11. 博聞強記
テオドールが戻り、事件も無事に解決したためセリーヌ嬢は自室へと戻っていき、数日ぶりに一人で眠った夜。
最近はいろいろと会話を交わすくらいには打ち解けていたため、幽かな寂しさを覚えつつも瞳を閉じた私は、やがて採光窓から差し込む眩い陽光を瞼に受けて目を醒ます。
路地裏でセリーヌ嬢を助けた日の三日後が授業の初日だったが、それから昨日に至るまでの期間私達は安全上の理由で授業を欠席していた。
私達としても、とても授業どころではなかったのだから仕方がない。
そしていよいよ、今日は私と彼女にとっての授業の初日だ。
ベッドから起き上がってカーテンを開け、大きく伸びをする私。
そのまま枕元近くの紐を引くと、アネットを呼び出す。
程なくして、外から軽い音を立てて叩かれる扉。
「入って」
「失礼致します、お嬢様」
扉の向こうから姿を見せた彼女は、いつものようにシックで簡素な作りのメイド服を身に纏っている。
今日の朝食の分のオーダーを書いた紙を手渡すと、彼女はそれを持ってこの部屋を後にした。
先日、騎士団の従者を装って侵入した男に伝えられた虚報によって私は危うく勾引かされかけてしまったが、ということはつまりどこに敵の手の者が潜んでいるか分からないということでもあった。
ただこの部屋を襲ってくるだけであればカルロがいてくれれば対処出来るので問題は無いが、もしも食堂で働く使用人の中に紛れ込んでいたとしたら、私達は最悪毒殺される可能性すらあることになる。
さすがに料理人達の身元ははっきりとしているだろうが、完成後の料理に毒を混ぜることは使用人ならば十分に可能だろう。
学園に勤めている一流の料理人達には悪いが、その状況で食堂から運ばれてくる料理を食べる気にはとてもならなかったため、昨日までは特別に生徒向けの厨房を一つ借りてアネットに作ってもらった料理を私とセリーヌ嬢は口にしていた。
夕食は食堂に集まって食べる決まりなので、本来ならばそれは許されなかっただろうが、現実に命の危険に晒されているということで特例で許可が下りたのだ。
無論そんな状況を学園側も放置出来るはずがないのだが、学園の使用人はかなりの人数に上るし、生徒のために用意しなければならない料理の総量は尋常なものではない。
全ての使用人の身元を再確認することはもちろん、とても生徒全員分の料理を取り急ぎで別途用意することは不可能だったのだろう。
学園のメイドとの会話でさりげなく情報を集めてくれていたアネットから聞いたが、どうやら厨房に騎士が数人入り不審な行動をする者がいないかを監視することになったのだそうだ。
とはいえ、昨日で晴れて事件は解決している。
ただ手を拱いていた訳ではない騎士団による数日の捜査により、事件の解決と前後して侵入していた手の者達も拿捕されていた。
安全が確保されたため、今日が久々の朝食オーダーということになる。
そしてしばらく待っていると、再びドアが鳴らされ、手に皿を持ったアネットが姿を現す。
目の前にそっと置かれた皿の上に乗っているのは、ハムエッグとトーストだ。
その横には、オニオンスープが入ったカップも並べられる。
日本ではおなじみの朝食メニューだが、植生や生態系が地球とほぼ同じであるこの世界にも同じものが存在しているのだ。
そして配膳が終わると、部屋を退出するアネット。
一人で取る食事は久しぶりだなとふと思いながら、私は静かな部屋の中で料理を口に含んでいく。
つい昨日まではこういった時にもセリーヌ嬢と様々な会話を交わしながら過ごしていたので、急に一人に戻ると何だかとても寂しく感じてしまう。
そうして私は食事を終える。
空になった食器を廊下を歩いていたメイドに手渡した私は、衣装入れからドレスを取り出して寝間着から着替えると、化粧箱を手にし鏡の前へと椅子を置いて腰掛ける。
日本人だった頃にかなり専門的なところまで覚えたので、一人でもきちんと化粧を施すことは出来るのだ。
公の場に出る際には髪を結ったりもしなければならないためその辺りはアネットに任せているが、一人で準備が出来る普段は自分でメイクをしていた。
余談ながら、もしかしたら変装をするのに特殊メイクの技術が役に立つかもと思ったこともあるのだが、未だにそのようなことをする機会は訪れていなかったりする。
それこそ、何かの理由で軟禁されてしまった際に別人に成り済まして脱出するためくらいにしか使えないだろう。
もちろん日本で使っていたものには遠く及ばないとはいえ、この世界の化粧品もなかなか侮れない。
少しでも美しくなりたいという女の思いは、たとえ世界を隔てようとも変わらないのだ。
私は、鏡を見ながら自らの顔に薄く化粧を施していく。
普段は髪を下ろしているので、着替えとメイクを済ませてしまえば準備はもう万端だ。
櫛を通して乱れを直すと、私はそっと立ち上がる。
今しがたまで座っていた椅子を円卓の方へと戻し、部屋の入り口の扉を開く。
そして靴を履いた私は、カルロとアネットを従えて廊下へと出る。
案の定、というべきか、そこにはいつものようにユーフェルの姿があった。
「おはよー、サフィーナちゃん。今日も可愛いね」
「あら、ありがとうございます」
最初は少し戸惑ったが、もう彼のこのような軽い態度にも慣れてしまっている。
そのため、笑顔で受け流すことが出来た。
「はあ……。サフィーナちゃんはつれないなー」
ぼやくユーフェル。
だが、そう言われてもそれが誰にでも言っているであろう言葉だと思うと素直に喜べない。
もちろんあまり失礼に当たらない範囲でだが、つい対応もおざなりになってしまう。
「さあ、参りましょう。あまりお話していては遅刻してしまいますわ」
「そうだね、行こうか」
まだ余裕が無い訳ではないが、それでも今日が初めての授業になるのだから少し早めに教室に着いておきたい。
私が促すと、彼も頷いて歩き出した。
普段と同じように、隣に並んで会話を交わしながら進んでいく私達。
もう授業が始まっているためか、同じように教室へと向かっていくと思われる同年代の少年や少女の姿も所々に垣間見える。
適当に彼らへと会釈しつつ、階段の方へと進む。
階段を下りれば正面には寮の出入り口があり、その外に広がる空は今日は晴れ渡っている。
とてもいい天気だ。
そのまま教室のある校舎へと向かうと、入り口を入った廊下の途中にセリーヌ嬢とテオドールの背中が見える。
私達は歩を早めて彼女らに追いつき、声を掛ける。
「おはようございます、セリーヌ様」
「あら、サフィーナ様。おはようございます。先日は、本当にありがとうございました」
横に並んで話し掛けると、彼女はこちらを向き微笑んで頭をぺこりと下げた。
声量もそう大きくはなく、相変わらず大人しそうな様子だが、しかし心なしかその表情は今までよりどこか明るくなっているように見える。
元気を取り戻してくれたのならば、何よりだった。
あれから髪を切ったらしく、前髪は眉の辺りで揃えられ、比較的長かった全体の髪形も今はショートヘアーになっている。
新しい髪形は彼女にとても似合っていた。
「オーロヴィア様、お嬢様のことをお救いくださり心より御礼を申し上げます。この御恩は、必ずお返し致します」
そして、その一歩後ろにいた少年もこちらへと頭を下げた。
事件が解決し、晴れて侍従へと復帰した彼は、主である少女の護衛として付き添っていた。
「セリーヌ様がご無事だったのですから、それで構いませんわ。頭をお上げください」
私は、少女達へとそう伝える。
貴族にとっては、人脈は大きな力の一つなのだ。
せっかく彼女と仲良くなれたのだし、それ以上の何かを求めるつもりは無かった。
それにしても、少女の悲鳴を聞いて身体が勝手に動いてしまうくらいには、私の心にはトラウマが根付いていたらしい。
こればかりは一度死んでみなければ分からないことだろう。
歩を進めながら、彼女は今度はユーフェルにおずおずと話し掛けている。
いくら事件が解決したとはいえまだ完全に異性への恐怖心が無くなった訳ではないらしく、どこか恐る恐るといった様子だが、それでも彼女は散々避けてしまったことへの侘びの言葉を口にしていた。
それを、笑いながら鷹揚に受け流す少年。
少女はほっとしたような表情を浮かべさせる。
彼とはいつの間にかよく一緒に行動するようになっているが、近くで観察するとなかなか優しくて性格もいいのがよく分かる。
それだけに、つくづくちゃらいところが残念だった。
そして教室へと入った私達。
半ばほどまで進み、適当に空いている席を見つけて腰掛ける。
列の左端にセリーヌ嬢、その隣に私、右にユーフェルという配置だ。
これなら、今日が初めてであるが故にまだついていけないであろう少女にフォローをすることが出来る。
まだ少し始業までは時間があるため、室内にいる生徒達の数は疎らだ。
それなりに席が埋まってはいるが、まだちらほらと空席は見受けられる。
そのまましばらく三人で談笑していると、前方の扉が音を立てて開く。
ふとそちらを見ると、廊下からルウが姿を現した。
小柄な体躯の後ろには、相変わらず十人ほどもの従者を従えている。
ここ数日は安全上の理由で部屋に籠りがちだったので、彼の姿を見るのもパーティーの時以来だ。
そんな少年の方へ視線を向けていると、ふと長い前髪に隠れかけた瞳と目が合う。
すると彼は、無表情な顔を少しだけ揺らがせ、こちらへと近付いてくる。
机が並んだ間の通路を、とてとてと歩く少年。
そして、私達が座っている机の近くへと辿り着いた。
セリーヌ嬢を挟んで、じっとこちらを見据える彼と目が合う。
束の間の沈黙。
「……ばか」
自ら沈黙を破るように小さくそう呟くと、彼はこちらから顔をぷいと背けさせる。
そして、そのまま近くの空いている席に向かうとその上に腰掛けた。
目でその姿を追ってみるが、顔を背けたままなのでその表情は窺えない。
……一体、何を伝えたかったのだろう。
相変わらず思考がよく分からない少年だった。
私達の横を、彼の背へと続く辺境伯家の従者達が通り過ぎていく。
「何だったのでしょうか……?」
首を傾げさせながら、私はそう口にする。
「サフィーナちゃんって、頭は凄くいいのに意外と鈍感だよね」
「鈍感?」
「あ、何でもないよ。……そろそろ意識してくれてもいいと思うんだけどな」
別に回答を期待した言葉ではなかったのだが、ユーフェルがそれに反応する。
しかし、返ってきた答えはやはりよく分からないものだった。
一体、何が言いたいのだろう。
意図が分からないので釈然とせず、そのまま始業の時刻になるまで私は首を傾げていたのだった。
そして始業を告げる鐘が鳴らされると、それから少しして青い髪の教師が姿を現す。
このクラスの担任、ベルクール伯爵だ。
学者としてそれなりの名声を持つらしい彼は、講壇に立つと教室を見回した。
別に朝礼なども無いので、そのまま授業が始まることになる。
「これより史学の講義を始める」
そう宣言する伯爵。
貴族としてきちんと独り立ちしているということは即ちこの学園の講師をしても問題が無いということだが、しかし礼法や基礎的な知識などは教えられども専門的な分野になるとそうもいかない。
そのため、ある程度担当科目が決まっているのが普通なのだそうだが、しかし彼は一人で自分の受け持ちのクラスのほぼ全ての科目を担当しているらしい。
現代地球の高度に細分化された学問とは異なり、この世界の諸学の間には明確な境界が存在しない。
一流の学者である彼には、それに相応しく幅広い知識があるのだろう。
もっとも、さすがに軍学などは教えられないだろうが。
軍学の授業だと、騎士団辺りから誰かが臨時講師として派遣されるのではないだろうか。
戦争になれば私兵を率いて敵国と戦うことになる貴族には、そのための能力も必要となるのだ。
指揮能力に関しては純粋に先天的な才能だろうと言わざるを得ないが、しかし軍学を学べばある程度はそれを補うことが出来る。
貴族には欠かせない学問の一つだった。
そうして、伯爵による講義が始められる。
私は、背後の従者用の席に座るアネットから史学の教科書を受け取る。
教科書とは言ってもそれ専用に作られたものではなく、要は最初から歴史書として書かれた書物だ。
それを机の上に広げる私。
彼自身が口にしたように、講義の内容は史学である。
まだ数回目ということで、この国が建国された頃の歴史について語られていく。
当然私自身がその場に居合わせた訳ではないが、ベルフェリート王国が建国されたのは大体今から七百年ほど前のことらしい。
中国で最も長く続いた王朝である周王朝が八百年、ベトナムのチャンパ王国が千六百年、王政ローマから数えればローマ帝国が二千二百年続いていることを考えると、七百年の歴史はそれなりの長さといったところだろう。
初代国王のアレクシス・レストリージュが当時存在した隣国の軍を撃破して王位に就いたのだそうだ。
王の血筋に関わることだからか、それ以前の彼の経歴については公には一切語られていない。
もちろん、この国が建国される前のこの地域の歴史もだ。
気になって個人的に各地の伝承を集めたりして調べたこともあるのだが、はっきりと形にする前にクーデターに遭ってしまった。
幸いにも頭の中に調べた内容は全て入っているので、資料が屋敷もろとも全て焼失したことは別に痛くないが、本格的に作業を再開することは当分出来そうにない。
だが、その部分は私達がいない間の授業で終わっている。
今伯爵によって語られているのは、二代目国王の代の話だ。
初代国王が建国後数年で急死したため、嫡子でありその跡を継いだ二代目国王のコンラート・ユーフェルリージュは随分と苦労をしたらしい。
もちろん史書に苦労をしたなどと書かれている訳ではないが、この時期には諸侯の反乱や周辺諸国からの侵攻が相次いでいる。
もし彼が父親の下で活躍した軍才の持ち主でなければ、今頃この国は存在していなかっただろう。
「サフィーナ嬢、この時の敵国の狙いについて解説せよ」
伯爵からの指名を受ける私。
二代目国王の治世八年目に侵攻してきた国の思惑についての話題だ。
史学の授業は、単に歴史上の出来事を解説され覚えるだけのものではない。
というか、自分が生まれる前の事件を貴族が覚えておく必要など特には無いのだ。
では何故史学の講義がこの学園で行われるかといえば、それは一種の教訓としてに他ならない。
過去にあった出来事が起きた理由を考え、理解することで、貴族としての優れた判断力を身につけさせるためだった。
先程からも様々な生徒が指名され、ある者は答えられず、ある者は的外れな答えを返したりしていた。
その末に、私の番が来たという訳だ。
「ガリウス王国とエスペリオ王国が戦争に突入したことで西方に備える必要性が薄れ、そのために生まれた余剰兵力で我が国の金山を奪おうとしたのでしょう」
「完答だ、サフィーナ嬢。他の者も見習うといい。このように、個々の事象を結び付けて考えられるようになることが史学の授業の目的だ」
前世で家庭教師に教わった内容だったので、難なく答えられることが出来た。
とはいえ、いささかこれを答えろというのは酷なのではないだろうか。
ガリウス王国とエスペリオ王国というのはもちろん近隣に存在している国の名前なのだが、どちらも一度として我がベルフェリート王国とは隣接したことがない。
つまり、一応の国交こそあるものの、この国の歴史というものにおいて両国の名が出てくることはほとんど無いのだ。
今の講義はこの国の歴史についてのものなので、当然両国が戦争状態に陥ったことなど教科書である歴史書には一言も書かれていない。
にもかかわらず、それをあらかじめ知っていなければ絶対に答えられないような問題なのだ。
とても予習したり授業をきちんと聞いていれば分かるような答えではない。
相手はまだ入学したばかりの生徒達なので最初から答えられることなど期待していなかったのだろうが、それにしてもなかなかに無茶な問題を出すものだと思う。
「ではセリーヌ嬢。この戦乱への対処を先導した、コンラート陛下時代の宰相の名前を答えよ」
そして、続いて隣に座るセリーヌ嬢が伯爵からの指名を受ける。
初代国王時代の宰相であれば、きっと前回までの講義で既に触れられているのだろう。
しかしながら、今日が始めての出席である彼女に分かるはずもない。
私はペンを手にしてこの国の文字で素早く紙に正答を書き記し、それをさりげなく少女へと見せる。
「か、カロッカ公爵です」
「正解だ。では次の者……」
無事にフォローすることが出来たらしい。
緊張した様子ながらも答えを口にした少女は、正解を告げられると安心したように息を吐く。
その後も授業は続いていき、様々な問題が投げかけられていく。
教室はかなり広く、数えてはいないが室内にはそれなりの数の生徒がいるため、二度当てられるようなことはまず無い。
やはりというべきか、学園での授業とは無関係に実家で教育を受けていたらしいルウも見事に完答をしてみせていた。
「それでは、これにて史学の講義を終える。―――サフィーナ・オーロヴィアは明日の午後私の執務室に来るように」
やがて授業の終わりが告げられるが、そのついでとばかりに呼び出しを受けた私。
恐らく、欠席していた分の補習だろう。
学園の講師陣は皆貴族であり、つまり実家に帰ればそう広くはないとはいえ領地を持っている。
つまり領地運営のための書類の決裁も行う必要があり、故に皆学園の中に用意された居住用の部屋とは別に執務室も与えられているのだ。
明日と明後日は学園が休みの日である。
何日も続けて休んだ挙げ句に一日だけ出席してまた休みというのはどうかと思わなくもないが、まあ命が懸かっていたのだから仕方がないだろう。
休みは潰れてしまうことになるが、特に何か予定が入っている訳ではないので特に問題も無い。
そうして美貌ながら厳格そうな雰囲気を纏わせた伯爵は教室を後にし、それに伴い途端に弛緩した空気と共に史学の講義が終わったのだった。
史学の補習から数日が過ぎ、その日の授業を終えた放課後。
久しぶりに部屋の外を歩き回ることが出来るようになった私は、学園の図書館へと来ていた。
やはり両側に一人ずつ騎士が立っている入り口を通り抜け、カルロと二人で奥へ進んでいく。
火災対策のために石組みが剥き出しのままの壁は冷たい印象を私達に与え、同じように床にも絨毯は敷かれていない。
場所柄から必然なのか、人影のあまり無い廊下はひどく静かだ。
壁に反響した靴が床を叩く軽い音だけが耳に届く。
つい昨日抱き締められたばかりなので、こうして二人きりになるとどこか気まずさにも似た妙な雰囲気が彼との間に広がる。
朝からなるべく彼の方を見ないようにしていたが、まだその整った顔を直視することは出来そうになかった。
「……ここで待っていて」
「はい」
主の使いとして預かった紙を司書に渡してそこに書かれた本を受け取り、それを主の元へ届けたりすることは可能だが、しかし書物が置かれた部屋へは従者は入ることが出来ない。
司書がいる部屋を通り過ぎて本棚が並ぶ部屋の前へと辿り着いた私は、振り返って彼にここで待っていてくれるように伝える。
しかし、そんな些細なやり取りさえ、まだ昨日の記憶が鮮明な今はついどこかぎこちなくなってしまう。
結局、場に孕まれた妙な雰囲気は扉を挟んで互いの姿が見えなくなるまで張り詰め続けたのだった。
そして私は、見渡す限りに本棚が並んでいる広大な部屋に足を踏み入れる。
途端に肺一杯に広がる、どこか懐かしさを覚える古本独特の匂い。
本の保管のために決して本棚に光が差さないような場所に必要最小限の数の採光窓しか設けられていないので、やはり石造りが剥き出しになった壁や床と相まって室内は冷たく薄暗い。
元々気温がそれほど高くないということもあるが、それなりの厚さのドレスを着ているにもかかわらず少し肌寒ささえ覚えてしまうほどだ。
しかし、図書館という場所のせいか肌に感じる冷たさもどこか心地がいい。
人の姿はあるにはあるのだが、誰も声を上げたりはしないのでとても静かであり、歩を進める度に靴の音が静寂へと大きく響いた。
やはり石で作られた本棚に近付くにつれ、感じられる本の匂いがより濃厚になっていく。
幾段にも分かれた棚に隙間無く並べられた本の数々。
歩みを止めた私は、その前に立ちベルフェリート語で書かれた背表紙を眺める。
転生してからもう十三年にもなるが、しかしここ二百年の出来事を全て把握出来ている訳ではない。
実家の書斎に置かれている本は読み漁ったものの、中小貴族の悲しさ、主に金銭的な理由もあってこういった場所と比べればそれほどの量がある訳ではなく、得られる情報は限られてしまっていた。
現代日本のような高度な情報網など当然存在しない世界だ。
情報の価値は地球よりもずっと高い。
ましてや前世とは違い本格的な情報網を独自に持つことは不可能に近いのだから、何をするにしても可能な限り知識は手にしておくべきだった。
そして、目の前に図書館という智の宝庫が存在しているからには、それを無視する理由はない。
私は本棚へと手を伸ばし、ふと目に留まった黒いカバーの書物を取り出す。
その際に手の甲に少し触れた石の感触がとても冷たい。
ハードカバーであるためずっしりと重いその本は、音楽関連の専門書らしい。
表紙を開くと、色褪せた紙に黒いインクで記された目次にはベルフェリート語で様々な楽曲の名前が書かれている。
誰でも知っているような有名なものから、それほどの知名度を持っていないものまで。
中には、私の知らない曲の名前もちらほらと見受けられた。
ピアノ状の楽器が何故か存在しないこの世界においては、宮廷音楽はそのほとんどが弦楽曲だ。
興味を惹かれた私はページをめくり、そこに記された楽曲の解説と楽譜を眺める。
貴族の教養として知っていて損は無いというだけでなく、純粋に一介のヴァイオリン弾きとしてこういったものを見るのは楽しい。
転生してからはまだ一度も演奏していないが、この学園には音楽の授業もあるはずなのでそこで弾けるだろう。
とても楽しみだった。
我が実家の財政状況だと安物ならばともかく高級なものなど入手出来ようはずもないが、この学園では最高級のものを用いて演奏することが出来るのだ。
一人の演奏者として、胸が高鳴らないはずがない。
もちろんこの世界の弦楽器は地球のヴァイオリンとは微妙に勝手が違うが、それも前世の幼い頃にみっちりと練習させられたので特に問題は無い。
私は、眼前に広げたページに記された楽譜の旋律を頭の中で再生させながら、そう物思いに耽る。
「……きゃっ」
しばらくそうしていたところに急に後ろから肩を叩かれ、思わず悲鳴を上げてしまう私。
集中が途絶えたことで頭の中に流していた旋律は余韻も残さずに掻き消え、再び聴覚が辺りの静寂を感知する。
そのせいで、何も遮るものの無い私の小さな悲鳴が室内全体へと響き渡ってしまうのがよく分かった。
咄嗟に振り返ると、そこには私のクラスの担任であるベルクール伯爵の姿。
頭の中で音楽を流していると、そちらに熱中してしまい周りの音が聞こえなくなる。
そのせいだろうか、足音をさせていただろうに私は彼の接近に全く気付いていなかった。
とはいえ、仮にも貴族なのだからこのまま呆然としている訳にはいかない。
「このような場所で奇遇でございますね、ベルクール様」
私は強引に驚きを抑え込むと本を閉じて左手に持ち、反対の手でスカートの裾を摘んで彼に礼をする。
「ふむ……殿下の評はあながち間違っていないようだな」
しかし、特に反応を見せずに何かを呟いている伯爵。
若干訝しさを覚えながらも、私は彼へと問い掛ける。
「あの……ベルクール様?」
「ああ、すまない。貴嬢の器量に感心していただけだ」
教室で見ているのと同じ無表情な美貌を動かさないまま、彼はそう口にする。
そしてそのまま、私の手元を覗き込む。
「音楽書か。―――五百年前に活躍した作曲家、リベルト・カッラの代表曲を答えよ」
「『蝶』です」
何の意図かは分からないが、授業の時のように設問を投げかけてくる伯爵。
答えない訳にもいかないので、答えを口にする私。
リベルト・カッラといえば貴族ならば誰もが知る高名な作曲家だ。
勇壮さを以て名高いその楽曲の数々は名作として現代にまで受け継がれ、死後五百年になる今なお盛んに演奏されている。
中でも代表曲として知られる『蝶』は、この国で最も評価が高く、また頻繁に演奏される曲の一つだと言って過言ではない。
「完答。では、二百年前に活動し、『鳴弦』が代表曲である作曲家は誰だ?」
「アルベロ・カルドナです」
再び与えられた伯爵からの問いに答えながら、挙がった名前に幽かな懐かしさを覚える私。
私の前世の頃に作曲家として活動していた彼のどこか悲壮な楽曲の数々は、貴族の間ではあまり人気が無かったものの、個人的にはとても好みだった。
彼は様々な曲を作ったもののどれもあまり人気が出ず、代表作である『鳴弦』でさえ当時少し演奏された程度。
いつか機会があればまた聴きたいが、知名度の問題でなかなか機会は無さそうだ。
「完答だ。―――が、何故答えられる? アルベロ・カルドナは一度歴史に埋もれ、最近になって再発見された人物だ」
「じ、実家にあった本で読みましたので……」
何故だか少し苛立った様子の伯爵がこちらへと歩み寄り、後ずさる私の身体を本棚へと押し付ける。
あの人やっぱり最後まで売れないままだったのか……じゃなくて、一体この状況は何なのだろうか。
青い髪をした伯爵の整った顔が、すぐ見上げた先にある。
眼鏡の奥の普段と変わらぬ鋭い眼光がこちらを射抜く。
もちろん転生したからなどとは言えないので適当に言い繕うことになるのだが、咄嗟のことに思わず言い淀んでしまう私。
手首の冷たささえ、今はあまり感じられない。
彼の瞳を直視していられず、慌てて目を逸らす。
そしてそのまま数瞬。
永遠に近いような束の間が流れ、伯爵の身体が離れていく。
「明日は補習だ。必ず私の執務室に来るように」
「……もちろんですわ」
こちらに背を向けた彼が、私へとそう告げる。
それに対し、まだ緊張したままの私は今度はそう返すのがやっとだった。
そのまま、こつこつと足音を響かせながら立ち去っていく伯爵。
入り口の扉の向こうに彼の姿が消えた後も、私はしばらくその場で呆然としていたのだった。




