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32. 惜別(2)

マリア嬢との雑談を空が暗くなりかけるまで続けた私は、彼女が馬車に乗って帰った後(やはり幼い頃から乗っている故か揺れは平気らしい)急いでベルフェリート語の教材を作っていた。

なにぶん急なことであるし簡易的なものではあるが、通信教育という形でのサポートもするつもりなので十分に役目を果たしてくれるはずだ。

そして日付けが変わりかけた頃にようやく作業を終わらせた私は、ペンを動かし続けたことによる手首の痛みを若干覚えながらも眠りについた。

ふかふかのベッドの抜群の寝心地は、少し夜更かしをして延々と作業していたことによる疲れを綺麗に拭い去ってくれる。

深く眠った私は目を醒ますと、いつもの赤いドレスに着替えて饗される朝食を取りながら今日はどうしようかと考えていた。

こんな時アネットが傍にいてくれたら自分の思考を吐露しながら助言を求めることが出来るのだけど、などと思いつつナイフとフォークを動かす。

マリア嬢と別れを済ませた今、他に別れを惜しむべき相手といえばセルージュ家の母子くらいである。

別にどちらを誘ってもよいのだけれど、ここはカトリーヌ女史を先に誘うことにしようか。

単純にカトリーヌ女史との方が仲がいいし、彼女には先日お茶会に誘ってもらったことの借りもあるのでそれを返す意味でも。

とは言ってもベルフェリート人である私にこの王都で気の利いた行き先など分かるはずもなく、結局は返礼もマリア嬢に対したのと同じでやはりお茶会になるのだけれど。

そうと決まれば、準備をしなければならない。

考え事をしながらの朝食を終えて食器を片付けさせると、私は侍女にアーモンドクリームのマカロンを作るように命じる。

以前レールシェリエに滞在していた頃に書類仕事の息抜きに食べた、あのマカロン(の模倣品)だ。

いくら相手が違うとはいえ二日連続で同じものをお茶請けにするのも芸が無いと思うし、若い少女ではないカトリーヌ女史には甘さの強いアップルパイよりもマカロンの方が味覚に合うのではないかと思ったというのもある。

そうして指示を出すと、椅子に腰を下ろした私は昨日あれから教材作りに励んでいたために読めていなかった小説の続きに目を通し始める。

冊子の分厚さから見て、およそ現時点で全体の三分の一を読み終えたというところだろうか。

時折挿絵も入っているので一概には言えないが、この小説は文章量というか冊子の厚さも鈍器と表現してよい程度にはあった。

詩のように地の文に韻を踏ませながらこれ程の文字数を書いてみせるというのだから、作者の知性と文学的才能には恐るべきものがあると言えるだろう。

実際に作品も大ヒットしているのだし、名前を公表すればかなりの富と名声を手に入れられると思うのだがそれをしないのはやはり作者が貴族階級で何かしらの事情があるからだろうか。

そんなことを考えながら、私は読書をしつつマカロンの完成を待つ。

作品の題材や設定そのものはさして奇抜なものではない。

現代のフェーレンダールが舞台でありメインキャラクターも俺様な性格の貴族の男性とそれに翻弄されながらも様々な事件を経て次第に惹かれていく平民の女性なのだから、むしろよくある陳腐なものだとさえ言えるだろう。

しかしながら読み手の期待通りに進む部分と期待を裏切る部分のバランスが絶妙であるために次の展開を容易には予想出来ない読者は続きが気になることになり、登場人物達の軽妙なやり取りはキャラクターとしての魅力を引き立てていた。

文章も韻を踏んだり伏線が張られていたりと仕掛けが満載でありながらも読みやすく、実にスムーズに頭の中へと入ってくる。

この作品には小説に求められる要素のおよそ全てが揃っており、題材の陳腐さなど読者に微塵も感じさせなかった。

およそ題材とストーリーの一点押しで作品の面白さを読者に叩きつけるリヒャルトとは全く異なった作風であると言えるだろう。

――いや、リヒャルトは創作という行為に喜びを覚えている生粋の芸術家だ。

彼にこの小説を読ませれば、更なる芸術表現を求めてこの小説のような表現手法に手を出すかもしれない。

問題はそれにはこの小説をベルフェリート語に翻訳しなければならないということだけれど……これが最難関と言ってもいいくらいに難しい。

何しろフェーレンダール語で韻が踏みに踏まれているのだ、元の文章の文章としてのニュアンスを崩さないようにしながら押韻までもを忠実にベルフェリート語に移し替えるという所業は難しいなどという次元の問題ではなかった。

翻訳者には両国語への深い学識に加えて、相当の詩才が求められることになるだろう。

出来ないとは言わないが……仮にやるとすれば年単位の時間を要するような一大事業になることは確信出来た。

或いは、劇作家でもあるリヒャルトの場合この作品を演劇にすることの方に興味を持つかもしれない。

何故かといえばこの小説の文体は小説というよりもむしろ詩に近いのだ――即ち旋律を付けて歌いやすいということであり、舞台上で作中世界を忠実に再現するのは比較的容易だろう。

この国でも当然の如くに数多の劇団がこの作品の演劇化の権利を求めて交渉しているという話だが、そもそも匿名である作者に連絡を取ることが難しい上にどうにか連絡を取ってもあっさりと断られているのだそうだ。

どうやら作者は徹底的に名誉欲の無い人物であるらしい。

そうなるとリヒャルトの手による演劇化もまた断られるかもしれないが、彼は非常に優れた腕前を持った高名な芸術家だ。

小説を流行させるだけではなく、舞台に関しても大ヒットを連発させているという実績を持っている。

リヒャルトの名前を出して私が交渉すればもしかすると、という可能性はゼロではなかった。

問題はどうやって作者とコンタクトを取るかだけれど……これに関してはクララの配下に探り当ててもらうことにしよう。


「ロートリベスタ様、仰せの焼き菓子が完成致しました」

「そう。ご苦労様。では、セルージュ家のカトリーヌ・ミュトラールさんにお茶の招待の連絡をして頂戴」


ページを捲りながらもマルチタスクでこの小説の作者について考えていると、侍女がマカロンが焼き上がったという報告に訪れる。

それを受けて、彼女をねぎらった私はカトリーヌ女史へと招待の連絡をするように命じた。

この前茶飲み話の中でいつでも招待してほしいと言っていたので、それがお世辞でなければ応じてくれるはずだけれど。

再び侍女が出ていく華奢な背中を見送った私は、目線を再び紙面へと落とした。









小説を読むという行為は、時間を潰すのに適している。

ましてやその小説が面白いものであるのならばなおさらだった。

蜘蛛の糸のように張り巡らされた伏線やミスリードにある種のスリルにも似た知的興奮を覚えながら私が読書に熱中していると、それを遮るように入り口の扉が外から叩かれる。

それが果たして誰で、かつ何の用件であるかは訊ねるまでもないだろう。


「ロートリベスタ様、ミュトラール様がおいでになりました」

「入っていただきなさい」


侍女が扉を開け放つと、廊下から濃い紫のドレスを纏ったカトリーヌ女史が姿を現す。

ゆったりとした歩調で入室してきた彼女は、テーブルの傍らにまで来ると侍女が引いた椅子に優雅に腰掛ける。


「こんにちは、サフィーナさん。お招き、感謝するわ」

「ごきげんよう、カトリーヌさん。こちらこそ招待に応じてくださってとても嬉しいですわ」


テーブルを挟んで向かい合う形になり、理性の強い光を宿したカトリーヌ女史の瞳が私のことを射抜く。

ラファエルとの和解によって多少柔らかくなったとはいえ、ともすれば威圧とさえ受け取られかねないだろう鋭い眼光とそれによる存在感は相変わらずだ。

微笑みを浮かべながら互いに挨拶を交わし合っていると、侍女が私達の前にティーカップとマカロンの乗った皿を並べていく。


「これはベルフェリートの菓子? 見慣れない形ね」

「はい。偉大なる我が国で最近流行している菓子ですの。せっかくですから、カトリーヌさんにも食べてもらおうと思いまして。手で取って口に運んでくださいませ」

「ふうん。あまり甘いのは好みではないけれど、どんなものかしら」


マカロンのレシピは知っているし、ベルフェリートから持ってきた原材料を使ってこの国で再現することは然程難しいことではない。

カトリーヌ女史はフェーレンダール流のもてなしをしてくれたのだから、私はベルフェリート流のもてなしをだ。

然程意外ではないが甘いものがあまり好きではないと言いつつ、彼女はマカロンへと手を伸ばす。

そして口元へと運んだそれへと歯を立てて三分の一程を小さく齧るカトリーヌ女史、そんな姿も美しさと仕草の上品さ故に絵になっていた。

それから何かを考えるような表情を浮かべさせつつ、口に含んだマカロンを咀嚼する彼女。

未知なる菓子が果たしてどんな味であるか、慎重に吟味しているのだろう。


「甘過ぎず、適度に香ばしくて美味しいわね。気に入ったわ」

「それは何よりです。まだ用意はありますので、存分にお楽しみください」


口の中のマカロンを飲み込むと、カトリーヌ女史はそう口にする。

アーモンドクリームによる決して甘過ぎない味わいと香りは、甘いものが好みではないという彼女の味覚にも見事に適合したらしい。

やはり、アップルパイではなくマカロンを選んだ私の判断は間違っていなかったようだ。

ともあれ、カトリーヌ女史がマカロンというお菓子を気に入ってくれたのならば何よりだった。


「ん……、茶葉も我が国のものとは違うわね」

「あら、お分かりになられますか? さすがはカトリーヌさんです」

「これくらい分かるわ。茶葉収集は私の趣味だもの。自慢ではないけれど、我が国の茶葉は全て網羅しているわ」


マカロンを食べた後ティーカップに手を伸ばして中身を口にした彼女は、含んだ紅茶を飲み干すなりそれがフェーレンダール産の茶葉ではないと見抜いてみせる。

カトリーヌ女史の舌と鼻を称賛すると、茶葉集めが彼女の趣味なのだという。

なるほど、それならば確かに紅茶のテイスティング程度容易くこなしてみせるだろう。

彼女の言う通り、ベルフェリート流のもてなしの一環として茶葉もベルフェリート産の上質なものを淹れさせていた。


「でしたら、後程我が国の茶葉を差し上げましょうか?」

「構わないのかしら。それならば、私も収集品の一部を貴女に差し上げるわ」

「ありがとうございます。カトリーヌさんのおすすめの茶葉を賞味するのが楽しみです」

「ふふ、可愛いサフィーナさんにですもの。いくらでも分けてあげるわ」


茶葉コレクターというのならば、きっとベルフェリート産の茶葉も欲しいはずだ。

そう考えて私がベルフェリートから持ってきた茶葉をプレゼントしようかと提案すると、優しい笑みを浮かべたカトリーヌ女史は返礼として自分のコレクションの一部を分けてくれるという。

フェーレンダール産の茶葉を全て網羅したと豪語しているからには、コレクションの中身も相当なものであるはずだ。

その中から分けてくれるという茶葉もきっと美味しいに違いないだろうと、帰国後にアネットに淹れてもらい飲むのが楽しみになった。


「ところで、カトリーヌさんはマリア・カルヴィーニさんという方をご存知ですか?」


お茶会のついでにカトリーヌ女史に頼もうと思っていたことが一つあったので、私は話を変える。

昨日同じようにこの部屋に招いた私の友人、マリア嬢についてのことだ。


「挨拶くらいは以前交わしたことがあるわ。随分と怖がられていたけれど。それがどうかしたの?」

「彼女はとても地頭のいい方です。ですから、勿体無いなと思いまして」

「なるほど。貴女が教える訳にはいかないし、その時間も無い。だから私に代わりにあの子を教育してほしいというのね」


マリア嬢はとても地頭がいい少女だが、それに相応しい程の水準の教育を受けているとは言えない。

かといって私が教育する訳にもいかないのだが、フェーレンダール王国にはまさに彼女の教師になるに相応しいと言える人物が一人いた。

それが誰であるかは言うまでもない、並外れた明晰さの持ち主であるカトリーヌ女史である。

つまりはカトリーヌ女史にマリア嬢のことを託そうという算段なのだが、そんな私の思惑をさすが彼女は簡単に見破ってみせる。


「さすがカトリーヌさんですね。まさに仰せの通りです。マリアさんのこと、お願い出来ませんか?」

「他にすることも無いから別に構わないけれど……私のことを怖がっているあの子に私が付きっきりになるのは可哀想かもしれないわよ」

「それについては私から話しておきます。カトリーヌさんは優しい方だと」

「私が優しいのは貴女にだけなのだけれどね。ふふ、まあいいわ。その貴女の頼みなのだもの、引き受けてあげましょう」

「ありがとうございます。そう仰っていただけると思っておりました」


貴族とは言っても半ば隠棲している身であるカトリーヌ女史には時間は山程ある。

その時間を使ってマリア嬢の教育をお願いしたいという私の頼みを彼女は引き受けてくれた。

カトリーヌ女史に手塩にかけて育てられれば、きっと知性と優雅さを併せ持った一流の貴族に成長してくれるはずだ。

――これで、この国に私が残した憂いは全て無くなったのだけれど。


「それはさておき、貴女も私の書いた小説を読んでいるのね」

「カトリーヌさんが?」

「そこに置いてある本、それは私が書いたものよ。匿名で発表したから、出版社の人間しか著者が私だと知らないけれど」


何しろ書くための時間はいくらでもあるものだから、とカトリーヌ女史。

彼女が指し示しているのは、昨日マリア嬢が目を輝かせて熱く語っていた件の小説だった。

要するにカトリーヌ女史は、この国で今流行しているこの小説の匿名の著者は自分だと言っているのだけれど。


「そうなのですか!?」

「ええ。暇は有り余っているから書いてみたのだけど、思っていた以上に流行したわね。癖の強い小説だから、これ程に流行るとは考えていなかったわ」

「その癖が、かえって読者の心を掴んだのでしょうね。私もまだ途中までしか読めておりませんが、この完成された構成美には感嘆するばかりです」

「ありがとう。出版社の人間が早く続編か次回作をと急かしてきているのだけれど、マリアさんを教育するのならば予定を延期することになりそうね」


まさか匿名で作品を発表していた作者がこんなに近くにいたとは、思ってもみなかった。

――いや、よくよく考えてみればその可能性はあった。

貴族でありなおかつ頭脳明晰であるカトリーヌ女史にはあの小説を書けるだけの素養があるし、これといってしなければならないことのない彼女には書くために必要な十分な時間もある。

確かにカトリーヌ女史がこの小説を書いたのだと言われれば、何の違和感も無く納得することが出来た。


「マリアさんはこの小説の大の信奉者です。カトリーヌさんが著者だと知れば喜ぶのではないでしょうか」

「それが信用を得るには手っ取り早そうね。そうしましょうか」


マリア嬢が大好きな本の著者が実はカトリーヌ女史だったとは、何たる奇遇だろうか。

世の中は案外狭いものだなと実感しつつ、私はマリア嬢が小説の熱烈なファンだと彼女に教える。


「カトリーヌさんが著者だったならば、一つ提案というかお願いしたいことがありますの」

「何かしら? 小説絡みのことでしょうけど、言ってみて頂戴な。受けるかどうかはそれからよ」

「この小説を我が偉大なるベルフェリートで演劇化して上演しようと思っておりますの。許可をいただけませんか?」

「何故わざわざ私の小説を? そちらの国にも流行の小説くらいあるでしょう」

「だからこそ、です。我が国で流行小説を量産しているのは、私が庇護者を務めているリヒャルトという芸術家ですの。ですから、その者にこの作品を見せたらきっと刺激になるだろうと思いまして」


リヒャルトは諸芸に通じた生粋の芸術家である。

だからこそ、彼にこの作品を見せてどんな反応を見せるかを知りたかった。


「そうね……可愛い貴女の頼みだから聞いてあげたいところだけど、悪いけれど断らせてもらうわ」

「どうしてですか? 原作者として、報酬がカトリーヌさんの手元に届くようにきちんと差配致しますわ」

「私の元にも国内の劇団から演劇化の依頼が無数に届いているわ。けれど、全て断っている。何故かは分かる?」

「何故でしょうか?」

「私の作品を忠実に再現するのは不可能だと分かっているからよ。ならば、最初から演劇化などしない方がましでしょう?」


なるほど、カトリーヌ女史が舞台化を断る理由もよく理解出来る。

確かにあれ程緻密に繊細に作り込まれた硝子細工の如き作品なのだ、それを忠実に舞台にすることがどれだけ難しいかは作者ならば容易に分かるはずだ。

なればこそ、彼女は無数に届いているという依頼のことごとくを断っているのだろう。

元より貴族であり生活には全く困っていないのだ、上演に伴う原作料を貰う必要も無い。


「ましてや、そちらの国で上演するのならばベルフェリート語に翻訳せねばならない。そのような過程を経ていてはなおさらのこと不可能でしょう?」

「それならば、ベルフェリート語への翻訳は私が自ら行うつもりでおりますわ。舞台演出はリヒャルトが全面的に担当します」

「そう、貴女が翻訳を。確かにサフィーナさんならば忠実に本文を翻訳してみせるでしょうね。けれど、そのリヒャルトという芸術家の実力はどんなものなのかしら。それが分からない限り許可は出せないわね」

「では、リヒャルトが書いた小説を読まれますか? ちょうど持ってきておりますの。翻訳をする時間がありませんので、この場で私が訳しながらお聞かせする形になりますが」

「サフィーナさんがそうまで評価する芸術家に興味が無いと言えば嘘になるわ。ぜひ読み聞かせて頂戴な」


私の提案に、興味を持ったカトリーヌ女史が狙い通りに食いついてきた。

ちょうど、フェーレンダールまで来る間の暇潰しに馬車の中で読むためにリヒャルトの小説本も何冊か持ってきていたのだ。

何でもよいのだけれど……ここは戦記である『硝子細工のあなた』よりも純粋な恋愛小説である『花の大河』にしようか。

奇しくも貴族の男性が平民の娘を見初めるという題材が同じ(人気のあるありふれた題材なので被っても何も不思議ではないのだけれど)であり、その方がカトリーヌ女史の恋愛小説を舞台化するに当たってのリヒャルトの能力が分かりやすいだろうし。

椅子から立ち上がった私は、執務机の方に向かうと引き出しの中から一冊の単行本を取り出す。

そして、それを持って自分の席へと戻った。


「では読ませていただきますね。花の大河、著:リヒャルト・エルヴェール」


まずタイトルと著者名を読み上げると、私は本文を読み上げ始めた。

リヒャルトが書いて印刷技術によって大量生産された文章はベルフェリート語によって記されている、当然のことだ。

しかし国外に出たこともないという生粋のフェーレンダール人であるカトリーヌ女史はベルフェリート語を全く解さない訳で、彼女に読み聞かせるためにはフェーレンダール語である必要がある。

つまり、私はベルフェリート語によって書かれた文章をフェーレンダール語に即興で翻訳しながら音読を行っていた。

これにはベルフェリート語とフェーレンダール語双方へのそれなりに深い見識が求められるけれど、その程度の語学力なら持っている。

ベルフェリート語に関してはネイティヴであるし、フェーレンダール語も自分で言うのもなんだが通訳無しで正使の仕事を務められる程度には堪能だ。

そして私は時々紅茶で喉を潤しつつ、音読を進めていく。

ちらりとカトリーヌ女史の表情を窺うに、彼女もなかなかに私が読み上げている物語を楽しんでくれているようだった。

実際、翻訳をしている私から見ても『花の大河』は面白い。

リヒャルトの作品らしくシナリオがよく練られていて魅力的であるし、恋愛小説として登場人物達の心理描写も繊細に行われている。

既に目を通し終えて全文を暗記している作品ではあるが、それでもこうして改めて読み返すと面白く感じられた。

物語の盛り上がりどころに差し掛かると、自然と読み上げる口調にも熱が籠もる。

やがてクライマックスのシーンが終わりエピローグに入ると、はらはらとしていたのかぎゅっと握り締められていたカトリーヌ女史の手が解かれた。

結末まで全て知っている私でさえ二人はどうなってしまうのだろうかと思ったくらいなのだから、今日初めてこの物語を鑑賞する彼女はなおのこと先が気になっただろう。

最後の一文を読み終えると、私はカトリーヌ女史の作品には到底及ばないけれどそれなりに分厚い『花の大河』の冊子を閉じる。

すると、感動の余韻を味わうかのように室内には静けさが広がった。


「率直に言って、非常に面白かったわ。甘過ぎるくらいに甘く、それでいて物語も魅力的。さすがはサフィーナさんが評価する芸術家ね。けれど、私とは作風が全く異なっている」

「そうですね」


しばらくして、静寂を引き裂くようにカトリーヌ女史が感想を口にした。

彼女の言う通り、カトリーヌ女史とリヒャルトとでは作風が似ても似つかない程に異なっている。

というよりも、薄氷で構造物を組み立てていくかのように韻を踏みに踏む彼女の作風は特殊過ぎて作風が似ている作家は滅多にいないのではないかと思うのだけれど。


「だから、リヒャルトというその作者が演出を担当しても私の原作に忠実な演劇にはならないでしょう」

「そうかもしれませんね」


カトリーヌ女史の指摘は、私にも可能性として認識することが出来た。

それはあたかも、赤と青を混じらせれば紫色に変化するかのように。

文筆家としての個性を持ったリヒャルトが同じように個性を持ったカトリーヌ女史の作品の演出を手掛けても、互いの個性の衝突故に上手くいかないかもしれない可能性だ。

ということはつまり、私のプレゼンにもかかわらず彼女は首を縦に振ってはくれないということだろうか。


「いいわ、許可しましょう。どんな風になるのか、この物語を書いた人物が手掛けた私の作品を観てみたくなった」

「いいのですか?」

「ええ。ただしそのリヒャルトという人物が演出を、貴女が戯曲の翻訳を全て行うのが条件よ。他の人間がこれらの作業にわずかでも関わることは許さないわ」

「かしこまりました。私が責任を持って全てベルフェリート語に翻訳させていただきます」


リヒャルトが舞台演出を、私が原作のベルフェリート語訳を一人で担当することを条件にカトリーヌ女史は許可を出してくれた。

もちろん、それで許可を出してくれるというのならばこちらに否やはない。

何百ページにも及ぶ膨大な韻文を韻文という性質のままベルフェリート語に訳すのはほとんど不可能に近いと言える程の難行だったが、元々この企画を言い出したのは私なのだから私の能力の限りを尽くして何としても成し遂げてみせようではないか。

私の語学力を信頼して翻訳を一任してくれるカトリーヌ女史の信頼に応えるためにも。

きっとベルフェリートに帰国してこの話をしたらリヒャルトもやる気を出すのではないだろうかと思いつつ、私は決意を新たにする。


「ところで、一つカトリーヌさんに尋ねたいと思っていたことがありますの」

「何かしら、サフィーナさん」

「この小説の題名は何と言うのですか?」


カトリーヌ女史がこの小説の作者だと知った時からずっと尋ねたいと思っていたこと。

それは、彼女が書いた小説の題名だった。

この小説は作者が誰か知られぬよう匿名で世間に発表されているけれど、作者名同様に題名も表紙に表記されていないのである。

そのため人々は各々の好きなようにこの小説のことを呼んでいるのだが、カトリーヌ女史の名付けた正式な作品名は何なのだろうか?


「題名、ねえ。大した関心も無いから考えたことも無かったわ。読み手が呼びたいように自由に呼んでくれればそれで構わないわ」

「そうは言いましても、演劇化するからには題名がありませんと……」


どうやら、この小説に正式名は存在しないらしい。

地球でも古い時代の文学作品にはタイトルが無いことも珍しくないけれど、それと同様なのだろう。

だが、小説であるうちはそれでよくても舞台化するとなったらそうはいかない。

何しろ客を集めるために宣伝をしなければならないのだから、そのためには作品名が必要だった。


「それなら、サフィーナさんが適当に名付けて頂戴」

「別にそれでも問題はありませんが……これ程の作品なのです。私としてはカトリーヌさんに名付けてもらいたいと思います」


もちろん私がベルフェリート語版のタイトルを勝手に付けるという手もあるし、カトリーヌ女史もそうしてくれればいいと言っている。

しかしながら、これ程までに緻密な作品なのである。

その一部である表題を私が名付けることは気が進まなかったし、カトリーヌ女史が自らネーミングするべきだと私には思えた。


「そうね、貴女がこの国に滞在しているうちに考えておくわ。それより、初演には必ず私を招待して頂戴ね。楽しみにしているから」

「もちろんです。カトリーヌさんには必ず招待状をお送り致しますわ。その折には、ぜひベルフェリートにいらしてください」


演劇化も一朝一夕で果たせる訳ではないし、演出や戯曲の翻訳以外にも音楽の作曲や役者の演技練習などそれなりの時間が必要になる。

それらが終わる頃にはロートリベスタ家領の統治機構もある程度整い、繁栄している我が領土を見せることが出来るだろう。

そんなことを考えながら、私は此度のフェーレンダール訪問で友人の一人となったカトリーヌ女史をベルフェリートに招待することを約束したのだった。

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