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18. Amaryllis

 いつもと同じように澄み渡り青い空、吹き抜ける涼やかな風。

 私とカルロは、大通りの石畳の上を歩いていた。

 前回の事件以来第三騎士団が担当している都中の警備が強化されたため、市街のあちこちを巡回の騎士達が歩き、或いは歩哨している。

 彼らの横を通り過ぎながら、私達は裏路地へと入っていく。

 いくら王都の中央区といえども大通りの面積は限られているので、そう多くはないにしろ裏路地にも店はあり、貴族が訪れることも儘あるのだ。

 それでも私一人ならば止められただろうが、カルロと共にいるので止められることはなかった。


 今こうして街へと出ているのは、買い物のためではない。

 昨夜テオドールに尋ねてみたところ、様々な情報に通じているという少年が路地裏にいたのだそうだ。

 そのような人物であればもう既に誰かに雇われているのかもしれないが、かといって他に手掛かりや伝手がある訳でもない。

 とりあえず、会いに行ってみることにしたのだ。

 こういった不確実な可能性にさえ頼らなければならない辺り、いかに今の自分が無力で立場が貧弱かを思い知らされる。

 だが、だからといってここで諦めてしまう訳にはいかない。

 少し寂れた街並みを横目にしながら、歩き進む私達。

 それなりに活気があり人通りの絶えない表通りとは異なり、人影は酷く疎らだ。

 時折店が点在しているし、それらに赴いたと思わしき貴族達の姿も見えるものの、しかし平民と思わしき姿もまた多い。

 本来王都の中央区へは使用人等以外の平民の立ち入りは騎士団の許可が無い限り許されておらず、裏通りであるここもまたそれに当てはまるのだが、しかし巡察がほとんど及んでいないために実質的に自由な状態となっていた。

 別に騎士団が怠慢なのではなく、そもそも貴族や騎士達からは裏通りのことなど省みられていないのだ。

 前世の私が生まれる前からずっとそうだった。

 今後は裏路地の巡回も検討すると騎士団長が言っていたが、王宮の許可なども必要なので実現するにしてもそれなりに先のことになるだろう。

 当分は今のままだと思われた。


 テオドールに教わった少年がいたという場所を目指していく。

 何でも、裏路地から更に脇道に入ったところの突き当たりらしい。

 そこまで奥深くまで進むと、いくら区画的に中央区に入っていても完全に騎士達の手が届かない。

 かといって中央区に属することには変わりがないので、中央区以外の治安維持を担当する一般の兵士達の巡回も不可能であり、そのためにわりと治安が悪かったりする。

 仮にも王都なので平民達が住んでいる地区もそれなりに治安はいいのだが、この辺りだけは別だった。

 むしろこの巨大な都市の中で一番治安が悪い場所と言えるだろう。

 今はカルロが共にいるから安心出来るものの、到底女である私が一人で来ることなど不可能だ。


 私達はそのまま細く薄汚れた路地を歩き進む。

 途中で先日セリーヌ嬢を助けた場所も通り過ぎたが、土の上に残る血の跡はそのままになっていた。

 裏路地なので舗装されていないのはもちろん、何者の管轄も受けていないのでろくな清掃さえされていないのだ。

 もしこれが表通りだったならば、専門の人間によってとうに清掃されているはずだった。

 とはいえ、目指している場所はまだまだ先である。

 表通りからどんどん離れていくことになるので危険はそれなりにあるが、この先冒すことになる行為のリスクは遥かに大きいのだ、気にしても仕方がない。

 失うものはまだ何も無いのだから、危険を冒してでも何かしらの成果を手に入れなくては。

 そうしてしばらく進んだ後、目的地へと辿り着いた。

 崩れかけた木彫りの虎のようなものが目印と言っていたので、恐らくここで間違いないはずだ。

 遠目に軽く鑑定してみたところ価値という程の価値も無いものだが、こんなものが複数あるとも思えない。

 ひとまず立ち止まり辺りを見回してみるも、人影は見当たらなかった。

 今はいないのだろうか。

 他に手掛かりがある訳でもないので、しばらく待ってみることにする。









 機械時計の針が、時字の上を通り過ぎる。

 もう三十分程が過ぎていた。

 そのうち現れるかと思っていたが、一向にそれらしき姿は見当たらない。

 どこかに行っているのか、或いは私に会う気が無いのか。

 どちらなのかは知らないが、これ以上待っていても仕方がないだろう。


「あれ、そこの人達、俺に何か用?」


 そんなことを思い始めていると、突然そんな声が飛んでくる。

 咄嗟に辺りを見回すと、突き当たりの建物の屋根の上に人影があった。

 いつの間に現れたのだろうか。

 つい今まで、気配一つ無かったのだが。

 後ろで、カルロが腰に佩いた剣に手を掛ける気配がする。


「初めまして、サフィーナ・オーロヴィアよ。この名に聞き覚えはあって?」

「知ってるよ。辺境の花って呼ばれて、王立学園の中でそれなりに有名な人だよね」


 目を凝らすが、逆光に遮られているために相手の容姿は見えない。

 判別出来るのは細身で華奢なシルエットだけだ。


「ごめんね、待たせちゃって。ちょっと浴場に行ってたんだ」

「構わないわ。いきなり押しかけたのはこちらだもの」


 当然私は行ったことなど無いが、王都にも平民向けの浴場もいくつか営業している。

 どうやら、その帰りらしかった。


「ありがと。……ちょうどいいや、伝えたいなって思ってたことがあるんだよね」


 そう言って、おもむろに屋根から飛び降りる人影。

 数メートル程先に身軽に着地した相手と、向かう合うような格好になった。

 建物の影に降り立ったことにより、その姿が明らかになる。

 貧しい平民の少年が着るような少し襤褸い服を纏い、木立瑠璃草のように濃く明るい紫の髪も少年のように短めに切り揃えられているが、しかし容貌は可憐な少女のそれだった。

 恐らくだが、このような治安の悪い裏通りで少しでも危険を減らすために男装しているのだろう。


「この前、あっちで襲われてたっていう貴族の女の子を助けてくれてありがとう。俺が近くにいたら助けられたんだけど、ちょっとその時は出掛けててこの辺りにいなくてさ。埋め合わせにと思って侍従の人に持ってる情報は伝えたんだけど、サフィーナ様にもお礼を言いたいと思ってたんだ」


 ぺこりと頭を下げる少女。

 決して貴族のように洗練された動きではないが、しかし滑らかで機敏なその仕草は、彼女の身体能力の高さを示していた。


「貴女は?」

「俺はクローディオ・エーレネスト。知ってるとは思うけど、情報屋みたいなものかな。お礼に、サフィーナ様には一つだけ何の情報でも無料で教えるよ」

「いいえ、今日は情報を買いに来た訳ではないの」


 可愛らしい顔立ちに笑みを浮かべて、自らをクローディオと名乗った少女はそう口にした。

 クローディオだと男性名になるなので、恐らくこれは男装のための偽名だろう。

 こちらから呼ぶならば、呼び名はクララ辺りが適当だろうか。


「ふうん、それじゃ何の用?」


 笑顔を消して目を細め、彼女は表情を鋭くする。

 貴族がわざわざ訪れてこんなことを言えば、警戒するのも無理はない。

 私は、表情を変えないまま言葉を続ける。


「貴女自身を雇いに来たのよ。もっとも、そんなに高い賃金は払えないけどね」

「……俺を」


 意表を突かれたような顔をするクララ。

 だが、すぐに驚きの色を消し表情に笑みを浮かべさせる。


「いいの? もう誰かに雇われてるかもしれないし、情報を誰かに横流しするかもしれないよ」

「そこは、貴女に忠誠を誓ってもらうしかないわ。私には力が必要なの」


 無論、最初は無難な案件から与えて様子見をすることになるが、しかしどうしても私的な情報網は必要になる。

 仮にこの少女が既に誰かに雇われていてこちらの情報を雇い主へと流す二重スパイのようになったとしても、その時は逆にそれをも利用する形で使いこなしてしまえばいいだけの話だ。

 情報漏洩というデメリットを考慮してなお、今の私にはクララを雇うメリットの方が大きかった。

 しかし、今の私には立場上あまり多くの賃金を支払うことが出来ないので首を縦に振らせることが出来るかは分からないが。

 あまり楽ではないとはいえ実家からそれなりの額の仕送りは貰っているし、学園側からも毎月それなりの額を支給されているものの、それでもやはり学生身分である以上払える金銭にはどうしても限界がある。

 まあ、それは私の説得次第か。


「誰に雇われてる訳でもないから、そこは安心していいよ。でも、素直に雇われてあげる訳にはいかないけど」

「何が望みかしら」

「望みっていうより、試験みたいなものかな。別に誰かに仕えるのは構わないけど、駄目な人に仕えるのは嫌だからね」


 そう言って、不敵に笑うクララ。

 ―――面白い。

 私の表情にも、自然と笑みが浮かぶ。


「もちろん構わないわ。とは言ってもこの身体だから、貴女と戦ったりするのは出来れば避けたいのだけれど」


 いくら女同士であるとしても、小柄で筋肉も無い今の身体では見事な身のこなしを誇る目の前の少女とやり合えるはずもない。

 こんな時にはそれなりに大柄で剣も使いこなせた前世の自分が懐かしくなるのだが、まあ無いものねだりをしても仕方がないだろう。

 とはいえ、私自身の戦闘能力や運動能力を問われるものでなければクララの試験をクリアする自信はあった。


「そんなのじゃないよ。専業の密偵になるなら、もっとそれらしいことをしなくちゃね。……はい、これ」


 クララが、言いながらズボンのポケットから何かを取り出す。

 そして、それをおもむろに私の方へと差し出した。


「機械時計ね」


 手を伸ばして受け取ったそれは、紅を基調とした色遣いのシンプルながらも細やかなデザインの機械時計だった。

 その身を飾るように、多くの曲線が一つの文様を描くように繊細に彫られている。

 古びてはいるが、かなりの逸品だろう。

 だが、これを私に渡してどうするつもりなのか。

 意図が分からず、目線を機械時計から正面へと上げると、少女は口を開く。


「夜になったら僕が学園に侵入するから、それまでにその時計をどこかに隠しておいて。朝までに見つけて取り返せたら俺の勝ち。時間までに取り返されないか、僕を捕まえられたらそっちの勝ち。そっちが勝ったら、一生専属で仕えるよ。何か質問はある?」

「先日の事件以来騎士団の警備は厳しくなっているけれど、貴女が彼らに捕まった場合はどうなるのかしら」

「その場合はそっちの勝ちでいいよ。何なら、騎士を嗾けても構わない。もっとも、あの人達じゃ俺は捕まえられないけどね」


 にやりと口角を吊り上げ、クララは自信に満ちた表情でそう口にする。

 まあ、確かに簡単に捕まってしまうようでは私としてもこの子を雇う意味が無い。

 試験だと言っていたが、そういう意味で彼女にとっては自らの能力と価値を売り込む場でもあるのだろう。


「禁則は、その時計を破壊したりしないことと、隠し場所は学園の敷地内にすること。捕まえたり逃げたりするためのちょっとした体術くらいならいいけど、武器や道具を使った攻撃は互いにしないこと。あと、さすがにずっと手に掴んでいられたり懐に仕舞われたりしちゃうとどうしようもないから、それも無しでお願い。これを破ったら、仕える話は無しにさせてもらう」

「分かったわ。その四つを守れば、後は何をしてもいいのよね?」

「ああ。多少ずるい手を使われたとしても、それを事前に思いつけなかった俺が悪いんだしね」


 言質を取っておく。

 別に悪辣なことをしたりするつもりは無いが、後出しで文句を言われる恐れは消しておきたかった。


「それじゃ、学園の食堂が閉まる時間になったら始めるから。それまでに隠しておいてね」

「ええ、必ず勝って、貴女を雇ってみせるわ」


 ここまで言葉を交わせば、もうこの場に残っている意味は無い。

 互いに笑みを浮かべながらそう告げ合い、私とクララは一度別れる。

 こちらに背を向けて近くの建物へと入っていく彼女を眺めつつ、元来た道へと踵を返す私。

 歩を進める度、寂れた街並みが視界の端を流れていく。

 受け取った時計をどこに隠すか、どのように勝利を狙うか。

 私は頭の中で様々に考えを巡らせながら、自室へと戻ったのだった。









 そして、夜。

 食堂から戻り、自室にある椅子に腰を下ろした私。

 目の前にある円卓に頬杖を突きながら、今宵についての思索に耽る。

 先日の事件以来、団長である銀髪の彼の指示の下第三騎士団の警備は強化されており、それはもちろん学園内も例外ではない。

 たとえ真夜中であっても多くの騎士達が厳重に監視の目を光らせているのだ。

 とはいえ、当然ではあるが電気など無いこの世界には監視カメラもセンサー類も存在しておらず、警戒は全て騎士達の肉眼によって行われることになる。

 元々警備に関する方法論が現代日本と比べ発達していないこととも相まって、依然として残された隙は私の目からもいくらでも見て取れた。

 辺りが明るく視野も広い昼間ならばともかく、闇を照らし出すような照明器具も無いため見通すことの出来る視界が狭くなっている夜ならば、それを専門にする人間ならばいくらでも学園内へと侵入することは可能だろう。

 きっとクララも難なく敷地の中への侵入を果たすに違いない。


 だが、だからこそ私も彼女の侵入経路をある程度予想することが出来る。

 頭の中で学園の大雑把な地図を広げながら、予想される侵入地点の光景を思い起こす。

 こちらにはOL時代に身につけた現代的なセキュリティ理論の知識もあるし、何より前世では暗殺者の侵入を防ぐための攻防を散々経験している。

 やろうと思えば、カルロに待ち伏せさせておき学園に入った瞬間に捕らえることも十分に可能だ。

 しかしそれでは少女の技量を見ることが出来なくなってしまう。

 一方で、こちらもまた主人に相応しい能力を彼女に見せつける必要がある。

 そのためには時間切れでの勝利ではなく、無事に騎士達の警戒網を潜り抜けて屋内へと入ってきた後に捕まえる必要があった。

 機械時計が見つからなければ全ての建物を回ることになるだろうから別にどこでもいいのだが、ならば場所はこの寮で構わないだろう。

 クララが入ってくるであろう場所を予想し、それに合わせてカルロを忍ばせる場所も決める。

 考えを纏め上げた私は振り返り、後ろに控えさせていた少年の方を向く。


「カルロ」

「はい」


 名を呼ばれた彼が、腰を折りこちらに礼をする。


「二階の西階段の踊り場の隅に潜んでいなさい。そして、昼間のあの子が来たら捕らえて身動きを封じてこの部屋まで連行して。明日の朝、戦果報告を聞くのを楽しみにしているわ」

「仰せのままに」


 仕方がないとはいえ、カルロは少女に既に顔を知られている。

 学園の使用人の振りをして不意を打ったりするのは不可能であり、あちらが餌に掛かるまで潜ませておくしかなかった。

 一つ返事をして立ち上がり、退出していく少年。

 すっかり暗くなった室内に一人になった私は、紅い機械時計を円卓の上に置くと椅子から立ち上がる。

 クララを捕まえて勝つつもりなのだから、隠そうが隠すまいが同じことだ。

 ならば、堂々とここに置いておけばいい。

 私は壁際の衣装入れへと近付き、寝間着を取り出す。

 そして今まで纏っていた普段着のドレスを脱ぎ、代わりに今しがた取り出したそれへと着替えていく。

 着終えると、脱いだばかりのそれを畳んで洗濯物を入れる籠の中に置き、ベッドへと入る。

 OLだった頃に私が責任者だった流通部門で取り扱っていた最高級の寝具もかくやという程に柔らかく、まるで水中に溶け込むかのような錯覚を感じさせながら私の身体の形に沈み込んでいくマットレス。

 それは、瞬く間に私の意識を夢の淵へと導いていく。

 目を醒ましたら、きっとカルロが朗報を報せてくれるだろう。

 そう思いつつ、私は押し寄せる眠気に身を委ねたのだった。









 朝。

 閉ざした瞼の上に掛かる日差しによって覚醒した私は、起き上がってカーテンを開けると衣装入れへと近付き、普段着用の白いドレスを取り出す。

 一晩身につけていた薄手で軽い寝間着を脱ぎ去ると、手にしたそれに袖を通した。

 脱いだ寝間着を籠の中に入れ、私は紐を引いてカルロを呼ぶ。

 ほとんど間を置かず、外から部屋の入り口の扉が叩かれた。


「入りなさい」

「失礼致します」


 外へと声を掛けると、開かれた扉の向こうから少年が姿を現す。


「首尾を聞かせて」

「お嬢様のご命令通り、無事に捕まえました。今は私の部屋に捕らえてあります」

「ありがとう。では、ここに連れてきてくれるかしら」

「畏まりました」


 どうやら、捕まえることが出来たらしい。

 木の上や屋根の上などの特殊な場所であればともかく、平らな場所であれば身体能力でも体術でも少女よりカルロの方が上だろう。

 待ち伏せして不意さえ打てば必ず捕まえられると思っていたが、上手くいったようだ。

 少しすると、再び扉が開かれ後ろ手に両手首を縛られているらしいクララが悔しげな表情をしつつ姿を見せる。

 彼女に続いて入ってきたカルロが、扉を閉めた。


「私の勝ちね」

「ああ、まさかこの寮に忍び込んだ途端に捕まるとは思わなかったよ」


 少女の声色もまた、とても悔しげだ。

 それだけ自分の腕に自信を持っていたのだろう。


「どうして俺があそこから入るって分かったの?」

「騎士達の警備網の隙から予想しただけよ」


 これくらい予想して防ぐことが出来なければ、前世の私はクーデターを待つまでもなく暗殺者の手に掛かって殺されていたはずだ。

 機密情報の漏洩を避けるために必要だったとはいえ、OLだった頃にセキュリティについて学んでおいてよかったと心から思う。

 だが、私だから見破れただけであり、第三騎士団の警備といえばこの国でも最高峰のレベルにあることは確かである。

 それを容易く突破してみせたこの少女は、一流と呼んで差し支えが無い程の技量の持ち主と言ってよかった。


「約束通り、貴女には私の瞳として働いてもらうわ」

「分かった。……これからよろしくお願いします、お嬢様」


 クララが、腰を折って私へと礼をする。

 先程まで施されていたはずの縄による手首の拘束はいつの間にか解かれており、その足元には解けた縄が落ちていた。

 自力で縄を解いたのだろう、一流の密偵であればそれくらい出来てもおかしくはない。


「ええ、よろしくね。早速だけれど、特に支障が無ければここに住んでもらえないかしら。丁度、使用人用の部屋が一室空いているの」


 この部屋に付属している使用人用の部屋は三室であり、使っているのはカルロとアネットなので空きが一つあった。

 少女自身の都合次第ではあるが、連絡を取ろうとする度にあの路地裏まで赴かなければならないのはあまりに非効率であるし、何より路地裏と学園を何度も往復することで不必要に目立ってしまうのはこの子に任せることになる任務の性質を考えれば致命的だろう。

 まだ完全に信用した訳ではないのでこれ程近くに住ませることに危険が無い訳ではないが、とはいえ今日のような警戒を年中続けられる訳ではない以上、学園に自由に出入り出来るクララが相手では同じことなのだ。

 万が一裏切られるとしても、本格的にクーデターの計画を進行させるまでは命を狙われる心配は無い。

 それならば、監視が不可能に近い路地裏ではなく目が届く範囲に置いてそれとなく様子を窺う方がずっといいだろう。


「いいの? こんな所に住めるなんて夢みたいだ」


 少女の可憐な顔立ちに、喜びの色が浮かぶ。

 この学園にいる限り、たとえ従者という立場であっても下手な小貴族の屋敷で出されるよりもいい食事が取れるし、いいベッドで眠れるのだ。

 嬉しいと思うのも当然だろう。


「決まりね。荷物を纏める時間も必要でしょうから、明日か明後日にはこちらに移ってくれるかしら」

「ああ、分かった」

「それと、貴女のことは使用人として迎えるから……はい、これがオーロヴィア家の侍女の制服よ」


 私は衣装入れに歩み寄り、用意しておいた新品の制服を取り出す。

 言うまでもなく、アネットが着ているのと全く同じものだ。

 そして先程の立ち位置まで戻ると、クララにそれを手渡す。


「……どうして俺にこれを?」


 だが、嫌そうな顔をしてこちらに尋ねてくる少女。

 その反応の意味が分からず、私は困惑して首を傾げる。


「何故って、男物の服を渡す訳にもいかないじゃない」


 クララを雇ったことについて尋ねられた時のための表面上の説明はもう考えてあるし、そのためには男の振りをしてくれた方がやや好都合ではあるのだが、しかし少女であるこの子に少年を演じ続けろというのも酷だろう。

 裏通りでは生きるために必要だったかもしれないが、ここではそのようなことをする必要は無いのだ。


「ああもう……。俺は男だ!」


 だが、頭を抱えるようにしてクララがそう叫ぶ。


「えっ!?」


 その後ろで、驚きの声を上げるカルロ。

 彼だけでなく、私も驚いていた。

 装いこそ少年のそれであるとはいえ、顔立ちはどう見ても少女なのだが。


「裏路地では男の子の振りをしなければ危なかったかもしれないけれど、ここではそんな必要は無いのよ?」


 まだ性別を偽ることによって生きてきた癖が抜けないのだろうか。

 今までずっとそうしてきたならば、急にそれを解けと言われても難しいのかもしれない。


「だから俺は正真正銘男だ! というかお前は俺を抑え込んだんだからその時に気付けよ!」

「あ、ああ、すまない」


 私に向けてそう抗議すると、振り返ってカルロの両肩を掴むようにして詰め寄るクララ。

 栗色の髪の少年は気圧されたようにうろたえると、謝罪の言葉を口にする。


「好きでこんな顔をしてる訳じゃないってのに……。証明してやるから来い!」


 そして、苛立ちを露わにしたままカルロの手首を掴んで部屋の入り口の方へと向かっていく。

 木製の扉を開いて外に出ると、やや乱暴に閉める。

 私一人になった室内に、その音が大きく響き渡った。

 続いて広がる無音。

 しばらく待っていると今度は普通に扉が開かれ、二人が戻ってくる。


「……ええと、クローディオは男でした」


 まだ先程からの困惑を色濃く残しながらも、カルロが私に向かって言う。

 てっきりそう装っているだけだと思っていたのだが、本当に少年だったらしい。


「分かったら、男物の制服をくれ」


 そのまま、私へとそう要求する彼。

 どうしようか。

 メイド服であればアネットの分の予備があったのでよかったのだが、カルロは通常の使用人ではなく私の侍従なので男物の服など持ってきていないし、かといって実家から取り寄せるとなると理由を取り繕うのが面倒だ。

 家によって使用人の制服のデザインは異なるので、誰かから借りることも出来ない。

 となれば、自分で縫うしかないだろうな。


「ごめんなさい、男物は今は手元に無いの。用意するから、明後日まで待ってもらえないかしら」


 制服のデザインは頭に入っているし、二日もあれば服を一着作るには十分だ。

 無論布や釦の類など手持ちには無いので、後でアネットに買ってきてもらわなければならないが。


「別に構わないよ。ちゃんと男だって分かってくれたら」

「ありがとう。では、それまでに荷物を纏めて二日後にここに来て頂戴。服を用意して待っているわ」

「ああ。それじゃ、俺もあの家を引き払う準備をしてくるよ。またね」


 そう言って窓際に近付いて窓を開けると、束の間下を見回してそのまま外へと飛び降りたクララ。

 ここから地表までは十メートル以上の高さがあるはずなのだが、平然と飛び降りてみせたのはさすがだった。

 数秒遅れて窓辺に近付き下を見てみたが、既に彼の姿は無い。

 ともあれ、クララを無事に味方に出来たことで目的へと一歩近付くことが出来た。

 すべきことはまだまだ大量にあるが、何から片付けていくべきか。

 それを頭の中で思索しつつ、私は去っていった彼を見送ったのだった。


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