13. 美酒佳肴
部屋に戻った私は、必要な材料を買ってくるようにアネットに頼むと廊下を歩いていたメイドを捕まえ、生徒用の厨房の使用を学園側へと連絡してもらう。
そして室内に戻りしばらく待っていると、扉がノックされる。
そこにいたのは、二十歳前後と思わしき先程のメイド。
アネットが買い物に出ていていないので自分で応対すると、気弱そうな雰囲気の女性は許可が出たと私に伝える。
もっとも、満室でもない限りは許可が下りないことなどまず無いし、この時期に満室になっていることもまたあり得ない。
アネットには買った材料を厨房の方へと運んでもらうようあらかじめ伝えてあるので、それらが到着し次第調理を開始することが出来る。
また廊下の巡回に戻っていくメイドさんの背中を見送りつつ、私はカルロと共に厨房の方へと向かう。
王都の空は、今日も澄み渡っている。
この辺りの地域には、春はあまり雨が降らないのだ。
必然的に晴れの日が多くなる。
日差しが弱いので、まだ日焼けの心配をしなくてもいいことが幸いだろうか。
石畳を踏みながら進む私達は、生徒用の厨房がある建物へと向かっていく。
目的の建物は学生寮から見ると教室がある校舎を挟んだ反対側に当たるため、それなりに距離を歩かなければならない。
もう昼過ぎなので、辺りにはちらほらと学園の生徒達の姿が見受けられる。
私は彼ら彼女らに会釈をしながら進み、そして建物の入り口へと辿り着いた。
他の建物と同じように、ここの入り口にも両脇には第三騎士団所属の騎士が立っている。
彼らの間を通り抜けて、屋内へと入った。
扉を潜ったすぐ左には上の階へと昇るための階段があり、正面には建物の反対側の端までひたすら廊下が続いている。
真っ直ぐに進んでいくと、右手には外と中を隔てる石造りの壁と窓が聳え、左手には壁の合間にいくつもの扉が立ち並ぶ。
言うまでもないが、扉の向こうにあるのは生徒用の厨房だ。
火を使う場所であるためか、図書館と同じように壁は石が剥き出しであり、床にも絨毯が敷かれていない。
そのため、廊下に私達の足音が反響していく。
中の空間もそれなりの広さが用意されているらしく、扉同士の間隔はかなり広い。
手前の方のいくつかは誰かが使用しているようで、扉に使用中を示す印と利用者の名前が書かれた紙が貼られている。
私は開いている中で一番近くにある入り口から三つ目の部屋の扉を開き、中に入った。
室内を見渡してみると、そこはかなりの広さがある。
料理をするための場所はもちろんながら、大きな円卓がいくつも並べられていてそのまま作ったものを食べることが出来るようにもなっているのだ。
円卓は互いの間隔をきちんと確保された状態で六脚あるので、単純計算で六十人が入ることが出来る。
現在は開かれている状態だが、料理スペースと食事スペースの間はカーテンで遮れるので、中規模程度までのパーティーならば十分にここで事足りるだろう。
今しがた入ってきた入り口の扉の内側には、他の厨房の扉に貼られていたのと同じ紙とペンが入ったポケットがあった。
私はそれを一枚手に取ると、調理台の上で内容を書き記し、そして扉の外側に貼ると使用中である旨の印をつける。
これで、アネットが買い物から戻ってきてもこの部屋を見つけられるはずだ。
カルロに円卓の周りに置かれた椅子に座っているように言い、その間に私は調理台の方を見て回る。
さすがは王立学園といったところで、そこには多種多様な調理器具が存分に用意されていた。
無論菓子作りのための道具も豊富であり、何を作るにしてもまず困ることはないだろう。
転生してから此の方まだ一度も厨房に立ったことが無いので、何かを作るのは体感でこれが二十年近くぶりになる。
久々の体験を前に胸を昂らせながら、アネットの帰りを待つ私。
すると少しして、外から扉がノックされる。
「入って」
そう告げると、扉が開かれ向こうからアネットと、その後ろに続く小さな箱を手にした男が入ってくる。
購入した商品の配達に来た、商店の使用人だろう。
調理台の上へと置かれる箱。
作るものが菓子なので必要な材料もそれほど多くなく、アネットでも簡単に持ってくることが出来ただろうが、しかし店員の役目はただの配達員ではない。
貴族を相手にする商店では、商品を客の家へと届けた際に代金を受け取るのが慣例なのだ。
地球でいう代引きのようなものか。
今回はそれほどの量を買っていないので、支払うべき金銭もまた少ない。
私は、代金を男へと手渡す。
そうして、彼はこちらに頭を下げると立ち去っていった。
さて、いよいよ菓子作りだ。
無難にクッキーを作ることにする。
最初はオペラでも作ろうかと思ったのだが、どうせなら手軽に食べられるものの方がいいだろうと思い変更したのだ。
室内に用意されていた銀のボウルに既に常温になっているバターを入れ、箆で練っていく。
電動の泡立て器など当然無いので自らの力でやらなければならないのがなかなかに大変だった。
そして少しずつ徐々に砂糖を加え、更に練る。
全て混ぜ終えると、次に加えるのは溶いた卵黄だ。
塊が無くなりペースト状になるまで箆を動かす。
徐々に腕に疲労が蓄積していき、文明の利器のありがたみを実感しながらも作業を続ける私。
次に菓子を作る際は、先に簡易的な発電機と電動泡立て器を作っておいてから生地作りに臨もうと心に誓う。
無論、私にとって重要な手札である電子機器をおいそれと他人には見せる訳にはいかないので、実際に使うならば自室でこっそりとになってしまうが。
それはともかく、最後に小麦粉を入れて少し混ぜると、生地はどうにか完成した。
ラップも当然無いので、ボウルに蓋を被せて調理台の下にある冷蔵庫へと入れる。
扉を開けると、中から出てきた冷気が頬に触れて気持ちがいい。
この冷気は、庫内に入れられた氷によるものだった。
定期的に氷が補充され、いつ厨房が利用されてもいいように機能が保たれているらしい。
電力の無いこの世界では、もちろん人工的な製氷は不可能だ。
そのため、氷は冬の間に氷室に貯蔵されたものを必要な時に運び出す形で使用されていた。
王都で利用されるものに関しては、馬で北に一時間ほどの距離にある氷室から運ばれていたはずだ。
だが、人工的に作ることが出来ない以上、必然的に全体量は限られてくる。
にもかかわらずこうして場所にまできちんと行き渡らせているのは、さすがは王立学園か。
「……少し疲れたわ」
しばらく生地を寝かせる必要があるため、私はその間椅子に腰掛けて休んでおくことにする。
流石に腕が痛い。
とはいえ、主人として二人が見ている前ではしたなく手を振り回したりする訳にはいかない。
表に出さないようにしつつ、私は椅子へと腰を降ろす。
「お嬢様、腕をお解し致しましょうか?」
「そうね……。お願いしようかしら」
私の腕の状態を察してくれたのだろうか。
そんなカルロの申し出に、頷く私。
立ち上がった彼は、こちらに近付くと背中側に立つ。
私の左腕の上膊を、少年の大きな手が二つ包んだ。
その掌に指先に、強く弱く力が加えられる。
「んっ……気持ちいいわ」
絶妙な力加減で腕を揉まれ、思わず息が零れた。
目を閉じて身体を少し弛緩させ、上膊に走る感覚に身体を委ねる。
幼い頃から剣術だけでなく素手での格闘も修練しているためか、カルロはこうしたマッサージがとても上手かった。
以前にも何度かしてもらったことがあるのだが、あまりの心地よさに気を抜くとつい眠ってしまいそうになるほどだ。
左腕を隅々まで施し終えた彼は、一度手を放すと今度は私の右腕へと触れる。
先程と同じように、上膊を手で包み込むようにして軽く握った少年。
そしてやはり同じように、強く弱く揉み拉かれる。
目を瞑っているので暗闇しか視界には映らないが、しかし姿形が見えずとも肌に感じる彼の大きな手はとても頼もしい。
私は時折吐息を零しながらも、腕に走る感覚に没頭していく。
そのまま、どれくらい時間が過ぎただろうか。
あっという間だったように感じるが、気付くと彼の手が私から離れていた。
「お、終わりました」
カルロの声が聞こえ、私は閉ざしていた瞼を開ける。
すると視線の先には、いつしか私の正面へと移動していた少年の姿。
何故だか、その顔は赤く染まっている。
以前にマッサージをしてもらった時もそうだったのだ。
それほどに体力を消耗するのだろうか。
だとすればあまり無理はさせたくないので、彼が言い出さない限り私からはマッサージを頼まないようにしていた。
「お疲れ様。座ってゆっくり休んでいて」
「は、はい」
何やら少年の疲労と引き換えのような感じになっているのはやや心苦しいが、とはいえ私の腕はとても軽くなっている。
あのままならば確実に明日は筋肉痛で苦しむ羽目になっただろうが、これならば大丈夫だろう。
私は微笑んで休んでいるよう告げると、彼は元座っていた椅子の方に戻っていく。
「よかったわね、カルロ君」
「あ、アネットさん!」
にやにやと笑ったアネットが何やら彼に声を掛けると、それを受けたカルロは焦ったように彼女に抗議した。
よく分からないやり取りだが、まあ使用人同士仲がいいのはいいことだ。
首を傾げつつも時計に目を移すともう三十分以上が経過していたので、クッキー作りを再開することにする。
私は立ち上がると調理台に近付いて軽く膝を折り、すっかり軽くなった腕で冷蔵庫の扉を開く。
庫内に入れていたボウルに触れると、銀製であるそれは冷やされてとても冷たくなっていた。
それを取り出して台の上に置き、被せてあった蓋を取る。
当然、中には寝かせた後の生地が入っている。
後は麺棒で広げ、型を取って焼けばいい。
生地をボウルから調理台の上に置いた木製のペストリーボードへと移し、そして手にした麺棒で平たく伸ばしていく。
形に関しては別にこだわる必要も無いだろう。
丸い形をした抜き型で生地を切り抜き、それをトレイの上に並べていく。
全て並べ終わると、振り向いて背後にある壁際に作られたオーブンの蓋を開き、その中にトレイを入れる。
いよいよ、後は中にある薪に火を点けるだけだ。
「アネット、火をいただいてきて」
「畏まりました」
さすがに寮のように巡回こそしていないが、当然この建物にも学園のメイドは要望に備えるために待機している。
学園側が火を用意していない訳がないので、彼女らに頼めばきっと持ってきてくれるはずだ。
ここは戦場ではないのだから、わざわざ手間を掛けて自力で火を起こす必要など無い。
彼女はそう言うと扉を開けて廊下へと姿を消す。
少し待つと外から扉が叩かれ、姿を見せるアネット。
彼女の後ろには、上に火の点いた短い蝋を載せた皿を手にしたメイドが続いていた。
学園のメイドが着ている服は、王家の公式のものであり王宮で働く女性達が身につけているものと全く同じである。
当然我がオーロヴィア子爵家のメイドであるアネットの着ているものとはデザインが全く違うので、並んでいてもどちらがどちらかは一目瞭然だ。
彼女はこちらへと礼をするとオーブンへと近付き、下部にある薪を入れるための口を開いて中のそれに点火する。
決して強くなかった蝋の火は、燃料を得たことにより瞬く間に炎へと成長した。
それを見届けると、一つ頭を下げて部屋を退出していくメイドさん。
流石は学園の使用人というべきか、その身のこなしは一寸の乱れも無い程に洗練されている。
さて、一度オーブンに入れてしまえば、生地を寝かせた時程長くは待つ必要が無い。
時計を片手に炉内の様子を確認しながら待っていると、程なく焼き上がる。
「お願い」
アネットに声を掛けて、場所を換わる私。
焼き上がったクッキーの入ったトレイを取り出す必要があるのだが、このオーブンは電気式ではないのでスイッチを切って火を止めるなどということは出来ない。
まだ火は轟々と燃え続けており、当然内部は現在も高熱を孕んでいる。
だが今の私は装飾の多いドレスを身につけているため、袖などがどこにも触れないようにトレイを取り出すのは難しかった。
熱い金属に触れれば布地が傷んでしまうし、最悪服に中の炎が引火する可能性もある。
そのため、簡素で実用的なメイド服に身を包んだアネットに任せたのだ。
彼女は無事にトレイを取り出し、それを調理台の上に置く。
クッキーに関しては後はこのまましばらく置いて冷やせばいいだけなのだが、私のすべきことはこれで終わりではない。
仮にも、貴族であるユーフェルに送るものなのだ。
何がしかの容器に入れて渡す必要がある。
私は、買い物の箱の中から青い袋とリボンを取り出す。
……と、その前に。
「二人とも、いつもありがとう」
日頃の感謝と労いを込め、それぞれ十枚程クッキーを載せた小皿を二人に手渡す。
トレーもオーブンも学園サイズと言えばいいのかかなり大きかったので、一度に全て焼くことが出来たのだ。
「ありがとうございます、お嬢様。今後も全力でお仕え致しますわ」
嬉しそうに微笑んで華麗に礼をするアネット。
遥々領地から学園まで派遣されているのだから当然だが、彼女はとても有能だ。
その身のこなしは、先程の学園のメイドにも劣っていない。
「ありがとうございます。何があろうともお嬢様を最後までお守り致します」
一方、少し戸惑ったような感じで立ち上がり礼をするカルロ。
最初はぎこちなかった彼の仕草も、今ではすっかり様になっている。
成長を見守ってきた身として、何だか微笑ましい。
「先に食べていて」
私がそう告げると、それに従い食べ始める二人。
その間にこちらは、袋にクッキーを詰めていく。
それなりの大きさがある袋なので、数十枚は入れることが出来た。
全て詰め終えると、口を用意していたリボンで結ぶ。
最後に、ユーフェル様へとベルフェリート語で書いたカードを添えれば完成だ。
これで、贈り物としての最低限の体裁は整えられただろう。
そしてその頃には、もう二人ともクッキーを食べ終えていた。
何気にまだ味見をしていなかったので、余ったそれを一つ手に取り口に運ぶ。
……よし、完璧だ。
「では、行きましょうか」
私は、袋と袋に入りきらず余った大量のクッキーが載ったままのトレイを持って二人に言う。
オーブンの中で熱せられて熱くなっていた銀も、すっかり常温に戻っている。
どこかに火種を用意しているということは、余った料理を預けておく用の冷蔵庫も用意されているはずだ。
学園のメイドに伝え、トレイは一度そこで保管してもらえばいい。
「お持ち致します」
「ありがとう、アネット」
こちらに近付いてきたアネットが、私からトレイを受け取る。
そうして、私達は厨房を後にしたのだった。
寮へと戻ってきた私達。
絨毯の柔らかな感触を靴越しに感じながら廊下を歩いていく。
窓から差し込む光は血のように赤く、日が暮れかけていることを示している。
予想よりは早く終わったとはいえ、それなりの時間伯爵と話していた後にクッキー作りを始めたので、もう夕刻に差し掛かっているのだ。
視界の先にある彫像が夕日を受け、普段とは違った趣を醸し出している。
やがて目当ての扉の前に辿り着くと、アネットがそっと扉を叩いた。
それ程間を置かず、内側から扉が開かれる。
そこにいたのは、いつもユーフェルの後ろに従っているメイドさん。
何やら意外そうな表情を浮かべている。
「ご来訪歓迎致します、オーロヴィア様。ご用件をお聞かせください」
しかしそれも一瞬、彼女は表情からその色を消して頭を下げる。
「ユーフェル様に贈り物を持って参りましたの。お呼びいただけるかしら」
「畏まりました。お上がりになってお待ちくださいませ」
そう言って扉が開かれ、私達は玄関の中に入る。
当然ながら、内部の構造は私の部屋のそれと全く同じだ。
彼女は、部屋の主の居室へと繋がる扉の向こうへと姿を消した。
一分程待つと、木が軋む音を少し響かせながら扉が開かれる。
「こんばんは、サフィーナちゃん。どうしたの?」
姿を見せたのは、もちろんユーフェル。
その身には外行きと思わしき服が纏われている。
慌てて着替えたのか、少し乱れているのがご愛嬌か。
「日頃のお礼に、クッキーを作りましたの。お受け取りいただけますか?」
「もちろんだよ。サフィーナちゃんの手作りを食べられるなんて、すっごく嬉しいな。後で食べるね」
私が手にした袋を差し出すと、整った顔に笑みを浮かべさせて受け取ったユーフェル。
まあ手作り云々に関してはいつもの甘言だろうが、それを抜きにしても喜んでくれたのはよかった。
「喜んでいただけたなら嬉しいですわ。それでは、失礼致しますね」
「あ、ちょっと待ってサフィーナちゃん」
せっかくなので驚かせようと思い事前の連絡も特にしていなかったので、長々と居座ってしまっては失礼に当たる。
私がそう言って退出しようとすると、ユーフェルに呼び止められる。
「どうかなさいましたか?」
首を傾げて尋ねる私。
「今日からは普通に食堂で夜を食べるんでしょ? もし用事が無いなら、一緒に行かない?」
「ええ、構いませんわ」
特に用事も無いので、彼の誘いに頷く彼。
これまではセリーヌ嬢の毒殺を警戒して一度も食堂に顔を出していなかったが、事件が解決した今日からは他の生徒達と同じように食堂で夕食を取ることになる。
だが、夕食を食堂で取ることは決まっていても、別に全員が所定の時間に室内に集められて一斉に食べる訳ではない。
ある程度の時間ならば訪れるのはいつでも構わないのだ。
こうして、友人同士が誘い合わせて向かうこともよくあった。
「せっかくですから、セリーヌ様をお誘いしても構いませんか?」
数奇な出会いだったが、彼女もまた私の友人だ。
せっかく食堂で実家にいては味わえないような料理を存分に口にすることが出来るようになったのだから、共にそれを愉しみたかった。
「もちろんだよ。……その方が僕としても都合がいいしね」
「都合?」
「いや、何でもないよ」
「ならよいのですが……。アネット、セリーヌ様をお誘いしてきて」
「畏まりました」
少年が呟いた言葉が気にならなくもないが、かといって詮索しても仕方が無い。
どうせ恋愛絡みの何かだろう。
私は振り向くと、アネットにそう依頼する。
彼女は礼をして、そのまま部屋を後にした。
私の誘いを伝えるべく、セリーヌ嬢の部屋に向かったのだろう。
「失礼します。ユーフェル様、お服が乱れておりますわ」
別に公の場ではないとはいえ、食堂ともなれば他の生徒も大勢集まっているはずだ。
恐らく気付いていないのだろうが、このまま乱れた服でそんな場に向かってはこの少年に要らぬ悪評が立つことになる。
私は一言断ると、腕を伸ばして彼の服装を整えていく。
最後に屈んでズボンの皺を直すと、問題が全て無くなった。
「これで大丈夫ですわ」
まだ足下で膝を折ったまま彼の顔を見上げて、そう伝える。
ちゃらいのが玉に瑕だがそれさえ無ければいい友人なので、むざむざ悪評を立たせてしまうのは忍びない。
そして、私は立ち上がる。
「あ、ありがとう、サフィーナちゃん」
顔を真っ赤にしてそう呟くユーフェル。
彼も貴族なのだ、服装が乱れているのを同じ貴族である私に見られたことが恥ずかしいのだろう。
なおのこと、これを目にするのが私だけで済んでよかったと思う。
そしてちょうど立ち上がったところにタイミングを合わせたかのように、廊下へ続く扉が鳴り、アネットが戻ってきた。
「承知していただきました。一階で待っているそうです」
「分かったわ、ありがとう」
考えてみれば、彼女もエルティという講師の元で補習を受けていたのだ。
ただ伯爵と話していただけの私とは違い、まっとうに補習をしていたのなら終わってからそれ程時間は経っていないと思われる。
外出するための準備は必要無く、すぐに出られるのだろう。
「それじゃ、行こうか」
「ええ」
頷き、ユーフェルにエスコートされて廊下に出る。
そうして、私達はこれが初めてとなる食堂へと向かったのだった。
その後、一階の広間で合流した私達はそのまま食堂へと進んでいた。
とは言っても、食堂は広間のすぐ側なのでほとんど歩かないのだが。
私達は、入り口の巨大な扉を開いて中へと入る。
「わあ、とても広いのですね」
隣で、感嘆の言葉を零すセリーヌ嬢。
その言葉通り、食堂は相当な広さだった。
こうして室内に入るのは初めてだが、近くを通る際に外側から食堂の部分を眺めたことは何度もある。
食堂の部分のみが寮の建物から大きく外に迫り出す形になっており、外観からでも広さが容易に窺える程だったのだ。
さすがに入学祝いのパーティーがあった大広間程ではないものの、それでも規模は相当なものだ。
四方の壁は全て壁紙で白く塗り潰され、色彩豊かかつ精緻な絵が隙間無く描かれた天井からはいくつも吊り下げられた金襴のシャンデリア。
足下は絨毯の赤一色であり、その上には四角く巨大な食事用の机が並べられている。
王宮にあるような縦に長いディナーテーブルではなく、木製の正方形に近いような形のものだ。
中は意外と混み合っておらず、誰も座っていない机もかなり多い。
私達は近くにあったそれらのうちの一つに近付き、付属の椅子に腰を降ろす。
私が入り口から見て左一番手前の席に座り、左隣にセリーヌ嬢、正面にユーフェルだ。
ここまで付き従っていたカルロとアネット、テオドール、そしてユーフェルとセリーヌ嬢のところのメイドさんは別室へと移動していく。
言うまでもなく従者は同席出来ないが、しかし彼ら彼女らとて夕食を取る必要がある。
そのために、使用人専用の食堂も脇に用意されているのだ。
さすがにここ程ではないとはいえ、そちらも相当な広さらしい。
去り際に、カルロとテオドールが何やら会話を交わしているのが見えた。
今日が初対面のはずだが、もう仲良くなったのだろうか。
いいことだ。
ともあれ、三人になった私達。
すると、それを見計らったように厨房の方からメイドがこちらに近付いてきて、私達の前に白ワインが入ったグラスを置く。
グラスを傾け、中のそれを口に含む。
口の中に広がる葡萄の甘味と、そして強く芳醇な香り。
ワイン程度のアルコールならばどれだけ飲んでも平気なので、私は躊躇無く喉を鳴らしていく。
ユーフェルも飲み慣れているらしく平気なようだが、セリーヌ嬢はまだ不慣れなようで恐る恐るといった感じだった。
まあ、徐々に慣れて自分のペースを掴んでいけばいいだろう。
酒は程よく飲むのが一番いい。
「何を食べようか」
そうして全員のグラスが空になると、ユーフェルが口を開く。
この食堂にメニューは存在しない。
余程マイナーな郷土料理ならば別だが、そうでもない限りはどんな注文にでも応えることが出来るからだ。
逆に言えば、何を食べたいかを自分で決めなければならないということだが。
「そうですね……」
考え込む私。
クッキーを試食したので、それほど空腹ではない。
元より身体が小柄なこともあって小食なので、軽いものにしておきたかった。
「ティシェ風のトマトスープにしますわ」
そして私は答えを出す。
ティシェ風トマトスープは、中に玉葱や鶏肉が入った冷製のトマトスープだ。
料理名が示しているように単にトマトスープと言ってもいくつもの種類があり、これもまたそのうちの一つだった。
「じゃあ僕もそれにしておこうかな。満腹になっちゃう訳にはいかないしね」
「では、私もそれに致しますわ」
「決まりですね」
セリーヌ嬢は元より私と同じく小食であるし、ユーフェルは小食ではないがこの後でクッキーを食べたいのだろう。
二人とも、私と同じように軽いもので済ませておくつもりらしい。
「注文をお願い出来るかしら」
私は、近くを歩いていたメイドを呼び止める。
「承ります」
「ティシェ風トマトスープを三つ、それとこちらの二人に白ワインを。私には、ウォッカをそのままいただけるかしら」
「畏まりました」
頭を下げ、立ち去っていくメイド。
「割らずにウォッカを飲むの? サフィーナちゃん凄いね」
「いえいえ。お酒はそれなりに好きですの」
ウォッカとは言っても、ただウォッカとだけ注文して出てくるようなものはこの国ではせいぜいが度数六十度くらいのものだ。
もちろん銘柄によってはもっと度の強いものもあるのだが、そういったものは銘柄を指定して注文しなければ出てこない。
その程度の強さであれば、別にワインと変わらないだろう。
日本人だった頃は務めていた会社が開発したウォッカのうちの一つを定期的に製造部門の方から貰って愛飲していたのだが、あれが確か六十二度だったか。
そうしてしばらく三人で話していると、やがて完成した料理が運ばれてくる。
各々の目の前に置かれたスープが入った皿と、そして酒が入ったグラス。
私はひとまず、手元のグラスに入ったウォッカを煽る。
王立学園で出されるだけあってやはり高級なものであるその液体には癖が一切無く、ほとんど無味無臭に近いながらも僅かに香るアルコールの風味。
とても飲みやすいそれを、一杯目ということもあって私は一気に飲み干した。
そして空になったグラスを、近くを歩くメイドへと手渡す。
すぐに二杯目を持ってきてくれるだろう。
私はその間にスプーンを手にし、トマトスープを掬って口に運ぶ。
口内に広がるトマトの香り。
それはスープに溶け出した肉や他の具材の味と的確に混ざり合い、単体では出せないような味へと昇華されていた。
美味しい料理を食べながらならウォッカもより進む。
時折次のグラスを要求しながら、スープを啜っていく私達。
言うまでもなく、白ワインにもウォッカにもよく合う味なのだ。
そしてスープを飲み終え、八杯目になるウォッカを飲もうとしたところ、半分ほど液体で満たされたグラスが横合いへと動いた。
咄嗟にそれを目で追う私。
すると、いつの間にか私の右隣に立っていた灰髪の少年が飲みかけだったウォッカを一気に煽っていた。
「えと、ルウ……?」
全く気付かなかった。
思わず戸惑いの声を上げてしまう私。
この子の小柄な身体でグラス半分とはいえウォッカを一気飲みして大丈夫なのかと一瞬心配になるが、よくよく思い返せば先日のパーティーの際にも私や王子と同じペースで飲んでいても全く潰れる気配が無かったので大丈夫だろう。
どうやら、アルコールにはかなり強い体質なのだと思われた。
彼はこくり、と頷くとそのまま横合いから椅子の上に登るようにし、そして私の膝の上に腰を降ろした。
私自身前世と比べると小柄なのだが、しかし膝の上に乗られていても重さをほとんど感じない。
小さな身体と無表情とが相まって、まるでルウは人形なのではないかという錯覚を覚えてしまいそうになるほどだ。
幼い子の相手をするように、思わず頭を撫でてしまう私。
実際、行動を見ていると中身はわりと子供なのではないかと思ったりするのだが。
私の指が灰色の髪を通ると、心地良さそうに目を閉じるルウ。
「何かお飲みになられますか?」
何だか子守りをしているような気分になりながら、そう尋ねる私。
「サフィーナと同じのがいい」
「分かりました。……ヴェルトリージュ様と私にウォッカをお願い」
ウォッカを要望されたので、その通りに近くのメイドに伝える。
ついでに、自分の分を頼むのも忘れない。
まだまだ飲み足りないのだ。
それからすぐに、盆にグラスを二つ載せたメイドが近付いてきた。
先に受け取ったそれをルウへと手渡し、続いて自分の分も手に取る。
小さな両手でグラスを傾けてこくこくと喉を鳴らす彼の姿はとても微笑ましい。
そんな姿を眺めながら、私もこれで九杯目になるウォッカを飲み干す。
その後もそういった調子でウォッカを飲み続けた私とルウ。
正確には数えていないが数十杯は飲んだだろうかという頃、ふと見ると私の胸に身体を預けて彼は寝息を立てていた。
目を閉じた幼い寝顔を見せる彼。
アルコールの影響か、その頬は僅かに紅潮している。
「ヴェルトリージュ様の従者を呼んでいただけるかしら」
それ程時間が過ぎた訳ではないとはいえ、律儀にも、未だ私に付き合ってこの場に残っていてくれたユーフェルとセリーヌ嬢。
これ以上二人を待たせてしまう訳にもいかないだろう。
私は、起こしてしまわないように小声で通り掛ったメイドへと依頼する。
彼女は頷くと食堂の入り口の方へと姿を消した。
そしてしばらくすると、教室で目にしている公爵家のメイドの一人が近付いてきた。
こちらに詫びの言葉を述べると、少年を起こさぬようそっとその小さく軽い身体を抱き上げるメイド。
目を醒ますことなく、彼の姿は入り口へと消えていった。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。そろそろ行きましょうか」
「別に構わないけど……。かなり飲んでたけど酔いは大丈夫?」
「ええ。これくらいなら酔いませんわ」
「凄いね、サフィーナちゃん」
そんな会話を交わす私とユーフェル。
「あの……。どうやったらそれ程お酒に強くなれるのですか? 私はまだあまり飲めないので、羨ましくて……」
すると、横合いからセリーヌ嬢に話し掛けられる。
「無理に量を飲めるようになる必要はありませんわ。お酒は楽しむものであって、無理をして飲むものではありませんもの」
「ふふ、少し気が楽になりました」
公の場で酒絡みの失態をしてしまうのがまずいのであって、それさえしないのなら自分のペースで飲めばいいのだ。
全く飲めないのならともかく、少しは飲めるのなら困ることなど特にあるまい。
会話の合間にも、足を止めず入り口へと向かって歩き進む。
扉を通り抜け廊下に出ると、各々の従者達と合流する。
そして絨毯が敷かれた階段を昇り、二階へと上がった私達。
部屋が隣同士であるユーフェルとは違い、階も場所も離れているセリーヌ嬢とはここで別れになる。
「では、また明後日お会いしましょう」
「またね、セリーヌちゃん」
「ええ。本日はとても楽しかったですわ」
別れの言葉を交わす私達。
セリーヌ嬢は廊下を右方向へと進んでいき、私とユーフェルはそのまま階段を上がる。
「……オーロヴィア様。畏れながら、少しお待ちいただけませんか」
しかし、二階に背を向けた私はふと後ろから男性の声で呼び止められる。
声の方へと振り返る私。
視線の先には、テオドールの姿があった。
先に戻ったのだろうか、もうセリーヌ嬢とメイドの姿は無い。
「申し訳ありません、ユーフェル様。先に戻っていていただけませんか?」
「分かった。それじゃ、お休み」
ユーフェルに先に戻るよう告げてから、彼の方を向き直る私。
数段昇っていた階段を降り、少年へと歩み寄る。
すると彼は、私へと向けて膝を折り礼をした。
「我が主をお護りくださり、心より感謝致します、オーロヴィア様」
「テオドールは、セリーヌ様をとても大切に思っているのね。いい従者を持てて、彼女もとても幸せだと思うわ」
「……主を危険に晒した愚かなこの身には余るお言葉です」
前世と現世で様々な関係を見てきたが、これ程深い絆を持った主従は国中を探してもそうはいないだろう。
だからこそ罪を免じるように騎士団長に願ったのだが、その判断は全く間違っていなかったようだ。
「さすがにお嬢様の命令より優先する訳には参りませんが、此度のご恩は必ずお返し致します。何かあればお申し付けください」
続けて、そう口にする少年。
どうやら、このことを伝えるために私を呼び止めたらしい。
「ありがとう。でも、その気持ちだけで十分だわ。私はセリーヌ様を助けられただけで満足だもの」
「そうは参りません。主の命を救っていただけたという大恩、返さなくてはお嬢様に合わせる顔がありません」
他人の侍従を勝手に使うのは失礼に当たるだろう。
そう思い断ったのだが、しかし食い下がってくるテオドール。
「そこまで言うのなら……。もし何か困ったことがあれば助力を頼むことがあるかもしれないわ」
「お任せください。主の不利益にならない限り、オーロヴィア様のために力を振るわせていただきます」
「ふふ、ありがとう」
渋々ながら、私は言葉を返す。
建前上そう口にはしたが、恐らく本当に力を借りることは無いだろう。
少年の深過ぎる程に真っ直ぐな忠誠が微笑ましく好ましく、思わず笑みが零れる。
「では、失礼致します。我が主をお救いいただいたこと、重ねて御礼申し上げます」
用件を伝え終えると、主の元へと戻るべく立ち上がった少年。
廊下の向こうへと消えていく背中を束の間見送り、私は階段のところで待たせていたカルロとアネットの元へと戻ったのだった。




