10. 輾転反側
その後、図書館裏の林の中に転がっていた死体の検分が騎士団によって行われ、それらが逃走していたモンテルラン子爵家の元執事とその一味のものであることが明らかになり、事件は無事に終わりを告げた。
テオドールが自分で自分を縛っていた縄はセリーヌ嬢の手によって解かれ、そのまま部屋へと帰っていった二人。
無論、急展開で事件が解決したからには私達も騎士団長もいつまでもその場に残っている理由は無い。
自然とそのまま解散となり、私達も騎士団長へと別れを告げてから寮へと戻ったのだった。
その道中では所々に警備に当たる騎士の姿が視界に入るが、数日前より明らかに数が増えている。
学園内に敵の侵入を許した以上、再発防止のために警備が強化されているのだろう。
それでもいろいろと隙は見えるが、まあやらないよりはやった方がいいのは確かだった。
敵からの襲撃を受けているため、安全上の理由から私もセリーヌ嬢もここ数日は授業を休んでいたが、事件が解決した以上明日からは出席することになる。
前世で貴族をやっていた私はともかくとしても、そうではない彼女にとってはいきなりの遅れを取り戻すのは大変だろう。
彼女とも教室が同じなので、しばらくの間は近くの席に座ってなるべくフォロー出来るようにしようと決める。
そして鍵を開けて扉を開き、自らの部屋へと戻った私。
私に続いて、カルロも室内へと入り玄関の扉を閉める。
背中越しに、鍵の掛けられる音が聞こえた。
この寮の部屋の玄関には日本の家屋のように土間が設けられており、そこで靴を脱いで部屋へと上がる形になる。
別にこの寮に限らず、貴族の私室にはこのような形式の玄関が必ず設置されている。
屋敷そのものの玄関はそのまま土足で入るし、屋敷内の大半の空間は土足のまま使用することになるが、私室においては靴を脱がなくてはならないのだ。
私は揃えて靴を脱ぐと、段差を上がって柔らかな絨毯を踏み締める。
白いレース地のストッキング越しに足裏に伝わる最高級絨毯の感触は、とても柔らかくて心地がいい。
「……お嬢様」
そして自室の扉に手を掛けようとしていると、背後からカルロに呼び止められる。
このタイミングで、彼の方から声を掛けてくるのは珍しい。
「何かしら?」
振り向いて、用件を尋ねる私。
視線の先では、少年が跪いてこちらを見上げていた。
初めて出会った時からかれこれもう七年も側にいるので、黙っていても彼の感情はある程度察せられるようになっていた。
今のカルロは、何故だか泣きそうな顔をしている。
「先日市街で襲われたというのは本当、ですか?」
「ええ、本当よ」
彼の問い掛けに、私はそう言葉を返した。
恐らくは騎士団長から聞いたのだろう。
本当のことなので、そのまま頷いておく。
あれは、まさか表通りで堂々と襲ってくるような輩がいるとは想像もしていなかった私の油断だ。
どれほど厳重な警備にも人間のすることである限りどこかには穴があると思われる以上、それを的確に突いてみせた犯人達がそれだけ有能だったということだろう。
騎士団長も同感だったらしく、これからは中央区の警備を今まで以上に強化すると言っていた。
それにしても、結局彼らが私を襲った理由は何だったのだろうか。
偽の使者によって私を誘い出したこと自体はカルロをセリーヌ嬢から引き離すためだったのだろうと推測出来るが、その後に私を狙った理由がよく分からない。
私を捕らえたり殺したりしたところで、彼らにはメリットなど特には無いはずなのだが。
騎士団から手配を受けたことに自棄になって邪魔をした私に攻撃対象を変更したのか、あるいはカルロを倒せなかったために私を捕らえて彼に対する人質にしようとしたのか。
いろいろと考えてみたが、それくらいしか私には思い浮かばなかった。
いずれにせよ、犯人の一味は既にテオドールによって全員処断されているため、その辺りの真相を知る術はもう無い。
「……そうですか」
私の言葉を聞いたカルロは、小さく呟くようにそう言うと顔を俯かせる。
そしてそのまま数秒間動きを止めると、ゆっくりと立ち上がった。
「っ!? か、カルロ……?」
一瞬、何が起きたのかが分からなかった。
混乱する思考。
思わず、驚きの声を小さく上げてしまう。
背中に回された腕の力強い感覚。
服越しに伝わる厚い胸板の感触。
そう、私はカルロの腕の中に抱き締められていた。
私と少年の間にはそれなりの身長差があるので、目の前には彼の胸の辺りが来る形になる。
幽かながら確かに感じられるカルロの匂い。
抱き寄せられたことによって頬に触れた胸板はとても固く頼もしい。
まだ出会ったばかりの頃とさして変わらない子供だと思っていたのだが、彼もまた成長しているのだということを如実に理解させられてしまう。
かつて日本人だった頃、平凡な家庭に生まれた私は学生時代特に誰かと付き合うことはなかったし、高校を卒業して就職して以降はずっと仕事一筋に生きていて恋愛などそっちのけだった。
前世では若くして爵位を継いだ私はそれ以降領地の内政に力を注ぎ、その成果が認められて宰相補佐に任じられてからは国政を動かすことに手一杯で恋愛どころではなく、フォルクス陛下に片想いこそしていたものの、結局想いを伝えることは出来なかったしもちろん成就することもなかった。
つまり、私にはまともな恋愛経験が無かったりするのだ。
そのためか、先程から気恥ずかしくて仕方がない。
心臓の鼓動が激しくなっているのも分かるし、顔が熱くなっていくのもはっきりと分かる。
かつて王子に抱き抱えられた時には不敬という言葉がちらついてそれどころではなかったし、先日騎士団長に抱き抱えられた際も捕らわれる危機が目の前に迫っていてやはりそれどころではなかった。
そのために相手のことをあまり意識させられずに済んだが、しかし今この場には私の気を逸らしてくれるような要素は何も無い。
ただでさえ二人きりの静かな室内で、カルロという少年の存在を嫌というほど意識させられてしまう。
「カルロ……?」
私は、私を抱き締めたきり一言も言葉を発しないカルロを恐る恐る見上げる。
カルロと小柄な私との間には身長差がかなりあるので、今の体勢のままでも見上げれば彼の表情を窺うことが出来るのだ。
すると、こちらを見つめていた少年と目が合い、その拍子にどきりと胸が高鳴る。
それと共に、ふと頬に触れた暖かな感覚。
視界に映った彼は、整った顔を悲しげに少し歪ませて泣いていた。
「……お嬢様、どうかこれからは一人で出歩くのはおやめください。お嬢様が襲われたと聞いて、どれだけ心配したか……!」
口を開くと共に背中に回された腕に力が籠り、私はぎゅっと強く抱き締められる。
二人の肌の距離が服越しとはいえゼロに近付くにつれ、激しい心臓の鼓動が彼に伝わるのではないかという錯覚をふと感じた。
ドレスの肩口を、彼が零した涙が濡らしていく。
「心配を掛けてしまってごめんなさい、カルロ」
どうやら心配を掛けてしまったようなので、私は謝罪の言葉を口にした。
侍従という存在は、主である貴族女性を護るために存在している。
貴族の男性は往々にしてそれなりの剣術を修めていることが多いため自らの身を護れるが、そのような術を持った貴族女性はほとんどいないためだ。
もちろんカルロも例外ではなく、初めて顔を合わせたあの日から私の護衛のために厳しい訓練を積み重ねてきている。
そのことを知っているため、心配させてしまったことがなお申し訳なかった。
申し訳なさと羞恥心が頭の中でない交ぜになり、徐々に思考が上手く纏まらなくなっていく。
「お嬢様に何事も無いか、不安なまま待っているしかないのはとても辛かったです。この部屋が敵に襲われた時など、今すぐ部屋を飛び出して追いかけようかとも思いました。お嬢様の言いつけなので、部屋から出ずに待っていましたが……」
「ご、ごめんなさい……。心配してくれてありがとう」
なおも掠れ震える声で続けるカルロ。
彼の声の強弱が揺らぐと共に、それに合わせるように私の背に回された腕の力加減もまた微妙に変化するのが分かる。
それに反応して、背中をその度に軽く震わせてしまう私。
返答をする声もまた少し震えてしまう。
そう一言二言を返すのがやっとだった。
ここから見える範囲に鏡は無いが、きっと今の私の顔は真っ赤になっているだろう。
「お嬢様のことは、何があっても絶対に私が護ります。だから、もう置いていかないでください……」
「……っ!」
ひときわ強く抱き締められ、声無き悲鳴を喉から発してしまう私。
ここまでの忠誠心を抱いてもらえている私は、とても幸せ者だ。
まだ何も報いてあげられていないのが心苦しいが、この気持ちを裏切る訳にはいかない。
これからは極力危険を避けることを心に決める。
「か、カルロ、そろそろ離れて……」
だが、こういった状況に対する経験も免疫も無い私にはそろそろ羞恥心が限界だった。
小さくしか出せそうにない声を限界まで振り絞り、彼にそう伝える。
すると、はっとしたように身体を離すカルロ。
「勝手にお身体に触れてしまい申し訳ありません! いかなる罰もお受け致します」
そして再び私の前に跪き、彼はそう口にする。
まあ確かに、いくら心配だろうと何だろうと許可も無しに肌に触れられるというのは貴族として怒ってもいい場面なのだが、とはいえこれほどの忠誠を捧げられて怒れるはずもない。
そもそも、少し恥ずかし過ぎただけで別に不快だった訳ではないし。
熱を孕んだ頬。
まだ春先だというのに、体温が上がってしまったせいかひどく暑く感じる。
私は数秒息を止めてどうにか心を落ち着けてから、彼の名前を呼んだ。
「カルロ」
「は、はい」
「これからも、私を護ってね」
私と同じように顔を赤く染めさせつつも、緊張した面持ちでこちらを見上げているカルロ。
そんな彼へ、私は一つ笑みを浮かべさせてそう告げたのだった。




