12. 亡羊之嘆
そして翌日。
私は、伯爵の執務室へと向かっていた。
執務室は、教職員用の寮の建物の中に用意されている。
教職員用とはいえども、同じ貴族同士ということもあり学生用の寮と大した違いは無い。
校舎を挟んで学生寮の真逆にあるそこは、せいぜいが内装の傾向が少し異なっているくらいで、その豪華さは全く同じだった。
所々に置かれた彫像や壁に掛けられた絵画を除けば、学生寮の方と似たような風景の廊下を歩いていく。
担任である伯爵の執務室は、この建物の二階にある。
体力が無いために少し息を切らせながらも階段を昇り、廊下へと進んでいく。
襲い来る疲れに、前世で爵位を継いだ後に設計し、当時暮らしていた屋敷に導入した手動式のエレベーター(と言っても、せいぜいが人間サイズの木箱を人力で一階にあるハンドルを回して滑車で持ち上げる程度の簡易なものだが)を恋しく思い出す。
あれが設置されていれば、移動もかなり楽になるのだが。
正直私が生まれるもっと以前に誰かが発明していなかったことが不思議になるくらい簡素な構造のものなので、あれならば私が作った他の物とは違い設計者である私がおらずとも、或いは設計図が無くともこの国の人間だけで十分に運用が可能であるはずなのだが、全く普及していないということは領地にあった屋敷も消失したのだろう。
万が一軍勢による攻撃を受けて技術が盗まれそうになった際には、屋敷に火を放った上で専用の逃走路から逃げ出すように留守を任せていた者達には指示してあったのだが、その通りにしていてくれたらしい。
彼らは上手く身を隠して生き延びてくれただろうか。
さすがに、平民の身分である使用人達の生死までは歴史書には記されていない。
彼らの顛末がとても気がかりだった。
……と、そんな思考に耽っているうちに、目的地の近くへと到着する。
他のそれと同じ木材で作ったと思わしき扉には、ベルフェリート語で伯爵の家名が刻まれていた。
入らなくてはならないだろうか。
逡巡を覚える私。
昨日図書館であのようなことになったばかりなので、気まずくてあまり気が進まないのだ。
とはいえ、補習には当然ながらセリーヌ嬢も来ているはずだ。
男性恐怖症の彼女を伯爵と二人きりにしないためにも、ここまで来て引き返す訳にはいかない。
私は、意を決して扉をそっと叩く。
「サフィーナ・オーロヴィアです」
「入れ」
中から返事が聞こえ、それに従って私は扉を開ける。
するとその先には整然としつつも膨大な書類や書物に埋め尽くされた部屋と、やはりいくつも書類の山が載せられた執務机の向こうにいる伯爵の姿が見えた。
姿が見えるとは言っても、書類の隙間から青い髪の色が垣間見える程度だ。
それほどに、整頓されているにもかかわらずこの部屋は雑然としている。
仮にも王立学園の寮なのだから部屋の広さはそれなりにあるはずなのだが、眺めた限りでは自由に行動出来る空間さえあまり無い。
決して散らかっていたり無造作に物が散乱していたりする訳ではない。
むしろかなり整理されてきちんと並べられているため、尚更書類や書物の量の異常な多さが強調されていた。
そして私がそんな室内の様子に呆然としていると、書類の山の隙間から伯爵と目が合う。
まだ、彼女は来ていないようだ。
「先日から、研究が込み入っているのだ。少しばかり散らかっているが、気にせず来るといい」
彼は私へとそう促す。
しかし、今の私は当然ながらドレスを身に纏っているのだ。
豪奢ながらも細身の服を身につけた伯爵とは、勝手が全く違う。
パニエで膨らませているスカートを積まれた書類に全く触れないようにして歩き進む自信は、残念ながら私には無かった。
これだけの高さの山を崩してしまうのは申し訳ないので、昨日のことを抜きにしても室内に足を踏み入れるのはとても気が引ける。
「申し訳ありません、今の私はドレスを着ておりますので……」
どう返すべきかと迷ったが、とりあえず本当のことを告げることにする。
それでもなお崩れてもいいから来いと言うのならば、それに従って進むしかない。
「そうか、書類が崩れるな……。已むを得まい、補習は私の居室で行う。ついて来るように」
「は、はい」
沈黙と共に少しの間思考を巡らせた伯爵は、立ち上がると器用に書類の間を通り抜けてこちらへと歩き、私の隣を通り過ぎて廊下に出ると振り向いて私を促す。
その際に見えた彼の腕には、何枚もの紙が抱えられている。
補習用の資料か何かだろうか。
慌てて返事をして、彼の背に続く私。
セリーヌ嬢を待たなくていいのだろうかと疑問を覚えたが、彼がさっさと歩き進んでしまったためにそれを尋ねる間もない。
どうしようか、成り行きで伯爵の私室へと向かうことになってしまった。
昨日のこともあるというのに、補習を行うのが私室ともなれば気まずさは執務室どころではない。
出来ることならば帰ってしまいたいが、しかし今となっては手遅れだ。
なるべく早く終わることを祈りながら、私は伯爵の後ろ姿を追い駆けた。
どうやら、執務室がある階と彼らの居室のある階は、明確に分けられているらしい。
息を乱しながら、伯爵の背に続く私。
教員の執務室の場所こそ知っていても居室の場所など知っているはずもないので、彼の背を目印にするしか方法が無いのだ。
私の更に後ろには、カルロが涼しい顔で続いてくる。
一つ上の階に上がると、廊下の奥へと進んでいく伯爵。
何となく廊下の調度から感じるが、どうやら執務室があるのは二階までらしかった。
それより上には、居室が並んでいるのだそう。
彼が、遥か向こうへと続く廊下の中程辺りで立ち止まる。
そしてズボンのポケットから鍵を取り出すと、それを鍵穴に差し込んで扉を開かせた。
「入るといい。生憎と、しばらく前から切らしているので茶の用意は出来んが」
彼の細身の身体が中に入っていくと、室内の様子が視界に露わになる。
内装はおよそ私の部屋と同じであり、特筆すべき点は見受けられない。
設計上の広さでは大して変わらない面積であるはずの執務室と比べとても広く感じられるそこは、物がほとんど無く生活感がひどく薄かった。
備えつけと思わしき家具は並んでいるが、しかし棚の上や机の上には必要最低限のものを除けば何もおかれていない。
書物は全て執務室の方に置いているのか、壁際にある本棚さえも空であるほどだ、
その殺風景さがとても私の目を惹いた。
「失礼致します」
伯爵の背へと続き、私も室内へと足を踏み入れる。
もしここではなくそのまま執務室で補習が行われていたとしてもそうだったのだが、ここまでついてきてくれていたカルロには補習が終わるまで廊下で待っていてもらうことになる。
彼の姿が扉の向こうへと消え、私は伯爵と二人きりになった。
「座りたまえ」
「ありがとうございます」
円卓の上に手にしていた紙を置くと、椅子を引いてくれた伯爵。
彼に礼をすると、私は椅子の上へと腰を下ろす。
続いて、伯爵も私の円卓を挟んだ正面の席へと着いた。
緊張もあって彼とは顔を合わせ辛いので、ひとまず机上にある書類へと視線を移す。
適当に見てみたところ、それらの内容は単一の科目に留まらず、一枚ごとに異なる内容がインク字で記されているようだ。
伯爵の直筆と思われる文字はとても整っていて、先程の執務室やこの部屋の様子と合わせてその性格を如実に窺わせる。
察せられる範囲での印象だが、どうやら彼は典型的な学者といった感じの人物らしかった。
「さて、本日は貴嬢の欠席分の補習だ。まず初めに、何か要望や質問はあるか?」
「セリーヌ様は如何されているのでしょうか」
質問があれば言うように告げられたので、書類から目線を上げて共に欠席することとなった少女のことについて尋ねる。
私はまだ昔の経験と知識があるので講義に出られずとも問題は無いが、セリーヌ嬢の場合はそうはいかない。
休んでいたのは彼女も同じにもかかわらず、私だけが呼び出された理由が分からなかった。
「彼女は事件のため男性に恐怖心を抱いていると聞いている。彼女の補習の担当はエルティ殿に依頼した」
「ご配慮、感謝致しますわ」
伯爵の答え。
なるほど、それなら彼女がこの場にいないのも納得がいく。
確かに、それならば安心して補習を受けられるだろう。
無事に事件が解決し、侍従であるテオドールが戻ったことでかなり彼女の男性恐怖症は改善されたが、しかし完全に治った訳ではない。
親しくない異性と閉所で一緒になるのは、まだ彼女には厳しいはずだ。
「それでは、そろそろ始めようか。まずは史学からだ」
伯爵が机上に置かれた紙を一枚手に取り、そして私へと手渡す。
そこには、彼の言葉通りこの国の建国当初の出来事が記されていた。
知識を問う目的ではないので、特に文中の単語が抜かれていたりはしていない。
見ているととても懐かしい、昔侯爵家の家庭教師にこの時代の出来事について教わった覚えがある。
「当時宰相を務めていたカロッカ公爵の主導により三ヶ国連合軍との間に行われた決戦。主戦場になった場所はどこか答えよ」
「アローヴィンです」
「完答。やはり、貴嬢には補習の必要は無いようだ」
アローヴィンは、北から進軍してきた三ヶ国連合軍が通らなければならない道の途上にある要害の地だ。
ここに布陣した当時のベルフェリート軍は、見事に倍近い数の敵軍を打ち破ってみせたらしい。
仮にも国を一つ建ててみせた者なのだから当然だが、初代国王がそれだけ名将だったという証拠だろう。
「……何故貴嬢はこれだけの聡明さを持っている? 上級貴族の子女ならば不思議ではないが、貴嬢はそうではない」
いつも通りの簡素な台詞の中に、幽かな苛立ちが混じったような口調。
昨日と同じ、鋭い目線で見据えられる。
色恋沙汰はからきしでもこういった目線を投げかけられることには慣れているので、私も目を逸らさないままにじっと見つめ返す。
室内の空気が張り詰めた。
しかし、緊張感は不意に弛緩する。
伯爵はこちらから目線を外していた。
「失礼した、学者として少し興味を抱いただけに過ぎない」
しかし、そう言った彼は既にいつも通りの淡々とした様子に戻っている。
「では続けよう。もし貴嬢がこの時の連合軍の指揮官だったとしたら、どのような戦略を取る?」
「……ええと」
伯爵から投げかけられた問いに対し、当時の勢力図を頭の中に思い浮かべながらしばし黙考する。
現実的な諸事情を無視した最善手が何かと問われれば、それは当時の最前線の街だったエレディを占拠してそのまま防備を固めることだ。
そうして圧力を掛け続ければ、基盤が弱く内憂外患に悩まされていたその頃のベルフェリート王国は必ず瓦解しただろう。
しかし、現実的に考えればその選択肢を当時の連合軍が取るのは不可能なはずだ。
指揮官には三ヶ国の中で最も多く兵力を出した国の将軍が就いていたが、とはいえ他国の軍まで手足のように動かせる訳ではない。
とりあえず勃興したばかりであったベルフェリート王国に対抗するためにまとまっただけであり、各国の思惑が完全に一致していた訳でもないので、持久戦を取ろうとしても味方からの突き上げを受けることになる。
しかも連合軍の兵力はこちらの数倍にも及んでいたので、なおのこと決戦を求める声は強くなるだろう。
史実では彼らは王都へと真っ直ぐに進み、途上の要衝であるアローヴィンに築城し防備を固めていたベルフェリート軍と決戦を行った。
だがアローヴィンの地は峻厳であり、そうした地形をも利用した防備を連合軍は突破することが出来なかったのだ。
野戦であればまだしも、そういった形になれば防衛側の方が優位に戦闘を進めることが出来る。
そうして数週間ほど戦闘が続き、敵の兵が疲弊しきったタイミングで、こちら側の指揮官を任じられていたカロッカ公爵はあらかじめ敵陣の四方に潜ませていた伏兵に順次攻撃させた。
ほとんど地球でいうところの十面埋伏のような戦術だ。
どうやら全軍の半数以上を伏兵の方に回すというかなり思い切った作戦であったらしく、それが見事大成功したことにより連合軍は壊滅。
将軍達ですらそのほとんどが戦死し、無事に本国に帰還出来た兵は僅か数百人程であったらしい。
この大勝により圧倒的な劣勢を強いられていた勢力図は激変。
常に諸侯の反乱の危険を孕んでいた国内情勢は外憂が消えたことにより安定し、それとは対照的に、大打撃を受けた三ヶ国は最後までこの時の損害を立て直せぬまま十年以内に全て我が国に滅ぼされることとなる。
「無理でしょう。絶対に勝てませんわ」
そして、私の頭はそういった結論を叩き出した。
たとえ計算上可能であっても、それを選択肢として選べるとは限らない。
地理的に考えた場合、史実の侵攻路が最も軍勢を集結させやすいしこの国へと進みやすいルートなのだ。
連合を組んで進むとなると、他の方面から侵攻する場合はそれだけでも集結地点を変えるよう根回しをしたりしなければならない。
また、エレディを出発した後にアローヴィンを避けるとなれば、途中で東にかなり大回りする必要がある。
アローヴィンを避けるべきだということを知っているために結果論でこうして打開策を考えられるが、そんな情報など当然知らない指揮官の立場であれば他の選択肢など無いに等しかった。
つまりは、この国に攻め寄せた段階で彼らはもう詰んでいたのだ。
そこまで見通して作戦を立案して見せるとは、さすがはかのカロッカ公爵というべきか。
智勇兼備の名将として今なお名を轟かせているだけはあった。
もちろん、実際に指揮を執って作戦を成功させた初代国王も凄いが。
「私もそう考えている。決戦に持ち込まざるを得なくなった時点で負けは確定したようなものだろう」
そう言って、眼鏡を外した伯爵。
髪の色よりも少し薄いブルーの瞳が、直に私を射抜く。
まるで作り物のように整った顔に、陶器のように白い瞳。
露わになった彼の素顔は、とても美しかった。
「完答。この問いに完答したのは貴嬢が初めてだ」
どうやら、この答えを出したのは私が初めてらしい。
それもそうだろう。
この問題は、地図を眺めながら連合軍の敗戦を回避する方法を見つけるものではないのだ。
あくまで当時の指揮官の立場に立って、最善手を選ぶ必要がある。
そのことに気付けなくては、決して彼の望む答えは口に出来ない。
要は、ほとんど引っ掛けのようなものだった。
「愉しいな、出来のいい相手と語り合うのは。私には貴嬢がまだ歳若き少女だとは到底思えん。まるで名高き賢人と話しているような気分だ」
ともすれば冷淡とさえ受け止められるだろう表情に、伯爵は薄く笑みを浮かべさせる。
突如豹変した態度に、戸惑いを少し覚える私。
しかし、それを表には出さない。
「この身に過ぎたるお言葉、恐縮ですわ」
そうして、私達はしばらくの間、様々な会話を交わす。
話題は歴史から芸術、果ては現在の情勢にまで及んだ。
最後のことに関しては田舎育ちで情報網も持たず、現状に疎い私はほとんど知らなかったので、なかなかにありがたい。
やがて空腹を覚え始めた頃、彼はちらりと機械時計を見る。
「もう昼過ぎか。愉しい時間は早く過ぎ去るのだな」
言われて気付いたが、もうそんな時間になっているようだった。
補習などそっちのけで会話し続けていたのだ。
なまじ話題の数が多いので、いつまでも尽きることがないというのが大きい。
「私も、とても楽しかったです」
「ではそろそろ終わりにしようか。研究の続きをせねばならないのでな」
「補習はよろしいのですか?」
「その必要が無いならば補習を行う意味も無い。欠席時の授業で扱った事柄については、全てこの書類に纏めておいた。持って行くといい」
「ご厚意、感謝致します」
かくして補習は、予想外に早く終わることとなった。
いや、ただ話していただけで実質的には全く何もしていないのだが。
終わって自室へと戻ったら以前の茶葉と茶菓子のお礼にユーフェルに何か菓子を作って送るつもりだったのだが、この分なら思っていた以上に時間が取れそうだ。
伯爵から書類の束を受け取り、椅子から立ち上がる。
そんな私に続くように、彼もまた立ち上がった。
「研究に戻るついでだ、入り口まで見送ろう」
「ありがとうございます」
時間が足りないだろうと思い選択肢から除外していた菓子でも作ることが可能になったので、何を作ろうかと考えながらも室内を後にする私。
いずれにせよ帰ったらアネットに材料を買ってきてもらわなければならないため、その分の労力と時間も考えて選択肢を絞っていく。
職員寮の出口のところまで彼に送られて、私はカルロと共にそのまま自室へと戻ったのだった。




