17. 真夜中の盟約
翌朝、どうにか逃げ帰った私は、いつもよりかなり遅い時間に目を醒ました。
元々夜遅くに王子の部屋を訪れたというのもあるし、何より部屋に戻ってからも心臓が激しく鼓動を打っていてなかなか眠れなかったのだ。
今日は休みなので特に支障はないが、枕元の台の上から機械時計を取って時刻を見ると、もう昼前になっていた。
こんな時間まで眠っていたのはいつ以来だろうか。
かなり久しいかもしれない。
一つ伸びをしてベッドから降りた私は、閉められたカーテンを開いて窓を開く。
すると、涼やかな風が室内へと流れ込み私の髪を揺らした。
肌に伝う心地よさに、まだ僅かに残っていた眠気も霧消していく。
そして私はクローゼットの方へと向かい、普段着用のドレスを適当に取り出す。
寝間着を脱ぎ、手にしたそれに着替えていく私。
その合間、今後の方針についてしばしの思索に耽った。
有力者の籠絡はもちろんだが、私にはそれ以外にもすべきことが二つある。
一つは、名声を得ることだ。
仮に準備を整えて行動を起こしたところで、何の名声も無い者には誰も付き従ってはくれないだろう。
それでも貴族家の当主としての地位があれば別だが、私にはそれすら無いのだから。
王子辺りを旗印にすれば事を成功させること自体は可能だろうが、だからといって主導権をある程度握れなくては何も意味が無い。
幸いにも私には、前世で身につけた貴族としての数々の知識がある。
それを利用して学園内で少しでも目立ち、今のうちに優秀な生徒として名を轟かせておかなければならなかった。
学園内に留まらず、学園外の貴族達にまで届くような名声をなるべく早く得なければならない。
とはいえ、好都合なことに王子が私の噂をある程度広めてくれているので、達すべきハードルは大分下がっている。
これに関しては、然程難しい課題ではないだろう。
そしてもう一つは、独自の情報網を得ることだ。
テレビも電話もコンピューターも車も無いこの世界では、地球と比べて情報の価値が比べ物にならない程に高い。
ましてや元々巨大な領地を持つ大貴族である上に、二百年にも渡りこの国の実権を世襲し握り続けているベルファンシア公爵家は、当然ながら強大な情報網を持っているはずだ。
さすがに同規模のものを現時点で構築するのは不可能であるにしろ、それでもある程度そちらの方向にも手を出しておかないことには私の勝機は万に一つも無い。
つまりは情報収集や裏工作を専門に行ってくれる者を雇いたいのだが、生憎と実家にそんな人材はいないし、私自身もそのような人間との伝手は持ち合わせていなかった。
かといって一から育てるような時間も資金も無いし、どうすべきかと私は頭を悩ませていた。
それからしばらく考えてみたが、ひとまずテオドールに相談してみることにする。
先日の事件の際に犯人の居場所を突き止めるためにかなり苦労したという彼ならば、誰かその手の人間に心当たりがあるかもしれなかった。
とはいえ、セリーヌ嬢がいる場所でその件について尋ねて辛い記憶を思い出させてしまうのは気が引ける。
なのであらかじめ手紙を届けておき、彼女が寝静まって護衛の任が一旦終わった後に会うことにした。
私は部屋にある執務机の引き出しから紙を取り出して、彼への伝言をベルフェリート語で記していく。
書き終えたそれを便箋に入れ、そっと天井から垂れた紐を引きアネットを呼び出す。
「失礼致します、お嬢様」
そう間を空けず入り口の扉が外から叩かれ、そして彼女が姿を見せる。
「おはよう、アネット。この手紙を、セリーヌ様の侍従に渡してきてくれるかしら」
「畏まりました」
便箋を手渡すと、それを受け取ったアネットは礼をして退出していく。
これで後は夜になるのを待つだけなのだが、まだ朝食を取っていないのでいささか空腹を感じる。
この時間だと朝昼兼用になってしまうが、何かを口にしなければ。
アネットが戻ってくるのを待ちつつ、私は注文するメニューに思いを馳せたのだった。
そして、その夜。
テオドールを五階のベランダへと呼び出している私は、自らもそこに向かうべく部屋を後にする。
まだ夜半を廻りかけたばかりなので彼に伝えている時刻にはいささか早いが、しかし私から呼び出したのだからあちらより先に到着しておくべきだろう。
主が眠った時点でその日の護衛の任は終えているとはいえ、しかしセリーヌ嬢のことをあれ程敬愛していた様子のテオドールを彼女からあまり長時間引き離してしまうのも忍びない。
あのような出来事の後では屋内でも完全に安心できる訳はないだろうし、離れている時間が長いほど心配だろうことは想像出来る。
そのために、待ち合わせ場所にはセリーヌ嬢の居室と同じである五階のベランダを選んでおいたのだ。
当然ではあるが、莫大な人数のいる生徒達をたった一棟の寮に住まわせることが出来るはずがない。
そのために寮はいくつか存在しており、彼女の居室があるのは私の住んでいるのとは別の建物だった。
他の寮へは二階から渡り廊下で繋がっているので、そちらに向かうために私は階段を降りていく。
床には絨毯が敷き詰められているので、足音が響くことはない。
窓から月明かりが差し込んでいるとはいえ暗く闇が広がる中を注意しながら進み、二階へと降りると、もう深夜であることもあって廊下には巡回のメイドの姿さえも見当たらなかった。
無人の静寂の中を、突き当たり近くにある渡り廊下を目指し歩いていく私達。
すると、正面にこちらへと歩いてくる人影が見える。
誰だろうか。
このような時間に他に出歩いている者がいるとは思わなかったので、少し驚く。
とはいえ、別に他人に姿を見られて困る訳ではないので構わずにそのまま進んでいくと、やがて相手の姿がはっきりと露わになる。
そこにいたのは、昨日いろいろあったばかりの王子だった。
こうして出くわすとは予想外だったようで、彼もまた驚いたような表情を浮かべている。
しかし、それも束の間、王子は整った容貌をにやりと笑みの形に変えた。
「奇遇だな、サフィーナ」
「え、ええ……」
思わず言葉に詰まってしまう私。
脳裏には昨日のことが思い出され、それと共に羞恥が湧き上がる。
どくどくと、少しずつ心臓の鼓動が高まっていくのが分かった。
ローズブラウンの瞳が、まるで肉食獣のように私を窺う。
あたかも彼との間を引き裂くように、二人の間には窓から差し込んだ月光が翳りを作る。
しかしそれにも構わず、無造作にこちらへと近付いてくる王子。
思わず後退るが、しかし私と彼とでは歩幅も歩調も大きく異なっている。
必然、距離は瞬く間に縮められてしまった。
「きゃっ……!」
次の瞬間、身体が前方に投げ出されるような感覚が束の間走ると、何かに衝突するようにして止まった勢い。
思わず喉から零れる悲鳴。
少し遅れて、ぶつかった先が王子の胸板であることを理解する。
背中には今の私から見ればとても力強い腕の感触。
どうやら、彼に思いきり抱き寄せられたらしい。
腕の中から抜け出そうとするが、それを阻むかのように強固に抱き留められているためなかなか上手くいかない。
そうこうしているうちに、王子が上半身を屈め私の耳へと唇を寄せる。
「ひゃ、ん……」
彼の熱い吐息が耳朶へと掛かり、半ば反射的に声を上げてしまう。
そう大きくない声量のはずだが、しかしそれが無人の廊下の静寂に響き渡ったかのような錯覚に襲われる。
他の生徒達に聞こえてしまうのではないだろうか。
そんな恐怖を覚えつつ、私は必死に声を押し殺す。
「サフィーナ」
低い美声で、囁くように名前を呼ばれる。
「何が望みだ?」
そして彼が続いて口にしたのは、そんな問い掛けだった。
同時に、大きな身体に纏われた雰囲気が僅かに鋭さを増す。
つまりは、ここからは真剣な話だということだ。
こうして望みを聞いてくるということは、恐らく王子の籠絡には成功したのだろう。
まあ、あれ程恥ずかしい思いをしたからには成功してくれなければ困るのだが。
羞恥に耐えて頑張った甲斐があった。
「殿下を、この国の王に」
内心で羞恥を押し殺し、思考を切り替えた私。
王子が私の耳元で囁けるということは、逆にこちらも彼の耳元に囁けるということでもある。
こうしていれば、絶対に洩れる訳にはいかない密談を誰にも聞かれずに済む。
初めはまた昨日のように何かを仕掛けてくるつもりなのかと思ったが、最初からこのつもりだったのだろう。
私は、彼に小さくそう囁き掛けた。
「……面白い。いずれこちらから誘おうと思っていたが、まさか先を越されるとはな」
すると声音に愉悦を湛え、低く力強くそう口にする王子。
「サフィーナ、俺は奴らから真の王位を取り戻す。力を貸せ。俺と共に来た暁には、お前にも最高の栄誉を与えよう」
「仰せのままに」
いかにも野心的な印象の王子ならばと思っていたが、やはり大望を心に秘めていたらしい。
私とも当面の目的は一致している。
もちろん、否やはなかった。
「ではな、サフィーナ。お前の力に期待している」
「ふふ、勿体なきお言葉ですわ」
そして最後にそう言葉を交わし、別れた私達。
王子とこんな場所で鉢合わせすることは完全に想定外だったが、しかしそのおかげで大きな収穫を得ることが出来た。
懐から機械時計を取り出して時間を確かめると、まだテオドールとの待ち合わせ時間は過ぎていない。
こちらでも何か収穫があればいいのだが、と思いつつ、私達は歩を再開して廊下を進んだのだった。




