはそうした出費も大きな負担になる。
故に領地の狭い小貴族はどこも貧乏であり、当主は官吏として働くことになっているのだ。
そんな事情もあって、母が手ずからデザインした服を着て姿を見せた少年。
純粋に男物の服なので相当な女顔である彼には似合わないはずなのだが、不思議と違和感なく着こなしてみせていた。
母のデザインがいいのか、或いはこういった着こなしもまた密偵としてのスキルなのか。
恐らくは両方だろう。
「陛下が崩御されたそうよ。王宮の様子を探ってきてもらえないかしら」
私は、彼にそう命じる。
実権は現宰相が握っているので体制の動揺などは無いだろうが、しかし王の死という大きな出来事は大きかれ小さかれ混乱を引き起こす。
現在の情勢を把握しておくためにも、クララを送り込むことにしたのだ。
「お安いご用さ。早速準備をするから、部屋に戻ってもいい?」
「ええ、もちろんよ」
私が頷くと、そのまま室内を後にした少年。
これで、彼が戻るまではもうすべきことは特に無い。
自室で待機と言われている以上外に出る訳にはいかないのでどう時間を潰そうか束の間思案し、結局紅茶でも飲んでおくことに決める。
再び私は紐を引き、今度はアネットを呼んだ。
そして、農政論の本を読みながら茶を嗜んでいると、クララが突然開け放っていた窓から室内に飛び込んでくる。
「あら、お帰りなさい、クララ。……ここでは靴を脱がなきゃ駄目よ」
「それどころじゃない! 王宮内で王太子殿下が暗殺されかけた!」
私は、そんな少年に声を掛ける。
しかし彼はひどく慌てた様子で窓を閉め切ると、耳を疑うようなことを口にした。
確かに、王が死んだとなればその嫡子である王子は王宮に戻っているはずだ。
「殿下が!? もっと詳細に報告して」
「宰相が引き連れてきた私兵が王宮の廊下でいきなり殿下に襲い掛かった。殿下はその場で十人近くの兵を斬って王宮の外に逃亡、宰相は自分の私兵に命じて追撃させてるみたいだ」
「ありがとう」
ひとまず、王子が無事だったことに内心で胸を撫で下ろす私。
言うまでもなく、私の計画は彼がこの国の正統な王位継承者であるという大義名分に拠っている。
王子が害されてしまえば、それで全て終わりなのだ。
とはいえ、まだいくつも疑問点は残る。
「何故ベルファンシア公は殿下のお命を?」
「分からない。宰相は何も言ってなかったし、いきなりだったから」
「……そう」
クララの返答を聞いて、また私は思考に耽る。
王太子である彼は、王の死により名目上とはいえ現時点でこの国の最高権力者となっているのだ。
その権限を使って宰相を排除しようとしたとでもいうのならともかく、そういったこともなくいきなり襲撃したともなればそれ相応の理由が無いはずはない。
最悪の想像が頭を過ぎる。
まさか、立てていた計画が発覚した?
そうであるとするならば、座してこの部屋にいるのはあまりに危険過ぎる。
いつ兵が押しかけてもおかしくないし、そうなればまたいつかと同じように処刑されるだけだ。
「クララ、殿下は今どちらに?」
「強引に馬を奪取して、単身で西方に逃走。お嬢様に事態を報告するのを優先したから、あまり正確には把握出来てないけど」
内心で決意を固めた私。
計画が発覚した可能性がそれなりにあり、しかも唯一の旗印である王子はこの上ない窮地に陥っている。
となれば、完全に宰相を敵に回してしまうが彼を助けに行くべきだろう。
ピンチはチャンスと言うが、窮地に一番に駆けつけたとなればそのことは窮地を逃れることさえ出来ればだがとても大きな功績となって返ってくることになる。
窮地に一番に参じた者、という名誉があれば王子の側近としてその後の展開を舵取りすることも難しくはない。
どちらにせよ、計画が洩れていないという確証が無い以上私に選択の余地は無いのだ。
私はクララに王子の逃亡先を尋ねると立ち上がり、カルロを呼び出す。
「失礼致します、お嬢様」
「カルロ、クララ。今からヴェルトリージュ様の元に向かうわ。……ついて来なさい」
「畏まりました」
「仰せのままに」
計画の一端を担っていたのはルウだ。
同じく身の危険がある彼にも状況を伝え、可能ならば共に助けに向かうべきだろう。
そう二人に告げると、言葉端から私の決意を読み取ったのか腰を折って深く礼をした彼ら。
そして私はアネットに急ぎ領地に戻るよう一声命じ、どのような結果に終わろうともう戻ることの無いだろう自室を後にしたのだった。
現在、事態は一刻を争う。
そして、自室待機という指示が学園側から出ている以上、教師に見つかれば説教をされ部屋に連れ戻される可能性もある。
そんなことに時間を取られている暇など無いので、私達は全速で無人の廊下を駆け抜けていく。
うかうかとしていては、寮の王子の部屋に兵が来るかもしれない。
ルウも同じ寮に住んでいるのだから、彼も脱出せねばならないことを考えればそれより先にやり取りを交わしておきたかった。
床一面を覆う高級な絨毯を踏み締めつつ、渡り廊下を進む。
王家の威光を知らしめることを目的の一つとして作られた王立学園の寮であるから、個々の部屋はとても広い。
ということはその分建物の規模も大きく廊下も長く、なかなか目指す場所までは辿り着かなかった。
廊下に飾られた高い彫像の数々にぶつからないよう気をつけつつ走り続ける私。
体力の無い身体のせいで息が激しく乱れるのも、気にしてなどいられない。
そのまましばらく走り続けた後、ようやくルウの部屋の近くへと到着する。
重厚な作りの扉を叩く。
束の間待つと内側から扉が開かれ、何度も教室で姿を見た覚えがあるヴェルトリージュ家の制服を纏った使用人の男が姿を見せる。
もちろん、敢えてこの王立学園に入学したルウに付けられた使用人達が只者であるはずはない。
彼らの身のこなしは洗練されていて隙が無く、護衛の役目を兼ねていることは容易に想像出来た。
「ヴェルトリージュ様に会いに参りました。火急よ」
「畏まりました」
そして、用件を尋ねてきた男に対し私はそう告げる。
傍から見ればいきなり押しかけた形なので止められてもおかしくないと思っていたのだが、意外にもあっさりと室内に通される私達。
カルロとクララをその場に待たせて主の部屋に入ると、そこには椅子に座って本を読むルウの姿があった。
家具類は部屋の備品であって彼の体躯に合わせて作られたものではないため、足が床につかずにぶらぶらと両足を揺らしているのが可愛らしい。
扉が開いた音に反応するように、私に背を向けていた少年が座ったままこちらを振り向く。
「どうしたの?」
口を開くや、首を傾げてそう尋ねてくるルウ。
その動きに合わせて、片目を隠すように伸びた彼の長い灰髪が揺れる。
「殿下が王宮内で現宰相の私兵に襲撃され脱出、現在は西の方向に逃走されているそうですわ」
「……そう」
初対面の人間には絶対に分からないだろう程に僅かながらも、ルウは一瞬だけその表情に驚きの色を浮かべさせる。
しかしその感情の揺らぎはすぐにいつも通りの無表情の中に吸収されて姿を隠す。
とはいえ、今も現在進行形で彼の無表情の下では無数の思考が巡らされているのだろう。
この子は実家で教育を既に受け終えた、言うなればもう当主に何かあれば爵位を継ぐことも出来る一人前の貴族なのだから。
「私は、このまま殿下の元に参じます。ルウも共に来ていただけませんか?」
いくらカルロとクララが飛び抜けた技量の持ち主であり、王子自身も超一流の武人であるといえども、しかし軍勢を相手にすることになれば三人だけではあまりにも心許ない。
もしかすると王子も逃走しながら自らの従者を呼び集めているかもしれないが、それを勘定に入れてもまだ不足だろう。
ルウの従者は精鋭揃いであろうし、是非ともその力を借りたかった。
「僕は領地に帰る」
「しかし、それでは殿下のお命が危険ですわ」
だが、灰髪の少年はそう口にする。
間違っても今、旗印である彼に死なれてしまう訳にはいかない。
まるで王子を見捨てるように自領への帰還を宣言したルウを引き止めようと試みる私。
「レオンが殺されたら、その時は国王を弑逆した者を討つ大義名分が立つ。……絶対に宰相を倒すってレオンと約束したから」
だが、それに返された答えを聞いて私は彼の説得を諦める。
どうやら、私にとっては死活問題でも辺境伯家にとっては王子の生死は然程重要ではないらしい。
まだ先王の葬儀すら行われていないので当然即位の儀など行われていないが、しかし国法からすれば今の第一王子は既に王位にあると言ってもいいのだ。
そんな存在を手にかけたならば、ベルファンシア公爵家を討つ大義名分が立派に成立する。
ここで万が一ルウが王子を救出に行った際に敵の捕虜になりでもすれば、それこそ辺境伯家は二百年前と同じようにまたも戦わずして敗れてしまうことになる。
大義名分を生かし、確実に宰相の政権を打倒する方を選んだのだろう。
冷徹な判断を下してみせる辺り、見た目こそ幼くともやはりこの子は次代の辺境伯家を背負う者なのだ。
そう思っていると、いつの間にか椅子から降りていたルウにドレスをきゅっと握られる。
「……サフィーナも一緒に来て」
思わず彼の顔を見ると、こちらを上目遣いで見上げながらそう伝えてくる。
「せっかくのお誘いですが、申し訳ありません。私は殿下の元に向かわせていただきますわ」
「危ないよ。サフィーナがいなくなっちゃうのはやだ」
「ご心配ありがとうございます。ですが、大丈夫ですよ」
安心させるように言って笑みを浮かべると、私はドレスを握る彼の手をそっと解く。
ルウ達の助勢が無いのは痛いが、何も勝算が無い訳ではない。
物事に百パーセントなどは無いとはいえ、王子と共に追っ手を完全に振り切る自信はあった。
どうせ、資金も兵力も領地も持たない私には賭けられる物は命くらいなのだ。
ここが勝負のしどころだろう。
このまま王子を無事に逃げ切らせ、その下に軍を編成することが出来れば、私の功績は計り知れないものになる。
「それでは、失礼致します。生きてまた王都で会える事を願っておりますわ」
あまり長々と話している時間も無い。
私は最後にそう伝えると、ルウの部屋を後にする。
王都の西方は山がちな地形が広がっているので、恐らく王子はそちらに向かったはずだ。
現在の時刻からしてまだ王都を脱出ばかりであるはずなので、急げば今日中に追いつけるだろう。
いささか乱暴な手段であるがこの際仕方がない。
移動手段として馬を奪うべく、私達は乗馬の授業で使われる馬達が繋がれている馬小屋へと向かったのだった。
ルウと別れ、寮の外を目指す私達。
もうこの期に及んでは学園側の人間に見つかっても問題は無い。
事は拙速を期すべきであり、見つからない用心を捨てて動き回る。
万が一見つかったとしても適当に言い逃れる自信はあるし、もし駄目でもカルロならば人間の一人や二人気絶させるのは容易いだろう。
そして、私は裏庭が見える辺りの廊下で足を止める。
「クララ、私を抱えて下に降りてくれないかしら。カルロも後についてきて。この高さなら飛び降りられるわね?」
「畏まりました、お嬢様」
「はい、問題ありません」
私は、立て続けに二人に指示を出す。
ここから寮の出入り口まで向かい、更に裏庭に向かっていてはかなり無駄な時間を使うことになってしまう。
何しろ、王立学園だけあって建物も敷地もかなり広いのだ。
今いるのは三階なので、軽業が専門ではないカルロでも無事に着地することが出来るだろう。
クララの、女のそれにしか見えない細くしなやかな両腕が、しかし外見に似合わぬ力強さで私の身体を横抱きに持ち上げる。
続いて数歩助走すると彼は絨毯を蹴り、窓枠に飛び乗る。
その勢いのままに、もう一度跳ぶクララ。
視界が漆喰の天井から透き通った青空へと変わる。
人を一人抱えているとは思えない程の高い跳躍力によって、まるで宙に投げ出されたかのような浮遊感を覚える。
数秒を置いて、背に伝わる小さな衝撃。
どうやら、無事に着地に成功したようだ。
続いて飛び降りてきたらしいカルロの姿も視界の隅に見える。
「……さて」
クララの腕の中から降りると、視線を上げる私。
その先には、学園の馬小屋があった。
貴族は有事の際には自らの手勢を率い戦場に赴かなければならない。
当然ながらそのためには乗馬の技術が必要不可欠であり、故にこの学園では乗馬の授業も行われているのだ。
その授業で使われる馬達が、目の前の馬小屋で飼育されていた。
さすがに騎士団が使っている馬には劣るだろうが、しかし王立学園の馬なのだからどれも一級の駿馬には違いないだろう。
先行して逃亡している王子の後を追うためには、また背後から迫るだろう追撃の手から逃れるためには必要不可欠なものだ。
ともあれ、素直に頼み込んだところで馬を貸してもらえるはずもない。
となればすべきことは一つだ。
「厩舎の中を制圧してきて頂戴。絶対に殺しちゃ駄目よ」
後ろを振り返ると、二人にそう命じる。
それに対し頷いて建物の中へと入っていくカルロとクララ。
そう、私は強引に馬を奪ってしまうつもりだった。
殺さないよう命じたのは、無用な敵を増やさないためである。
あくまでも私の敵は現宰相とその一派だけなのだ。
迂闊に無関係な人間を害しては、下手な大義名分を与え無用な敵を作ってしまう可能性があった。
現状はほとんど無力に近い身、不必要に敵を増やすことはなるべく避けたい。
幸いにもカルロは騎士数人を相手にしても勝利を掴むことが出来る程の腕前であるし、閉所内における場の制圧であればクララにとっても得意分野だ。
馬という繊細かつ臆病な動物を飼育している場所であるためか、ここには立哨の騎士が配置されていない。
二人の実力であれば、騒がれる暇もなく小屋を制圧することは容易だろう。
両側に騎士が立っているとはいえ日中は学園の正門は開け放たれているので、後は馬に乗って強行突破してしまえば止められる心配は無い。
小屋へと向かっていった二人の背を追い、私も歩を進める。
馬小屋の入り口を潜った私。
この建物は寮のすぐ裏にあるという場所柄、飼われている馬の嘶きを外へと出さないように壁がかなり分厚く作られている。
なので、中でどれだけ叫ぼうが騒ぎを聞きつけられ人が集まってくる心配は無い。
私が中に入ると、既に内部の制圧は終わっていた。
あまり光が差し込まず薄暗い室内に敷かれた藁の上に、気を失った馬丁達が横たえられているのが見える。
こちらの姿を認めたのか、屋根近くに通された梁から飛び降りて見事な着地を見せたクララ。
十メートル近い高さから飛び降りたにもかかわらず、足を痛めた様子一つ無い。
いとも簡単にこのような曲芸をやってみせる辺り、改めてこの子の実力を再確認する。
「……悪いわね。これより、ここにいる馬は私達の物よ」
聞こえていないだろうが、倒れ伏す男達に向け一言そう呟く私。
そんなこちらへと、クララが口を開く。
「それで、これからどうするの?」
「馬を奪って、殿下の下に参じるつもりよ」
「……本気?」
「勿論よ。洒落や冗談でこのようなことは言わないわ」
少し驚いた様子で問い返してきた彼に、私はそう伝える。
「私はこれより、殿下をお助けしに向かうわ。当然、追撃の手が掛かっているはず。多勢に無勢で、きっと厳しい戦いになるでしょう。それでも、だからこそ死地を乗り切れば大きな功績を手にすることが出来る。自分で戦うことも出来ない無力な私には、貴方達の力が必要なの。どうか、力を貸してもらえないかしら」
いくら二人が家臣であるといえども、しかしこれから赴く場所が死地である以上私に従うことを無理強いしようとは思わない。
ましてや、そこにある目的は私の復讐のためなのだ。
もしも逃げたいというのならば、それでも構わなかった。
「私の居場所は、常にお嬢様の側にあります」
「俺はお嬢様に仕えると決めたんだ。どんな場所であろうと誰が敵であろうと、死んでも護り抜いてみせる」
それを聞いた二人は、その場に跪くとそれぞれそう口にする。
どうやら、私についてきてくれるらしい。
「ふふ……ありがとう。貴方達のような従者を持てて私は幸せ者ね」
権勢と金があれば、大抵の物は手に入れることが出来る。
しかし、人の心は別だ。
そのことは、前世の最期で嫌という程に思い知った。
死地にも臆せず従ってくれるような忠臣は、千金にも値するだろう。
二人がいてくれることが、今はまるで万の軍勢に護られているように頼もしい。
「では、これより貴方達の命は私が預かるわ。馬に乗って、城門まで一気に突っ切るわよ」
カルロとクララの意志を確認したならば、事態が一刻を争う以上いつまでもこの場に留まっている訳にはいかない。
私は並んで繋がれている馬のうちの特に大きな一頭に近寄り、その鼻先を撫でる。
全身から覇気を漲らせ、見るからに気性が荒そうな馬だが、だからこそ乗りこなせば大きな力になる。
「クララ、裸馬には乗れる?」
「俺は乗れるけど……お嬢様は」
「私も問題無いわ」
鞍や鐙が周囲には見当たらないし、探している時間も勿体ない。
スカートを履いているので横乗りに馬上へと登ると、馬は私を振り落とそうと身を震わせる。
だが、この程度で振り落とされるようでは到底騎乗で戦場になど出られはしない。
私は上手くバランスを取りながら馬を宥めると、次第に大人しくなった。
今乗っている馬を馬留めに繋いでいた綱を外し、馬首を小屋の入り口の方へと向ける。
既にカルロとクララもそれぞれ大きく勇壮な体格をした馬を選び騎乗している。
準備は万端だ。
「さあ、行きましょう」
そう言って首筋を撫でると、私の意志を読み取った馬が疾駆を始める。
二人が乗った馬もそれに続く。
さすが、その体格と気性に違わず、瞬く間に凄まじい速度へと達した私達。
瞬く間に、学園の門の近くへと辿り着く。
自分達の方へと駆けてくる三頭の馬を目にして、門の辺りで騎士達が慌てた様子を見せていたが、しかし跳ね飛ばされることを恐れてか遂に留め立てしようとすることはなかった。
王都中央区の、広い表通りへと出る。
王の崩御という出来事があったためか、通りには人影がほとんど無く、そのために速度を落とすことなく疾駆することが出来た。
これ程の速度を出していてなお、まだ全く本気を出しておらず十分な余力を残している気配なのだから恐れ入る。
高速で後方へと流れていく街並み。
閑散とした街中とは裏腹に、王宮の辺りだけは確かに何やら騒がしいようだった。
そして程なく、遠目に城門が見えてくる。
鉄の門は普段通りに開け放たれており、しかしその周囲には立哨する騎士の姿しか見受けられない。
これなら、このまま突っ切れるだろう。
さすがに、王の崩御という非常事態の中で城門を突っ切ろうとすれば阻止しようとしてきても不思議ではない。
再び馬の背を撫でると、私の意を汲み取った馬は更に速度を上げる。
その勢いに、止めることを躊躇う彼ら。
彼らが手を拱いているうちにもどんどんと大きくなる門の姿。
―――そしてその数秒後、私達は無事に城門を突破し王都を脱出していた。




